第14話 泣く子と獅子には勝てぬ 1

 ムツミの現場実習が始まる。

 実習先は住まいから少し離れた小学校に決まっていた。約一月の実習期間中、大学へは一週間に一度、報告を兼ねて立ち寄るだけとなる。

 実習初日。

 そろそろ肌寒い季節だが、完全に空調が整えられた学舎は快適で緑と花が溢れ、清潔さと安全、そして活気と希望に満ちている――筈だった。

 柔らかな色調の丸天井のホール。

 ムツミは二百人ほどの子どもたちの前で、頬を真っ赤にして突っ立っていた。

 グレイのスーツはバイト代で買った流行の型で、スカートの裾がやや短めである。そこから覗く膝小僧が少し震えていた。これから実習の挨拶をしないといけないのだ。こんなに大勢の前でしゃべった経験のないムツミは、声まで震えないように拳を握りしめた。

 そして、

 隣でその様子をハラハラしながらも、頭から貪り喰いたい視線で見守っているのは、豊かな金髪も眩しい長身の男。

 言うまでもなくレオニダス・ライオンハート――レオであった。

 

 数日前のこと。

「レオ君、実習中私がいなくてもしっかり勉強してね」

 ムツミは実習直前まで、レオにそう言い聞かせていた。

「嫌だ。ムツミがいないなら勉強できない。俺も一緒に実習に行く」

 レオも懲りずに何度も我を張る。聴講生であるレオは現場実習には行くことはできないのだ。

「ええ~、ダメだよ。私だって残念だけど」

 困ったようにムツミは言った。だがこういう時のレオは子どものように頑固なのだ。

「俺も行く」

「そんな……無理だよぅ……それに実習は遊びじゃないんだよ」

「俺は遊んだりしない」

「遊ぶの意味がちがうもん」

「心配ねぇ。ちょっと思いついたんだが、ソノスジに頼むことにした」

 最後にはレオはそう言ったのだ。さも自信ありげに。どういう訳か。

 そのスジがどんなスジだかさっぱり分からず、困りきったムツミを前に、レオは犬歯を見せて笑った。

 そして、どこをどう運動したのか、二日後、レオはちゃんと実習先の責任者――つまり小学校校長の許可証をもらってムツミとタツミの前に現れたのだった。実習アシスタントと言う訳のわからない立場を得て。ただし、単位の取得は認めないと言う条件付きではあるが。

 無論レオには単位など無意味だから、そんな条件など平気の平左である。

 彼はたんにムツミと一緒にいて役に立ち、彼女に認めてもらいたいだけなのだ。

「これで一緒に実習に行ける」

 実はあまり意味の分かっていない許可証を嬉しそうに眺めているレオに、タツミは信じられないと目を見張り、ムツミは嬉しそうに口を覆った。

「ひゃあ、本当にもらってきたよ。なにこの人」

「本当だ……レオ君って本当に不思議……」

「行こう、ムツミ」

 ムツミは終に笑ってしまった。こうなるともうレオには逆らえない。それにムツミにしても、レオと一緒に実習するのが何となく楽しみになってきている。

「うん! 頑張ろうね」

「ああ……ところで、ムツミ、ちょっと教えてくれねぇか?」

 レオは『実習諸注意』の項を見ながら言った。

「なぁに?」

『注意点』のところに『実習にふさわしい服装で臨むように』って書いてあるんだが」

「え?」

「どういう服装の事だ?」

「……」

 間違っても彼が今着ているような、全身真っ黒で厳つい、いぶし銀のびょう付きレザーでない事だけは確かだろう。

 そういうやり取りがあった直後、実習が始まったのである。


「わ~……私たち、と一緒に勉強し、してください。よろしくお願いします」

 ホールに居並ぶ子どもたちに向かって、ムツミはぺこりと頭を下げた。レオもそれに倣って腰を折る。何とか挨拶を終えて後ろに下がろうとしたムツミは、ひっくり返りそうになったのをレオにそっと支えてもらった。

 パチパチパチ

 とりあえず皆、お行儀よく拍手で歓迎してくれた。

 だが正直、子どもたちの注目を集めているのはムツミではなかった。――彼らの好奇に満ちた視線を一身に集めているのは――

 波打つ豪華な金髪を後ろで束ねた、野生の魅力溢れる青年だった。

 始めて身に着けたコットン素材の白いシャツと黒いボトムと言う大人しげな服装でも、人外の美しさと荒々しさを損なうことはない。子ども達は大人以上に、敏感に野人の発する独特の雰囲気を感じ取っていたのだ。

 ――あの先生すげぇ

 ――でけぇ……てか、かっけぇ

 ――どんな授業すんだろ?

 ――横のちいせー女はだっせぇけどな

「レオ君みんなこっちみてるね」

「……」

 子ども達の目って純真だなぁ、きっと一生懸命なんだろうなぁと、ムツミはしきりに感心するが、優れた聴覚でひそひそ話を聞き分けられるレオは、よく分からないながら首を傾げた。

「がんばろ! きっと中身のある実習にして、教師になる夢に一歩近づくんだわ」

 全く見当違いの感想を抱きながら、ムツミはこれからの実習に身を引き締めた。

 ムツミの受け持ちは四年生のクラスである。

 ここでは一二歳から一三歳までの生徒が三十人ほど学んでいる。担当者はアズミ教諭と、ミドリノ教諭、そして一番若いヤマシキ講師である。

「それでは皆さん、ムツミ先生とレオ先生と仲良くしてくださいね。明日から一緒に勉強いたしましょう」

 最年長のアズミが晴れやかに子ども達に告げて、その場は終わった。

 初日の予定は実習生の紹介とガイダンスのみだ。

 一か月の学習計画と、実習内容の確認、そして研究発表をどのような形にするかである。ベテランのアズミはレオの身分に少し驚いたようだった。

「……ということは、レオ先生はムツミ先生のアシスタントに徹するのみで、評価シートは必要ないというのですか?」

「そうだ」

「そんなレオ先生……勿体なくはないですか?」

 尋ねたのはミドリノである。美人の彼女は、五年目の中堅どころだった。

「ああ」

 「レオ先生はすごく注目されていたし、子どもたちに好かれそうなのに……ねぇ、レオ先生?」

「いいんだ」

 アズミの提案で、生徒との距離感を縮めるために実習生を姓ではなく、名で呼ぶことになったのだが、それでもこの場合は呼び過ぎだろう。隣のヤマシキは首を竦めている。

「……でも」

「いい。もともと正規の学生でもないから」

 レオはねっとりとした視線を避けながら答えた。空気を読んでムツミが助け舟を出す。

「レオ君は聴講生なんですが、今回特別に私のアシストと言う事で実習を許可されたんです。ですから、評価は私だけでお願いします」

「あ、そうなんですか? 分かりました、レオ先生。何でも聞いてくださいね」

 ムツミの方を見もせずにミドリノは答えた。

 四年生の授業は、国語科や社会科といった文系科目のプランナーがアズミで、数学科や理科をミドリノが担当している。若い講師のヤマシキは現役のホッケーの選手で、体育的な活動全般を受け持っていた。音楽や美術はそれぞれ専科の担当者がいる。

 最初の一週間はほとんど休みなく、授業の見学と記録に費やされる予定で、その中からムツミは自分が担当する教科を選ぶ。そして次週から実際に授業を行わなくてはならないのだ。

 ムツミの希望は国語と理科、そして体育だ。音楽と体育で迷ったのだが、アシスタントがレオという事で、少しでも彼がやりやすい科目をという事で体育に決めた。直接の指導教官たるアズミはバランスよく選びましたね、とすぐに認めてくれた。

 

 今日の予定は全て終わった。

 苦学生たるムツミだが、実習期間中はそれへ専念したいためにアルバイトを入れていないため、大学へ行く日の他は空いている日もある。今日がそうだった。

「いよいよ明日から本格的に実習かぁ……レオ君は人気者になりそうだね」

「そうか? 俺には分からん。学校も子どももあまりに縁がなかったから」

「そっか……でもきっと直ぐ人気者だよ。私……負けらんないなぁ……さぁて、私はこれで帰るね、お腹空いた」

 ひらっと通りを横切ろうとする、ムツミの手首を捕えたのは脊髄反射と言うしかない。

「え?」

「あ……あのムツミ……その……良かったらもう少し話……してくれねぇか?」

「レオ君?」

「だって俺その……色々よく分かってないし……」

「あ、そうか……そうだよね。でも私だって実習は初めてで、よく分かってないと言うか……あでも少しならいいよ! あ、あんなところにちっさいカフェが! 良かったら入る?」」

 酷くがっかりしたようなレオに、ムツミは慌てて訂正した。途端に男の瞳が明るくなる。こちらはこちらで分かりやすい。


「つまりその……俺は人間の社会がよく分からねぇんだ」

 レオは巨大なアズキのパフェを前にして言った。たっぷりキナコがかかっている。

「ふぅん……でもなぜ? お仕事だってしてるのに?」

「仕事は依頼を受けて遂行し、報酬をもらうだけだから」

「……ずっと一人で生きてきたの?」

 ムツミは興味を持って尋ねた。野人はあまり人と深くは交わらないという。

 レオがあまり話さないので、聞くことを|憚(はばか)っていたのだが、やはり素朴に興味がわく。厳密に言えば、野人は人間とは違う種なのだ。

「子どもの時は、自分の子を亡くした野人の女が育ててくれた。けど、一人でやっていけるようになったから、離れた。俺たちはあまり群れを作らないんだ」

「群れって……ああ、社会のことか……野人は友だちとか作らないの?」

「友だちっていうか、必要なら一緒に組むときもある。別に仲間が嫌いと言う訳じゃない」

「組む……じゃあ、お互いに深くは付き合わないんだ……」

「いや、付き合うことはある。すごく深く」

 レオはムツミを見据えながら言った。

「そうなの? どんな時?」

「つがいになった時」

「ツガイ?」

 タツミの時と同じように、ムツミもその言葉を意味が分からないようだった。

「ツガイって?」

「……大切な相手だ」

「……恋人みたいなもの?」

「似ているが違う。もっと強いつながりを感じる相手……? やっぱりうまく言えない」

「レオ君のつがいは?」

「……」

 それはお前なんだと言えないレオは、溢れる想いをこめてムツミを見つめた。当然ムツミには伝わらない。

「まだ巡り合ってないのね? でも不思議、きっと運命を感じるんだろうねぇ……野人の女の人ってどんなだろう」

 やっぱりレオ君みたいに大きくてきれいなんだろか……

 レオの横にどんな野人の女性が立つのか、ムツミは一生懸命に想像しようとしたが、その像は姿を結ばなかった。

 わかんないなぁ……その女の人を見つけた時、レオ君はどうするんだろう。

 人間であるムツミは至極単純に、野人は当然野人同士で結ばれるものと思い込んでいる。

 まさかそんな風に思われているとは思い至らないレオは、おもむろに匙を取ってムツミにクリームまみれのアズキを差し出した。

 給餌、つまり求愛行動である。無論のことムツミには通じない。

「喰いな」

「あ……ありがと……でもレオ君のでしょ?」

「俺はいい。ムツミにやるために頼んだんだ」

「こんなに食べられないよ」

「いいから喰え。ムツミはもっと太れ」

「……やっぱりレオ君、人間の事分かってないね」

 ムツミはそう言って、レオの差し出す匙を飲み込んだ。

「おいしい」

「それでいい」

「レオ君も食べなよ」

「喰う」

 本当は甘味よりムツミが食べたいとはさすがに言えないが、レオは満足して、つがいが自分の差し出す食物を飲み込むのを眺めた。柔らかそうな頬の横で三つ編みが揺れている。

 可愛い――好き。

 なのに。

 まだ友だちなんだ。ムツミは人間だから、急いだらきっとダメだ。

 レオは小さくため息をついた。

 どうしたらこの存在を自分だけのものにできるのか、ずっとそれだけを考えているのに。

 甘味を喰い終り、話が済んでしまえば、レオは良き友人としてムツミを彼女のアパートまで送り、礼儀正しくさよならと言って帰らなくてはならない。

 考えるだけでも泣きそうだ。

 ずっとずぅーっと、一晩中でも一日中でも一緒にいたいのにダメなんだ……俺はムツミに見とめてもらっていないから。

 彼にとっては、大学も実習もすべては、つがいの傍にいられる以外の意味はない。けれど未だムツミが友だち以上の感情を自分に抱くことはないのだ。

 レオはやたらと繊維質で甘い果物を嚥下しながら、柄に似合わぬため息をついた。

 

 ――と言う訳で、明日から本格実習である。

 

 

  

 

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