第15話 泣く子と獅子には勝てぬ 2

「それでは言った通り、ロイター板を跳んだら、このしるしのところに手をついて思い切って跳び越えてください」

 ムツミは三十人の四年生を前に声を張り上げた。普段は控えめで大きな声を出さないムツミの良く透る声に、レオはうっとりと聞き惚れる。

 実習は早くも二週間目に入っていた。先週は様々な授業を見学し、アズミを相手に模擬授業を重ねてきたが、この週からは見学でなく、実際に子どもたちの指導に当たらねばならない。

 そして今は、基礎スポーツの最初の授業だった。種目は古来からジャポネスク・シティに伝わる競技、トビバコである。

 それは飴色に光る体育館の床の中央にふたつ、でんと居座っていた。


「跳ぶ自信がなくても大丈夫です。レオ先生がちゃんと補助してくださいますから! ね? レオ先生……レオ先生?」

 ムツミは子ども達の方ではなく、自分を見ているレオに向かって注意を促した。

「補助をお願いしますね?(ちょっとレオ君!? 授業中よ! なにぼうっとしてるの?)」

「あ? あ……ああ! 任せとけ!」

 ムツミの目配せに、わざとらしくレオは胸を張った。発達した大胸筋のお蔭で、白いトレーニングウェアがはち切れそうである。

 トビバコは高低が二種類あり、ムツミの指導しているのは低い方の箱だ。

 ここには跳躍に余り自信のない子どもたちが列を作る。指導と言うものは、苦手な子に教える方が難しいのだが、敢えてムツミはそちらを選んだ。自分も運動が苦手なので、そういう子どもの気持ちがよく分かると思ったからだ。

「いつでも来い! 俺が全て受け止めてやる」

 レオはに向かって言った。

「お願いします。じゃあ、準備はいいですか!?」

「はい!」

 ピッ!

 笛を吹くと、背の高い少年が矢のように駆けてきた。

 最初の跳躍、は高いほうの列から模範演技役として並んでいた、四年生のクラスリーダーのジュンヤである。

 彼は学業成績も運動能力もクラスのトップだった。ジュンヤは六段のトビバコを軽々と飛び越え、皆から盛大な拍手を受けている。女子からは歓声が上がり、ジュンヤはそれへ腕を上げて応じていた。

「ありがとうジュンヤ君。とても上手でした」

「もっとボックス高くったって俺は跳べますよ」

 少年は胸を張る。

「すごいな。じゃあ、あっちでどんどん挑戦してみてください」

 ムツミは高い方の指導をするヤマシキの方を示し、ジュンヤは偉そうに低い方の列に並ぶ五・六人を振り返った。

「みんな、思い切り走るんだぞ! トビバコは度胸だ! 特にキヨシ!」

 ジュンヤは列の一番前で項垂れている少年を指さすと、颯爽と自分の列に返っていった。

「……はい。それでは次の人!」

 確かにジュンヤが指摘するだけの事はある。キヨシは助走の速度もよろよろで、ロイター板を蹴る足にも勢いがない。目の前の固くて大きな壁を前に恐怖が滲んでいる。気持ちは分かるが、これでは跳び越えられるはずがない。

 ああ、これじゃあちょっと無理かも……次はもっと低く設定し……

 ムツミが己を自戒し、次の子どもからは、もう一段ボックスを下げようと思ったその時――

「あ!」

「わぁっ!」

 キヨシの体が勢いよく宙に浮いていた。

 レオが少年の下腹に腕を差し入れ、ぐいと押し上げたのだ。自然に足が開き、箱の上を体が通過してゆく。そしてキヨシはふわりとマットの上に着地した。

 跳んだ少年は信じられないと言う顔で呆然としている。

「すごい……」

 レオの手が、子ども達の弱い跳躍を補助して勢いをつけ、しかもちゃんと着地できるように空中姿勢も整えてやったのだ。

「キヨシ君跳べたね!」

「……」

 キヨシはおそるおそるレオを振り返った。ムツミの予言通り、子どもたちのあこがれの眼差しを受けるレオだが、この少年はまだ一度も関わったことがない。不思議な金色の目は少年を素っ気なく見下ろしただだけだが、僅かに頷いた。

「はい! こんな風にレオ先生が助けてくれます。思い切ってやってみよう!」

 ムツミは嬉しくなって声を張り上げた。データから見るとキヨシと言う少年は、今まで一度もトビバコを越えられたことがなかったからだ。

 それをきっかけに次々と子どもたちは駆け出し、トビバコを越えていった。皆一様にまるで羽が生えたように箱を跳び越えた自分の体にびっくりして、跳躍を終えた後もしばしぽかんとしている。

 瞬く間に列は一巡した。

「私初めて跳べたよ!」

「せんせぇ! もいっかい! もいっかいやって!」

「わたしも!」

「ボクも!」

 まるで空を飛んだかのような浮揚感に、すっかり興奮した子ども達はレオの周りにわっと集まった。


「彼……上手だね。結構力いるよ、あれ」

 体育科のヤマシキがムツミの傍に立って言った。

 彼は運動能力のある子どもたちの指導を行っていたのだが、そっちのグループの子ども達までがうらやましそうに、ムツミとレオのグループを見ている。

「ま、見るからに力持ちそうなんだけどさ。でも、運動の補助って初めてなんでしょう? 彼」

「……ええ、でもこんなに……」

「ムツミ! もう一周やっていいか?」

 レオが子どもの輪からこちらにやってきて、ムツミとヤマシキの間にぐいと体を割り込ませながら尋ねた。

「あと一回くらいやれば、体がタイミングを覚えると思うんだが」

「あっ! そうだね。ヤマシキ先生、いいですか? 次はヘイキンダイですけど、少し延長しても」

 ムツミも興奮して頼む。

「勿論! 続けてやった方が跳ぶイメージがあの子たちにつくと思うよ。それにすごく楽しそうだ。是非やってくれないか」

「ありがとうございます! やろう! レオ君」

 子どもたちからも歓声が上がった。

 確かに、楽しいと何度でもやりたくなるし、自信がつけば自分でもやってみたくなるだろう。子ども達もレオがうまく補助してくれると信じて、一回目とは違って思い切り助走をしてトビバコに向かってきている。

 その日の体育の授業は大成功に終わった。

 

「レオ先生」

「遊ぼう!」

「一緒にサッカーやろうぜ!」

「ムツミ……」

 少年たちに取り囲まれて、野人が情けなそうにムツミにヘルプのサインを送った。

 実習生に用意された控室で、ムツミの手弁当を食べたレオは幸福感に酔いしれていたのだが、そこへ少年たちがなだれ込んできたのだ。

「やった方がいいよレオ君、て言うかやってきて。私サッカーなんてできないもん」

 困ったようなレオに、ムツミは励ますように笑顔で答えた。昼の休憩時間は昼食の後で、子ども達は全天候型のグラウンドで自由に遊んだり、視聴覚室で映画を見たり、苦手科目を教員と復習したりできるのだ。

 今までどちらかと言うと、無口なレオを恐いと思って遠巻きにしていた子どもたちだが、さっきの体育の授業で一気に垣根が外れたようだった。そうなると子どもは押しが強い。ここは引いてはいけないだろう。ムツミは自分も立ち上がってレオを促した。控室の外は子どもたちであふれている。

「レオ君がサッカーやってるところみたいな。きっと上手なんだろうねぇ。私、テラスから見てるから。応援するよ!」

「分かった!」

 軽く言いくるめられて、レオは意気揚々と少年たちとグラウンドに出てゆく。ちょろい。

 教室に戻ると、テラスは既に女の子たちで鈴なりだ。グラウンドを一望できるテラスは、冷たい風に吹かれることも無く、快適な観戦場所である。 

「ムツミせんせぇ、先生はレオ先生の恋人なの?」

 大人しそうな女の子達のグループとパズルゲームをしていたムツミは突然の質問に驚いた。

「え?」

「だって、レオ先生いっつもムツミ先生のこと心配そうに見てるって」

「うん、みんな言ってるよ」

 子どもたち、特に女子の観察眼は侮れない。皆興味津々で見つめている。ムツミは慌てた。

「あ……いえ、ううん。違うよ。私とレオ先生は友だち」

「友だち?」

「うん、友だち。とっても大切な。みんなだってお友だちいるでしょ?」

「いる。でも男の子はキライ」

「私も! 意地悪してくるもんね」

「それに乱暴だし」

 女の子は口々に言い合った。十歳前後の年齢は男女を意識し始める頃で、中には異性に反発を感じる子たちも多いのだ。

「それは……でも男の子だから、元気なのかもだけど……嫌な時は嫌って、そう言えばいいよ。もしやめてくれなかったら、先生に言うとか」

「うん、私たちはそうしてる。でもねぇ……」

「うん……そうだよね……」

「男の子って、男の子にいじめられても、我慢しちゃうっていうか……」

「うんうん」

 女の子たちは意味ありげに頷きあっている。何か含みがありそうな様子にムツミは気づいた。

「誰の事言ってるの?」

「えっと……あのね」

「ダメだよ。告げ口したって私たちまで意地悪されちゃうよ」

「え?」

 その時、わぁっと言う歓声がグラウンドからテラスに響いてきて、皆は一斉にその方を向いた。

 広い校庭の四分の一ほど占めるコートの中で、ひときわ大きな姿が踊っている。

 レオは一人で五・六人ほどの少年たち相手にボールを操っているのだ。右へ左へ必死に伸ばされる細い足を掻い潜り、細かいドリブルで三人抜き。次にその前に立ちふさがった、やや年嵩の少年二人を華麗なターンで置き去りにすると、ひょいとボールを浮かせて長い足でキックする。キーパーの頭上を射抜いてボールはネットに突き刺さった。

 感心したような叫びが少年たちから上がった。

 まるで負荷を感じさせない、野生の獣のような動きだった。

 レオは多分細かいルールなど知らないのだろうが、ここまで身体能力が高いと、多少のルール違反は大目に見てもらえるらしい。何しろレオのチームは彼一人のようなのだ。

 ふっとレオが頭上を見上げ、ムツミとばっちり視線が絡んだ。ムツミが手を振ると、レオはとても嬉しそうに白い歯を見せ、近くにいた少年にボールを渡した。

 ムツミはそんな彼を見てとても嬉しくなった。

 ぱっと見は少し怖そうで、初めは自分も驚いたが、レオは根はとても優しい人だと、今ではムツミも思っている。野人だからか元々の性格なのか、少し風変りだが、心根は純粋で、外見と同じくらいきれいな人だと知った今ではもう怖くはない。

 人間社会が苦手だと再三言っていたが、彼は今、見事に子どもたちの中に溶けこんでいた。

 がんばれ、レオ君。

 ムツミは心から応援した。

 グラウンドでは再びゲームが始まっていた。さっきよりも人数が増えている。

 いつの間にか、コートの周りには幾重にも少年たちが取り巻き、そのうちの一人がどこからかビブスの束を持ち出してきて、今度は公平にチーム分けが始まり、年上の少年の采配でちゃんとしたゲームが始めるようだ。何人かは女の子たちも混じっていた。

 ムツミが見ていると、クラス代表のジュンヤがグラウンドの隅にいたキヨシを引っ張り込んでいる。キヨシはサッカーも苦手なのか、いやそうな顔をしていたが、ジュンヤが笑いながら耳元で何か囁くと、渋々ながら頷いて人数に加わった。

 ゲームが始まる。

 レオは今度は、自分でボールを支配しようとぜずに緩いパスを回し、敵味方関係なく子ども達が自分の役割をこなせるようにゲームの中心にいた。

 陽の光にキラキラと金髪が輝いた。すっかり秋だというのに、半袖のシャツに見事な姿態をぴったりと浮きだたせ、筋肉を躍動させて駆ける。浅黒い額にはうっすらと汗が滲んでいるようだ。

 レオ君……素敵。

 ムツミはうっとりと頬を染めていた。

「素敵な人ね、彼」

 上から降ってきた声に顔を上げると、いつの間にか横にやって来たミドリノが整った横顔を見せて、グラウンドのレオを見つめていた。

「さっきの体育の事、ヤマシキ君に聞いたわよ。すごかったんだってね、彼」

「ええ、立派でした」

 ムツミはレオから目を離せずに答えた。

「あなたのお友だちなの?」

「ええ、大切な友だちです」

「ふぅん。オトモダチね。……だったらいいわ。くれぐれも実習中だってことを忘れずに、浮ついた態度をしないようにね」

 ミドリノは厳しい口調で言った。

 

 

 

 

 

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