第23話 夫婦喧嘩は獅子も喰わない 3

「あなた! どっち向いてるの! そこのあなたよ!」

 鋭い呼びかけに驚いたムツミが振り返ると、そこには昨日の美女が立っていた。形の良い眉を引き上げてムツミをまっすぐに見ている。昨日と同じ銀色のライダースーツに同色の長い髪をまつわり付かせて。

 うわぁ……

 同性でも見蕩れてしまう。人間とは違う別次元の美。

「何をぼうっとしているの?」

 あまり友好的ではない口調である。ムツミは焦った。

「あ……すっすみません。あんまりきれいでつい……あっ! ごめんなさい! 決して変な意味じゃあ……」

「まぁね。その手の視線は慣れているわ。人間の男たちは私を見ると雄の匂いをぷんぷんさせて、私を眺めているのよ。声かける勇気もないくせに。でも、さすがに同性からそんな素直な賞賛の目で見られることは珍しいわねぇ……ここ、掛けてもいい?」

 美女は動揺の極みのムツミの前の椅子を顎で示した。

「どっ……どうぞ」

 ここは教育学ゾーンの裏の岩石園。表通りと違って余り人は来ないので、一人になりたい時や、集中したい時によく来る。

「私がここにいるってよく分かりましたね」

 ムツミは素直な気持ちで尋ねた。

「私は鼻が利くのよ」

「ああ……あなたも野人……の方なんですよね?」

 鼻が利くと言う事の意味はムツミによく分からない。犬のように嗅覚が鋭いのだろうか? そう言えばレオは聴覚が非常にいいらしいし、野人の感覚器官は人間より非常に優秀だと言う事の証なのだろう。

「野人の方って何よ? 野人は野人よ。敬称なんか要らない」

「……」

「そうよ、私は野人。レオも同じ。私たちには人間よりも濃い野生の血が流れている」

 レオもそうだが、アナスタシアの話し方も修辞が少なくポキポキしている。しかし、その分もったいぶった感じがなくてよく分かった。

「野生の血……」

「そう。原始の血、古代の血ね。大抵の人間たちは私たちを恐れて|蔑(さげす)む。いつ牙を剥かれるか冷や冷やしているのね。でも私たちの数は少ない。そして与えられた仕事は獣や、罪を犯す人間、時には私たちの同朋である野人を狩る事」

「ハンター……ですか」

「そう、人間は私たちを使う事で、自分たちに脅威を与えるものたちを除こうとしている。毒を以て毒を制すっていうの? 要するに相殺」

「……」

「でもね!」

 銀色の女は首を振った。長い髪が舞う様はとてもきれいだ。

「それで構わないの。人間とは自分達の安寧を第一に考える生き物だし、私たちは時に野生の衝動が起きる場合がある。ハンターの役割はむしろ好都合。それで双方がうまくやっていけるなら、それでいい。別に人間のやり方を責めている訳じゃないのよ。ただね」

 女はぐいとムツミに強い視線を投げた。

「相容れない」

「あいいれない?」

「そう、相容れない」

「……」

「分からない? 人間と野人は、付かず離れずがいいって事。適当に距離を保ちながら」

 適切な距離感。

 それはつい最近聞いた言葉だった。現場実習中に出会った二人の少年。キヨシとジュンヤ。彼らも決して相容れない同士だが、争わない程度に距離を置くと良い、それが賢い関係の取り方だとベテラン教師アズミは言っていた。

 私とレオ君もそういう関係になれって事?

「私たちはお互いを利用しながら共存してゆく運命なのよ」

「共存……」

「そう。分かったようね。レオは野人としてはまだとても若くて、判断の甘い所がある。あなたに何を言ったのか知らないけれど、あまり深入りしない方がいい。これは忠告。好意で言ってるの」

 ムツミは恐る恐る野人の女を見つめた。その瞳には強い意志は感じられるけれど、人間の女がよくやるような意地悪や含みは感じられない。野人の感情はいつも単純で素直なのだ。

「でも会うなとまでは言わないわ。レオはとても魅力的な|雄(おとこ)ですものね。彼が飽きるまで付き合ってあげたらいいのよ。私は気にしないから」

 これで話は終わりだとばかりに女は立ち上がった。

「待って!」

 ムツミは反射的に叫んだ。

「あなたはレオ君のつがいなんですか?」

 アナスタシアが放った飽きると言う言葉に打ちのめされそうになりながらも、ムツミはそれだけは聞きたかった。彼女がレオの運命の人だと言うならば、ムツミには勝ち目などありはしない。ここまで傷つけられたのなら、最後まで引導を渡してほしかった。

 だが、野人の女はつがいと言う言葉に驚いたように、立ち去ろうとした姿勢のまま硬直している。

「……どうして人間のあなたがつがいと言う言葉を知っているの?」

 未熟な若い野人の狼狽した様子から考えると、彼がこの人間の娘に肝心なことを伝えているとは、とても思えないのに。

「レオ君が教えてくれたんです」

「レオが? ……へぇ」

 アナスタシアはすっと目を細めた。

 レオはつがいと言う言葉を教えはしたらしい。成程、そうでもなければ、ただの人間の小娘が、野人の間で神聖視されている、つがいと言う言葉をこんな場面で使えるはずがない。

「本当です。運命の相手、かけがえの無い存在に対して使うのだと」

「ふぅん……それだけ?」

「それだけです」

「……そう」

「それで……アナさんはレオ君のつがい――運命の相手なんですか?」

「違うわ」

 アナスタシアは即座に言った。

「え?」

「レオのつがいは私ではない。私のつがいもレオではない。私たちはロマネスク・シティでハンターをしていた。というか、レオにハンターの仕事について最初に教えたのは私。私たちはパートナーだった」

「パートナーとつがいは違うんですか?」

「全く違う。パートナーはあくまでも仕事上の協力者。同性だって構わないし、そもそも野人はつがい意外の存在にそれほど重きを置かないから」

「でもレオ君にキス……」

「そりゃするわよ。私はとにかく子どもが欲しいの」

「赤ちゃん?」

「そう。ずっと探しているんだけど、わたしのつがいは多分もう現れない。なのに、私が子どもを生める時期はもうそ終わりかけているの。だから私はつがいの子どもを持つのは諦めた。ともかく強い野人の遺伝子を持つ子どもが欲しい。だから若い彼に白羽の矢を立てたの。それだけ」

「時期って……アナさんはこんなに若くてきれいなのに……」

「分かってないわね。人間の年齢や外見と野人のとはかなり違うのよ。面倒だから言わないけど、私の繁殖期は終わりに近づいている。正直焦っているの。だから私の知っている、フリーのおとこの中で一番強くてキレイな彼に白羽の矢を立てたの」

「え?……じゃ、じゃあ、アナスタシアさんは、レオ君を好きじゃないんですか? 愛しているから子どもが欲しいんじゃ……」

「愛? そんな言葉は人間の作った幻想だわ」

 ムツミの言葉は鼻で笑われてしまう。

「幻想? 違います! 私はレオ君好きだもの! あ……愛してるもの!」

「……」

 野人の女は奇妙な表情でムツミを見据えた。

 それは嫉妬や嫌悪、ましてや憎悪ではない、何とも形容しがたい顔である。

「……だから。私は長く生きているから分かるけど、野人は人間とは精神構造が少し違うし、第一寿命が違う。あなたは確実にレオより早く年を取るし、弱くてすぐに死んでしまう。一緒にいてもお互い悲しくなるだけよ。人間にはこんなにたくさん同朋がいるんだから、何も相容れない野人なんか相手にすることはないわ。信じられないかもしれないけど、これは純粋な好意なのよ。人間らしく賢く振舞いなさい」

「でも!」

「私は子どもが欲しい。野人の女が埋める子どもは生涯にやっと一人だけ。いくらでも子どもを作れる人間には、この欲は分からない。私は必ず私の子どもを産む」

 言いたいだけ言うと、アナスタシアは今度こそ立ち上がって颯爽と立ち去った。

 

相容あいいれない……」

 ムツミは呆然とその言葉を繰り返した。

 野人と人間は心を通わせあうことが出来ても、種の壁は乗り越えられぬと言う事をアナスタシアは言った。

 ほんとうにそうなのだろうか?

 

 レオに会わねばならない。

 

 

 

 

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