第22話 夫婦喧嘩は獅子も喰わない 2

若い活気に満ち溢れていた広いカフェテラスは今や、訳の分からない緊迫感に呑まれていた。

 誰もかれもが固唾を飲み、突然現れた美女と、この後の成り行きを息を詰めて見守っている。

 

「ハーイ! レオ、どうしたのその顔。相変わらずいい男だけど、ちょっと雰囲気だらしなくなったんじゃない?」

 アナスタシアと名乗った女はにぃっと大きな笑みを浮かべながら、その光の強い目を野人から、横で縮こまる人間の娘に移した。ムツミが射すくめられたように肩幅を狭めた。

 そう、誰もが分かる。

 彼女――アナスタシアは紛れもなく野人の女だった。

 大柄で、力強く、そして高圧的に美しい。色素が薄いのに彼女の印象は、強烈を通り越して最早暴力だった。

「……アナ。なんでここにいる?」

 レオは低く唸った。白い犬歯が覗く。

「まぁご挨拶ね。あなたを追っかけてきたに決まっているじゃない」

「俺は逃げた覚えはない」

「あら? じゃあ尚いいじゃない」

 アナスタシアは白いテーブルに片腕をついて笑みを深くした。形のいい尻を晒された背後の男はおろおろと視線を泳がせている。

「俺はお前の|相方(パートナー)はやめると言ったはずだ」

「あらそう? でも私はあなたにやって欲しい事があるのよ」

 野人の女の瞳が美しくも剣呑に輝く。

「何だ……うぐ!」

 女はいきなりレオの後ろ髪を掴むと自分に引き寄せ、口づけた。

 おおおおおっ!

 いきなりつけつけられる迫力満点のキスシーン。周囲の炭酸ガスの濃度が一気に上がる。

 あのレオが女の行動を避けられなかったのは、その速度と力が彼と同等のものを保有していたからに他ならない。野人の女の実力は、時として男を凌ぐと言う事なのか、それとも経験の差か。

「やめろ! 何が目的だ!」

 何とか身を振りほどいてレオは口を拭った。アナスタシアは動じない。

「子どもを産みたいのよ。ほら、私もいい歳だし?」

「……」

 ただでさえ固まった空気の流れが更に凍りつく。

 陽もまだ高い内から口にするセリフか? その場の誰もが心の中でそう突っ込んだはずだった。

「あああああのレオ君っ! なんだか込み入ったお話のようだから……私失礼するわね?」

 今まで大きな塊に押しつぶされそうになっていたムツミが、よろよろと立ち上がりレオに背中を見せる。三つ編みが心細げに揺れて――レオは咄嗟にその手首を掴んだ。が――

「嫌っ!」

 普段大人しいムツミの明確な拒絶。

 レオが怯んだすきにムツミは手首をもぎ離して駆け去る。

「ムツミ! 待って! 行くな」

 レオの叫びも虚しく、その姿はあっという間に見えなくなった。立ち上がってムツミを追おうとしたレオが、その場から動けなかったのは、銀色の美女に腕を絞められていたからだ。握るではない――まさにそれは絞めると言うにふさわしい、拘束の仕方だった。

「放せ! アナ!」

「放さないわ。あの人間は何?」

「お前に関係ない!」

 太い手首が華奢なテーブルに縫い付けられている。押さえつけているのは、細く白い女の指である。

「あら? ずいぶん隠すのね。ひょっとして……ひょっとするのかしら?」

「違う!」

「まさか……人間なんてね……無理よ。あきらめなさいな」

「馬鹿言え! 放せ!」

「オジョウサンヲボクニクダサイ」

「何?」

 謎の言葉にレオが一瞬鼻白む。

「ほらね。こんな言葉も理解できないようじゃ、とても無理。人間には私達には理解できないような複雑な段取りがあるのよ」

「知るか! そんなもん! 俺のムツミに何かしてみろ! ただおかねぇ!」

 犬歯をむき出しにしてレオが唸った。闇でもないのにその瞳が燃え上がっている。

「しないわよ。私は子どもが欲しいだけ」

「俺はお前のつがいじゃない!」

「私もあなたのつがいになった覚えはない」

「なら放せ!」

 レオはもがきながら叫んだ。しかし、それほどまで激昂していても、女から逃れられないのだ。女は冷静に、効果的にレオを捕えていた。

「放してほしければ腕づくでどうぞ?」

「くっ!」

 その朝たまたまカフェテリアに集っていた人々は、世にも珍しい光景に魅入られている。

 彼らの中でも最も大きな男よりもさらに一回り大きな野人が、女を振り解けないのである。

 彼女は確かに大柄だが、それでもレオよりかは一回りほど小さい。しかも凹凸の激しい魅力的な体つきだが、基本はすらりと細身なのに彼女は片腕で男を押さえているのだ。

「放せ! これ以上やると本気で組むぞ!」

「あら、嬉しい。本気で私を組み敷いてくれるのね?」

「……!」

 最早言い返さずにレオは体を沈ませてテーブルを蹴り倒すと、やっと放れた腕を取り返し、大きく体を捻った。返り身で渾身の蹴りを入れる。女相手にまったく手加減はない。

 だが――

 アナスタシアはひらりと背面跳びでレオの蹴撃を躱し、躱しついでに恐ろしく先の尖ったブーツでレオの鳩尾に逆にトゥーキックをかました。

「ぐあ!」

 急所を的確に攻められてレオがよろける。背後の配膳カートがぐしゃりと潰れ、食器や料理の飛び散る耳障りな音が響いた。その近くにいた者はとっくに緊急避難していて難を逃れている。

「このクソ婆ぁ! お前の所為でムツミに嫌われたらどうしてくれる!」

「知らないわよ」

「……っ!」

 ばりん! レオが投げた卓が、さらりと避けたアナスタシアの背後で木っ端みじんに砕けた。

「ははは! なにそれ。そんなんでよくハンターが務まるわね! まだ私のご指導が必要なんじゃない?」

「うるせぇっ!」

 体勢を立て直したレオが女に飛び掛かった。その後はもう修羅場である。物が壊れ、悲鳴が飛び交い、平和な構内のカフェテラスはさながら地獄絵図と化した。

「さっさとくたばりやがれ! クソババァ!」

「甘いわ! 若造!」

 罵り合いの応酬も凄まじく。時々皿やナイフまでが宙を飛ぶ、運のいい者は出入り口から逃れたが、奥にいた人たちは壁際に退避し、テーブルや椅子などで防御している始末である。

「お前の所為でせっかくムツミと過ごせた貴重な時間が台無しだ!」

 レオは左右にパンチを繰り出しながら叫んだ。それらをことごとく外しながら美女は笑う。

「はぁ? なんだって? 聞こえないわねぇ。ほほほほほ」

 長い銀の髪が華麗に舞った。

 

 冬色の並木道をムツミはとぼとぼと歩いていた。

 講義に出席するつもりだったが、その意欲はとうに失せている。頭の中では、さっきの女の言葉が幾度も繰り返されていた。

『子どもを産みたいのよ』

 あれって、レオ君との子どもって意味だよね。どう聞いても。

 つまり――

 二人はそういう間柄だという事だ。多分、自分と出会うずっと前から。

 よく分からないが、あの人間離れした雰囲気やら体格、彼女はおそらくレオと同じ人種、野人なのだと思う。

 すごく、すごくきれいな人だったな。

 銀色の美女。金色のレオの横に立つ女性として、これ以上相応しい絵柄はないだろう。

 それに比べて自分は人間の女としても並み以下の見てくれである。多すぎる髪はそれでなくても真っ黒で、どんな色にも染まってくれないし、短髪にすると広がるのでお下げにするしかない。視力は悪いが、簡単な手術をするお金もないから常にグラスで矯正している。肌はつるりとしているが血色は悪いし、体つきに至っては、もう少し育てばいいのにと思う部分が多くて、女らしい服装はとてもできない。

 レオ君はどうして私が好きだなんていったのだろう?

 あの言葉が嘘とは思えない。彼は嘘をつける人じゃない。

 それだけは確信できた。しかし、

 きっと私の知らない事情があるんだ。

 レオと出会ってから野人の事を少し走るようにはなったが、野人云々よりも、レオだから好きになったのであって、あまり深くは考えなかったのだ。それが間違いであったのか?

 つまり、野人と人間が結ばれると事は、もしかすると禁忌に属することになるのかもしれないのだ。

「あわわわわ」

 そこまで考えてムツミは焦った。

 結ばれるって! それって私とレオ君がどうにかなるって前提で考えてるよね!

 人間の恋人同士なら、普通は双方の同意のもと、付き合って結婚して夫婦になって、子どもを……

「いやいやいや! 飛ばし過ぎだし! 恋人にだって、まだなったばかりで……こいび……エヘン!」

 余程混乱したのか、無意識に声に出して喋っている。

 しかもいつの間にか、うろたえるべき点が、美女とレオとの事から微妙にずれていた。妙なところで冷静なムツミである。

 気が付くと図書館の付近にいた。

 落ち着け、落ち着け私。少しゆっくり考えよう。

 この世界では珍しい赤レンガを模した図書館は、ムツミのお気に入りの場所の一つだった。

 エントランスを抜け、最先端の広い電子資料室が並ぶ奥に余り知られていないセピアの本の国がある。

 天井まで伸びた書架は既に壁の一部だ。それを巡る回廊、階段は磨き抜かれた貴重な木材でできている。そして、古今東西の本、本、本。

 その多くは旧世界の遺品だという。これだけ膨大なデーターが保存され、身に着けた端末でいつでもどこでも好きな時に見れる時代なのに、この街にはこの世界唯一の図書館が存在している。

 無論端末からでも内容は見られるが、本の価値と言うものはそれだけではない。装丁の美しさや、紙の香りを楽しみながら古色のついたページを紐解く事にも十分意義はある。人間が長い歴史の間に積み上げてきた習慣は、そんなにすぐに捨て去れるものではないのだ。

 ムツミは目についた一冊の書物を抱えていつもの一隅に落ち着いた。書架に隠れたくぼみにムツミの席はある。

 ついさっき見たキスシーンや刺激的なセリフの為か、自分の不毛な思考の所為か、表紙を開けても文字面はなかなか頭に入ってはこない。それでも、古い字体やページを捲る時に起きる僅かな空気の揺れを感じている内に、あんなにざわめいていた気分が少しずつ収まってくるのを感じる。

 ムツミは椅子の上で本を挟んで膝を抱えた。

 私はレオ君が好き。レオ君も私のこと好き。これは間違いじゃないと思う。

 でも――

 ムツミはジャパネスク・シティ特有の縦書きの文字を指でなぞった。

 でも、私は野人じゃない。レオ君とは結ばれない。多分。

 だからこれはヤキモチだ。間違いなく。以前にも感じたことがある。あれは実習中だったっけ。

 野人の運命の人は、つがいと言う存在だと前にレオに聞いた。つがいとは同種で結ばれるものなのだろう。少なくとも生物学上はそうだ。

 もしそうだとしたら、私はレオ君のつがいにはなれないね。

 そう思ったとたん、目と鼻の奥がつんと痛くなった。

 凪いだと思っていたのは心の表層だけで。

 あのきれいな人……アナさんって呼ばれてた――あの人は、レオ君の子どもを産みたいって。あの人がレオ君のつがいなのかしら?

 きれいで、大きくて、多分強くて――大きなレオ君の子どもを産める体つき。

 子ども……赤ちゃん

 自分が子どもを産む日が来るなど想像もできないムツミだが、それでも教師を目指すくらいなのだから子どもは大好きである。

 レオ君だって……あれで案外子ども好きなんだし、いつかは自分の赤ちゃん欲しいと思うよね……

 目の奥の痛みがどんどん酷くなる。それは胸のあたりにまで下りてきて、ムツミは思わず身を縮こませた

 あっと思った時にそれは決壊し、涙の滴となって心の外側にあふれ出た。

「レオ君……」

 あふれた思いは言葉になってこぼれた。

「私がつがいだったら、よかったのに……なぁ」

 

 

 

 

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