第21話 夫婦喧嘩は獅子も喰わない 1

そして季節はゆっくりと歩を進める。

 朝早いキャンパスは、梢の間の露が細かい粒子となって空気に漂っていた。

 すっかりコートの要る季節だが、冷たさも含めてムツミはこの季節が好きだった。

 三日ぶりの待ち合わせは、文学部ゾーンの裏手にある門である。ここは朝遅い学生が多いので、今の時間は人気がない。

「ムツミ」

「レオくーん。おはよう!」

 竜のようなバイクを無造作に止めて、レオは駆け寄ってきた。見えない尻尾がちぎれるように振られているのが目に見えるようである。

「むっちゃん!」

 レオはムツミに抱きつこうとして両手を広げたままぴたりと停止した。自分の大きさで思い切り抱きついては、ムツミは確実に潰れてしまう。ここは優しくそっと抱きしめなければいけないのだ。余裕のある大人の振りで――

 できるかよ!

 レオはやせ我慢を早々に放棄した。すっかり葉の落ちた木立を、白いコートとふわふわの耳あてをつけて嬉しげに駆け寄るつがいを見て、我慢できる野人の雄はいない。まさに捕食されるために現れた餌のようなものだ。レオは無防備に近寄ってきたムツミを引き寄せて、門の内側に回り込むと、潰さないように気を付けながら腕の中に抱え込んだ。

 幸いレオに知覚できる近辺には誰もいない。恥ずかしがり屋のムツミも許してくれるだろう。

「会いたかった……」

「うん……私も……でも、冷たくない? 私」

「ない。暖かい。あったかくて柔らかい」

 レオは足の間につがいを挟んで大きな体を押しつける。それだけで昇天ものである。ムツミは少し苦しそうだ。でも嫌がられる様子はない。

「気持ちいい……」

 少し湿った丸い頬に自分のそれを擦りつけてうっとりと囁く。おかげでムツミの眼鏡グラスがずれてしまった。

「ちょ……わぁ! 落ち……」

 難なくこぼれたグラスを受け止め、胸にしまい、これでいいだろうとレオは盛大に頬ずりを再開した。本当は別の場所も擦り付けたいのだが、それは流石に我慢する。野人の本能をも越えるつがいの威力である。

「むぐ……三日ぶりだね。お仕事はもういいの?」

「少し空いた。だから学校だいがくに来たんだ」

 ムツミに腕を突っ張られて少しだけ腕を緩める。おかげでようやく顔をゆっくり見ることができた。頬ばかりか、耳まで真っ赤である。寒さの為だけではないだろう。

 ああ、早く全部味わってしまいたい。骨まで残さず喰らいつくしたら少しは安心していられるだろうか? 

 野人なりの比喩である。

「食べたい」

「ああ、お腹が減っているのね?」

 もちろん人間のムツミは至極まっとうな答えを返した。

「後で何か食べようね……今日は一緒に授業受けられるの?」

 レオの物騒な心中は知らず、ムツミは恥じらいながら顔を上げる。それが野人を煽るだけとも知らないで。

「そうでもないんだけど……な? ムツミ?」

「はい?」

「キスしたい。キスさせて。おはようのキスとか言うんだろ?  俺知ってんだ」

 レオは最近キスと言う言葉を覚えた。それまでは「口を吸う」という露骨な表現をしていたので、ムツミが教えたのだ。

 以来、野人はムツミの嫌がる人前以外なら、どこでもキスを強請ねだる。大きくて強い彼が子供のように物欲しげに擦り寄ってくるので、普段は慎み深いムツミも三回に一回は許してしまうのだ。

「えっと……」

 少しためらい、ここが木立の陰で人気がないのを確かめてから、ムツミは恥ずかしそうに頷いた。

「……少しだけなら」

 お許しが出た。

 レオはがばりと腰を折ってムツミを引き寄せると、ちゅうちゅうと唇を吸った。

 仕事明け一番に連絡をしてよかった。眠っていたムツミは早起きして出てきてくれた。今日はまた午後からつまらぬ依頼が入っているが、この半日だけは誰にも邪魔はさせない。

 ――絶対に。

 ぺろぺろぴちゃぴちゃ

 相変わらず何の技巧もないキス。舌を差し入れ、躊躇いがちなムツミのそれを絡め取って吸い尽くす。ひとしきり、唇やら耳たぶやら味わい尽くしてからレオは顔を上げた。

 本当はもっとしたい事がある。つがいが同じ野人なら、直ぐにお互いを貪り合うだろう。現に堪え性のない身体の一部は、分厚いレザーの中できんきんと自己主張をしているが、そこは強固な意志で封をする。その程度には大人になったのだ。

 異種であるつがいの身も心も手に入れるには、細心の注意を払わねばならない。

 はそう言った。

「好き」

 自分と違って壊れやすい、つがいの体をぎゅむぅと腕に抱き込みながらレオは囁いた。

「ん」

「ムツミ……好き」

「……あのね……私もレオ君ね、好き……だよ? でも、もう人が来ちゃう……」

 朝の遅い文学部ゾーンでも、流石に人影がちらほら見える頃合いだ。ムツミは隙を見てするりと体を離した。途端にレオの胸に冷たい風が差し込む。

「……」

「レオ君朝ごはんまだだったんでしょ? 実は私もなんだ。連絡貰って直ぐに来たから。カフェはまだ開かないけど、ショップで何か買ってこようよ。私、熱いチョコレートが飲みたいな。レオ君は?」

「シルコドリンク」

 未練をたっぷり瞳に塗り込めて野人は答えた。

「……いつもながら不思議な好みだよねぇ」

 異邦人丸出しの派手な男が、赤い豆を砂糖で煮出した飲料を普通飲むだろうか?

「ムツミの唾液の味に似ている」

 レオは平気である。

「そういう事をさらっと言わないで!」

「なぜ?」

「って! いいよ、もう……レオ君はそういう人だもん……だけど、最近お仕事忙しくなったんだね。寝てないんでしょ? 大丈夫?」

「このくらい問題ねぇ。ここでの仕事はあと少しで終わりそうなんだ。二三日中に大きなヤマがあって……それが終わったら……」

 すべてを打ち明けたい。自分のつがいはムツミだと。つがいとは人間で言う、恋人とは比べ物にならないくらい大切な存在で、自分にとってのつがいはムツミ、大切なのも守りたいのもムツミだけ。そして生涯を一緒に過ごしてほしいと。

 だが、人間であるムツミにつがいの意味が理解できるだろうか? ケッコンとか言う制度は野人にも適用されるのだろうか? もしダメでも自分の子どもを産んでくれとと頼めるだろうか?

 もしも、断られたり、もっと悪くて嫌われて逃げ出しでもされたら……

 自分は気が違ったようになるのではないだろうか? 自暴自棄になって暴れた挙句に公安に捉えられるか殺される、そんな風に陥る自信がレオにはあった。

「レーオ君。ほらショップに行くよ?」

「あ? あ……ああ」

「どしたの? ぼんやりして、珍しいね。お仕事で疲れてる? ヤマ場なんでしょう?」

「そんなのなんでもねぇ」

 つがいとの未来に比べたら。レオは白い服に包まれた肩を引き寄せた。

「そう? じゃあいこ?」

「行く」

 

 その日の午前中は穏やかに過ぎていった。一緒に授業を受けていたレオは講義の半分くらいは寝ていたが、いつものように周囲の女学生から熱い注目を集めていた。

 いつもながら視線が痛いなぁ……

 レオに注がれる視線は少しずれると、かなりの羨望と嫉妬を伴ってムツミに突き刺さる。

 さすがにこれだけダダ漏れの愛情を注がれていると、表だってムツミに対抗しようとする女性はいないが、レオがいない時には「身の程知らず」とか、「ブスのくせに!」等の、最高学府の学生にあるまじき侮蔑の言葉をかけられたこともあった。

 こういう時に女友達がいないのは結構つらい。頼みのタツミは、ムツミと入れ違いに施設の短期実習に入り、三日後でないと戻ってこないのだ。

「ムツミどこか痛いのか?」

「え? どうして?」

「そんな顔をしてた」

 痛いとは口に出して言わなかったし、そもそも痛いというのも比喩で実際に視線がが刺さるわけではない。それでもレオはムツミが一瞬辛そうな顔をしたのを見逃しはしなかったのだ。

「……少し心が弱くなっただけ。もう痛くはないよ……ホントだよ?」

「なら良かった」

「お腹空いたね。朝は飲み物だけだったから。何か食べようか?」

 文学部ゾーンのカフェは女性が多いせいか、あまりボリュームのあるメニューは少ないのでレオには物足りないだろう。二人は少し足を延ばして、工学部棟の大きなカフェまで行くことにした。

 昼食時の事とてカフェは混み合っていたが、流石にこの大学一番の規模を誇るだけあって、空席がないわけではない。それにレオが行くと、どう言う訳かたいていの男子学生は席を譲ってくれるのだ。二人は奥の窓際に席を取っておさまった。端末からオーダーすると、給仕ワゴンで自動的に運ばれるシステムになっている。

 ムツミはショーユラーメン、レオはトップアスリート用のメニューを二人前オーダーし、旺盛な食欲で平らげていた。ここでもやはり同じように、レオは注目の的であったが、本人はムツミの気を引くような話題を思いつかない自分に、少し萎れている。無論ムツミはちっとも構わないで、いつもと同じように機嫌よく相槌を打ったり、授業の内容を分かりやすくレオに解説したりして、二人は仲睦まじく食事をとっていた。そんな二人に周囲にざわめきは心地よいBGMでしかない。

 ――コツコツコツ

「だからね。レオ君、絶対評価は理想だけれども、主観だけに頼っているとアセスメントに根拠が弱いと言われるのよね……」

 ――コツコツコツ

「でも、俺はシュカン……自分の勘を信じて生きてきたんだ……」

「そりゃ自分の事ならね。でも……」

 ――コツコツコツ、カカッ

 硬質な靴音がすぐそばで停止し、話に夢中になっていた二人は同時に顔を上げた。途端にレオの顔がガチリと強張る。

「っ! お前! ……アナか!」

 小さなテープルのすぐ脇に大柄な女が仁王立ちしている。

 輝く銀髪に、同色の瞳。体にぴったり張り付くレザーのライダースーツもやはり銀色。その胸元が広く開けられて、はち切れそうに張りつめた球体が半ば露出していた。

 紅も引いていないのに真っ赤な唇で銀色の女は高らかに吠えた。

「そうよ! 可愛いレオ。私よ、あなたのアナスタシア・ホワイトピーコックよ! どう? 会えて嬉しいでしょう!?」

 

 

 

 

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