第35話 雅美、蓼科へ-3
二階の住居部分は、玄関を上がってすぐのところが台所になっていました。台所にはガラスの引き戸があり、私はその奥の和室に通されました。六畳くらいかな。和室には更に二ヶ所襖があって何部屋かあるようでした。磯部さんは農道に面した窓のガラス戸を一杯に開きました。すると一気に蛙と虫の大合唱と山から吹いてくる涼風が部屋に入ってきました。磯部さんは台所へ戻りコップを二つと冷蔵庫から麦茶を持ってきてくれました。
「突っ立ってないで、座んなさい」
はいと返事をし、まずは急な訪問を詫び、掻い摘んで用件を伝えると、
「何もないが飲んでくれ。それでここまで来たんかね。で? 今更、朝比奈さんがどういう?」
「はい、私はひょんなことから紀子さんという方が祖父と、その、そういう関係だったことを知りまして、今、紀子さんと息子さんのことをもっとよく知る手掛かりを求めてるんです」
「あんたん家の人に聞けばいいだろうに」
「それが、その、教えてくれないもので」
磯部さんは苦虫を噛んだように唇を曲げはしたものの、「それもそうかな」という表情を見せ、
「東京の料理屋で働いとるっちゅうのんは聞いていた」
「料理屋で」
「んが、まさか、どこぞの妾になっとるっちゅうとこまでは」
「あまり連絡はなかったんですね」
「そういう相手がいたっちゅうのんが、あいつの、そもそもの不徳っちゅうもんだ」
磯部さんは吐き捨てるように言いました。
「それが私の祖父だった」
「全く聞いてないのかい」
「はい、全く」
「そうかい。知らされた頃には子もあった。俺ゃ、そんなの全然知らなかった」
「こちらのご実家へ引き取られたそうですね」
「あいつが亡うなったからな」
「こうたくんですよね」
「ああ」
「どういった経緯でお知りになったのですか」
「あいつから電話がかかってきた」
「電話が」
「『何かあったら息子を頼む』と言ってきた」
「二十六年前ですね」
「そうなるな。今年二七回忌だから。で、そのあと、お宅の会社から連絡が来て、紀子が『亡うなった』と。『気が触れて焼身自殺した』と。ふん!」
「気が触れて。。。」
「ふん」
「納得されていない。。。」
「ふん。俺は毎日客商売やっとるから、様子のおかしい、おかしくないはすぐわかる。思い詰めてはいたが、あいつは病んでなどいなかった」
すーっと霧が晴れて視界がひらけたように感じました。医学的な根拠は兎も角として、こうも断言する人に初めて出会えました。清々しさを感じました。正直言って、私には紀子さんが病んだことに、祖父の孫として負い目がありました。気が触れていたことは、どれも噂だったり聞いた話だったりで、不確かなものであったことに私は今更ながら気がつくのでした。
「それで、磯部さんは息子さん、耕太さんを引き取りに逗子へ」
「ああ」
「最後に一つだけいいですか」
「なに」
「息子さんは今はもうこちらには?」
「いや、おらん」
「いらっしゃらない」
「そう言ったろう」
「お元気なのですか」
「ああ」
「今はどちらに」
「東京」
「東京のどちら?」
「知らんね」
「写真か何かおありですか」
「ちょっとねえ!、あんた!」
磯部さんは、こいつは何故こうも色々畳み掛けるように聞いてくるんだという顔でそう言い放ちました。が、それでも、わざわざこの時刻にウチへやって来て質問攻めにするからには何かあると思い直したのか、座卓の麦茶を飲み干して呼吸を整えこちらを見据え、
「なんで?」
「もしかしたら、私、甥御さんを知っているかもしれません」
磯部さんの顔に少し緊張が走りました。磯部さんは私を物差しに測るような目で見ています。
「写真、お見せくださいませんか」
「昔のしかないが」
「それで結構です」
「ちょっと待ってな」
磯部さんは襖を開けて隣の部屋へ写真を探しに行きました。開いた襖越しに仏壇が見えました。どなたの仏壇なんだろう。長押のあたりに遺影がかかっていましたが暗くてよく見えませんでした。紀子さん、今年で二七回忌か。そうなるのか。そうなるな。一分、二分、隣の部屋で引き出しを探す物音。柱の時計がコツコツ、コツコツ。これらの音が私の心臓を突き刺してきました。磯部さんが戻って来ると、
「こんなもんしかないが」
「ありがとうございます。拝見します」
写真屋さんで現像してもらうとついてくる緑色の紙でできた写真アルバムでした。全部で十枚ほどが収まっていました。最初の写真は、どこかの風景をバックにしたものでした。綺麗な女性と見るからに利発そうな男の子が並んで写っていました。
「こちらは紀子さんですか」
「ああ」
見た所、紀子さんは三十歳前後、スタイルは抜群で長い黒髪が美しく肩に広がっていました。見るからに優しそうな二重の目、スッと伸びた鼻に口角の上がった口元。ようやくお目にかかりましたね、紀子さん。この容姿からはおよそ気が触れた様子は見られません。磯部さんの言うように嘘ではないかと思えてきました。そして、こうちゃん。小学校に入りたてかな。二人とも顔が良く似てる。利発そうな目は祖父に似ているような気がしました。でも、スッと伸びた鼻といい口角の上がった口元といい、これはどう見ても母親譲り。写真でわかるくらいサラサラした髪の毛、チェックの半ズボンにポロシャツ。どこかに旅行でも行っているのでしょうか。二人とも楽しそうに笑顔でこちらを見ています。もしかしたら写真を撮っているのは祖父かも。近所のスーパーのおじさんから『日陰の家庭だ』と揶揄されながらも、逞しく母子ともに幸せそうに暮らしていた様子が手に取るように伝わる写真でした。
もう一度、こうちゃんをよく見ました。人懐っこそうだけど少し臆病そう、でも爽やかな笑顔、少し濃い目の眉毛に、細面でシュッとおりた頬骨。たぶん二十年くらい前なんだろうな。すると今は?
「あの、甥御さんですが、今、身長はどれくらいですか」
「百七十五くらいだろうと思う」
「体格は」
「どちらかといえば細い方だ」
「今も面影を残しているのは、この写真のどの辺りでしょう」
「そうねえ、目かな」
「目。。。人懐っこそうな印象ですよね」
「そうねえ、でも内気なところも出てると思う」
「内気。。。引っ込み思案だったり?」
「そういうところあんねえ」
「親しくなるとそういうところは気にならなくなるとか」
「仲が良くなると社交的だな」
外から聞こえる蛙と虫の大合唱はもはや私の思考を邪魔だてしなくなりました。
よく見ると子どもの首筋に黒い斑点のようなものが。汚れかなと思って指で払おうとすると磯部さんは、
「それは、黒子。ちょっと大きめで目立つから本人は嫌がっていた」
え?
「甥御さんは、何か癖みたいなものはありましたか」
「癖?うん、しょっちゅう首をかしげて襟で黒子を隠そうとするな。貧乏くさいからやめろと言うんだが、なかなか癖ってもんは治らんもんで」
癖。
「磯部さん、甥御さんは、父のことをどんな風に思っていますか」
「どんな風というと?」
「あ、えっと、朝比奈家に対してどう思っているかという意味です」
「よくわからんな」
「。。。つまり、、、こうたくんにとって父の重蔵、私にとって祖父ですが、重蔵が亡くなり、母がどういう形にせよ亡くなってしまい、独り残されてしまったわけですよね」
「君の父親の社長さんだったかな、彼は一切の関わりを絶つために金を持ってきた」
「やはり」
「むろん、そんなものは要らんと言ってつき返したよ。そのやり取りをあいつは知ってる」
「甥御さんは朝比奈家に対してよく思っていませんね」
磯部さんは、しばらく逡巡し、
「そんな素振りは俺に見せないが、わざわざ東京へなぜ行くのか、俺はあえて聞かんかった」
ああ、なんということ!やっぱり“脳には思ったことを現実にする力がある”んだ!
「磯部さん、こうたくんが東京へ出て行かれたのはいつ頃?」
「去年」
合致しました。こうたくんは父に接触している。接触するだけでなく、おそらく。。。
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