第8話 獅子は風邪をひかない 2

 バタン! ドンガラガラドン!


「ムツミッ! ……あ……」

 勢いで扉が外れてしまった。このアパートは古いから、扉の開閉はできるだけ大人しくと言われていたのに。

「……レオ君?」

 倒れかかる扉を抱えて固まるレオの耳朶に弱々しい声が飛び込んだ。そう、文字通り飛び込んだのである。殆ど聞き取れぬほどの弱々しいかすれ声にも関わらず。

 キッチンを除いて二間しかない古いアパートは、表から奥までレオの足ならわずか三歩で横切れる。その一番奥の小さな寝台の上に、彼の愛しいつがいの姿があった。

 レオが扉を壊した物音に驚き、立ち上がろうとしたようだが、すぐにふらりと上体が崩れた。

「ムツミ!」

 愛しい軽い体を受け止める。薄い寝巻を通して体の熱さが腕に伝わった。

「どうした! 体温が通常よりも高い!」

「ちょ……熱が……」

「熱……これが風邪ってことなのか?」

「(ケフン)だいじょぶ……デス。……でも来ないでって……(ケフン)言ったのに……」

 いつもの鈴のような声が割れ、咽頭の奥がゼロゼロ鳴っていかにも苦しそうだ。三つ編みの髪はほどけて乱れ、トレードマークの丸眼鏡をかけない目が少し充血して潤んでいる。

 その様子はレオを相当に戸惑わせた。

 かわいそう、かわいそうなのに酷く色っぽい。

「ムツミ、すまねぇ。俺……どうしていいか分からなかったんだ。風邪って病気なんだろ? だから俺すげぇ心配で……どうしても顔見たくて」

「そ……デスカ……ゴホン!」

「ムツミ!」

「さ……むい……」

 彼の腕の中でムツミは震えた。玄関の扉は外れて横倒しになっている。隙間風どころか木枯らしぴーぷーだ。

「すっ、すまん! ドア壊しちまった!」

 レオはムツミを元通りに横たえるとすぐに表に取って返し、扉を枠にもどそうと頑張ってみたが、蝶番が外れていては当然元には戻らない。仕方なく、できるだけまっすぐに立てかけておき、後で直そうと反省した。隙間からは冷たい風が侵入してくるが、今はどうしようもない。それよりもムツミだ。

「あんせいに……あたたかく……」

 教えてもらった言葉を思い返す。安静はとにかくベッドに横たわっているからいいとして、暖かさはどうだろうか?

 自分には必要ないので気づかなかったが、この部屋には暖房設備というものがなかった。人間の使う施設ではこの時期、常に暖房が暑すぎるほどに効いているというのに。家賃が安いぼろアパートとはいえ、今時信じられないくらいの環境だ。

「その……なんて言ったっけ……す、ストーブとかないのか?」

 レオは寝台の横に座り込んで、ムツミを覗き込んだ。いつもちょこまかと動き回る彼女が、ぐったりとしているのが痛々しくて胸が絞られる。

「ふ……去年壊れちゃって……(ケホッ)買いなおさないとっ……て思ってたんですけど……」

「よ……よければ、お……俺の部屋に来ないか?」

 突然思いついてレオは意気込んだ。

「……レオ君の?」

「ああ……俺の部屋にもストーブとかはないけど、ここよりは気密性があって安全だと……」

「気持ちはありがたいけど……よしときます」

「え……」

 凛々しい眉がべそりと下がる。

「病気の時はね……慣れた環境の方が安心できるんです……(ケホケホ)でも……ありがと……ございます(ケホン!)。レオ君も、もう帰ってくださいね……うつったら、たい……へん」

 そこまで言うと、ムツミは力尽きたように目を閉じてしまった。

「ムツミ……」

 自分にできることが何もなくてレオは大きな拳を握りしめる。

 ああ、なんで、この人は病気になんかなってしまったのだろう? 俺が変わってやれたらどんなにいいだろうか。自分ならどうなっても平気なのに、こんな小さなかよわいムツミが苦しんで……。


 いや、まてよ?

 あまりの衝撃にうっかり失念してしまったが、あいつは言ってなかったか?

『風邪はうつすと治るとか……』

 なんだ、できる事があるじゃないか。ムツミの風邪を俺に転嫁すればいいんだ。

 

 けど――

 どうやってうつしかえるんだ?



 レオはムツミが眠ってしまったので、ある限りの服やコートを布団の上にかぶせ、どうにか探し出した粘着テープで扉の目張りをして、とりあえず街に出た。「栄養と水分」を補給するためだ。

 一人にしたくはなかったが、ムツミの部屋には食糧らしいものはほとんどなかったし、水も小さなビンに一本しかなかった。ついでにストーブや壊したドアの部品も買おう。そう思って後ろ髪を引かれながら部屋を後にしたのだ。

 急がないといけない。

 いつか連れて行ってもらった市場でてっとり早く買い物をする。レオの事を覚えていた惣菜屋の店主にムツミの事を聞かれたので「風邪だ」と、短く答えると、そうか兄ちゃんお見舞いに行くんだな、訳知り顔で納得している。

「オミマイ? オミマイってなんだ?」

「お見舞いだよ。知らないのか? お見舞いには切り花と果物ってきまってんだろ? 昔から」

「……」

 知らなかった。

 さっそく隣の青果店で果物を購入し、ムツミの働いている花屋の主人を見つけたので、キリバナを頼んだ。レオは知らかなったがキリバナとは切り花で、お見舞いに根付の花ではいけないと、先ほどの商店主が教えてくれたのだ。ついでに風邪のうつしかえ方を尋ねてみると、人のいい商店主は質問の馬鹿らしさ加減に笑いながらも、レオの冗談と受け取って親切に教えてくれた。

「風邪ってな相手のくしゃみとか咳とかを受けるとうつっちまうんだよ。いわゆる飛沫感染というやつだ。つまり唾液にバイ菌がいるんだぁね。ワシ学があるだろ? ……って! もういねぇし!」


 レオは吹っ飛ぶように帰った。

 先ずは扉を直さんとな……。

 幸い、ほかの野人の雄と同じようにレオも手先は器用である。

 ガタピシの古い木製の扉は何とか元の枠に収めることができた。こんな脆い扉にムツミを護らせるのはいかにも不本意だが今は仕方がない。

 レオが次に取り掛かったのはストーブを設置することだった。文字を読むのは得意ではない彼だが、何とか取扱説明書に目を通し、条件を入力すると、既定の量まで水を入れてスイッチをれる。内蔵されているセンサーが環境情報を拾って適切に温度管理をしてくれるはずだった。

 後は……

 意を決してレオがムツミの眠る寝台へと忍び寄る。あれから二時間近く経って部屋は薄暗くなっていた。彼女は一度も目を覚まさなかったのだろうか? 額にうっすらと汗をかいている。水分や栄養補給はいらないのだろうか? いやそれより先ずは……

 唾液の摂取を……

 レオがゆるゆると顔を近づけたとき、ムツミがぱちりと目を覚ました。

「レ……オ?」


 唇が触れる寸前で、レオはつがいの威力に吹っ飛ばされ、壁際まで後退した。

「う……わわわわわ!」

「レオ君?」

 ムツミは不思議そうに首をひねってレオの方を向き……そして目を見張った。

 小さな部屋の中にはおびただしい花があふれ、芳香を放っている。粗末なテーブルの上には果物が山と盛られており、いくつかは食べたことのない高級な品種だ。床には水のボトルがずらりと並べられ、様々な食品や食材が市場の大きな紙袋からはみ出て溢れていた。そして、部屋の中は居心地良く暖かい。

「すごい……これは……?」

「かかか買ってきた。その……風邪には温度と湿気と栄養と水分。お見舞いには切り花と果物だって言うじゃないか。俺だってそんくらいは知ってんだ」

 レオは無駄に威張った。さっき仕入れたばかりの知識だが、知識は知識だ。だが、ムツミは素直に感激している。

「ありがとう……ありがとうレオ君」

「いやなに……そんで具合はどうだ?」

「うん……眠ったから少し楽になったかな? (ケフンケフン)……な、なに? レオ君?」

 咳込んだとたん、レオの生真面目な顔がぬっと寄ってきたので、ムツミは驚いて顔をそむけた。

「だ、だめじゃないですか! 風邪うつっちゃいます! 離れてください」

「いや……そのだから……うつ、うつり……」

 うつりたいとは、さすがに言えない。

 ムツミは優しい娘だから、そんな事を白状すると部屋から追い出されかねない。それだけは避けたいのだ。仕方がない、またムツミが寝入るまで待とう。と、レオは思案した。

 だがその前にできることもあるだろう。

「ムツミ、医者に連れて行く」

 レオは大きな掌を汗ばんだ額に当てた。

「え? お医者? (ケフッ!)そんな……大丈夫ですよ? 大したことないただの風邪だし」

「だが医者は病気の専門家だろう? 薬もくれる。きっと早く治る」

 レオは端末で近くの病院を調べながら言った。幸い市場を抜けた先に小さな医院がある。そこなら歩いてすぐだ。

「……でも……お金が……(ゲホン)。今月は試験で、あまりバイトを入れられなかったので……」

「心配ない。少し揺れるぞ……」

 そういうとレオは、呆然としているムツミに丁寧に毛布を巻きつけると、腕を差し入れ、片手で軽々と抱き上げた。まるで赤ん坊である。

「え!? こんな格好で?」

「揺らさねぇように気を付ける。バイクじゃ風が吹き付けて寒いだろう」

「でっでも、重いでしょ? それに恥ずかしい……」

「大丈夫だ。ムツミは子猫みたいに軽い。そして可愛い。恥ずかしいことはない」

「……」

 野人の価値観は絶対らしい。ムツミはそれ以上反論する気力も萎えて、大人しくレオの腕の中に納まった。毛布で顔を隠していれば誰だか分からないだろう。

 レオは自分の体温を分け与えるようにムツミを抱きしめ、黄昏る通りへと降りた。


 半刻後。

 小さな医院の待合室で若い野人はギリギリと歯を食いしばっていた。人間より尖った犬歯が唇に食い込み、血が滲んでいる。大きな握りこぶしはぶるぶると震え、体中から脂汗が流れた。

 そうすることでレオは大暴れしそうな自分を抑えていたのだ。

 あいつ……あいつが言ってた意味がやっと分かった! 

『俺たちには相当な覚悟がいる』

 覚悟……覚悟だと? 拷問じゃねぇか!

 駆け込んだ小さな医院で人のよさそうな医師は最初、まるで宝物のように娘を抱いて現れた美丈夫に魂消ていた。しかし、事情を聴くと、診療時間は過ぎていたにも関わらず快く二人を診察室に迎え入れ、ムツミには寝間着をはだけるように、そしてレオには退室を命じたのだった。

「なに? ムツミに何しやがる!」

 レオは思わず叫んでムツミの前に出た。しかし医師は意外に胆力があるようで、平然と憤怒の形相の野人を見返して言ったのだ。

「何って、胸の音を聞くんですよ。さぁどいて」

 医者は聴診器をひょいと取り上げて見せた。

「むむむ胸! だとぅ……俺のおれの……」

 つがいに!

 頭から湯気の出そうなほどの怒りに捕らわれて野人は仁王立ちになった。

 自分でさえ見たこともない可愛いムツミの胸に、何の権利があってこの男は触れようとするのか? 野人の雄同士なら、どちらかが再起不能になるまで戦う場面である。太い腕にぎりぎりと力がみなぎってゆく。

 しかし、レオをあっさり押しのけたのはムツミの細い腕だった。

「レオ君、さっさと向こうへ行って(ケホケホ)。お医者様の邪魔になるから。診療時間を過ぎているのに無理言ってスミマセン」

「いやいや、いいんだよ。さぁ君どきなさい」

「……レオ君?」

 ムツミに咎められてはレオに選択の余地はない。(というか、初めからない)

 そもそも医者に連れてきたのは彼なのである。無知とはかくも恐ろしいものなのだ。

 ……という訳で、古ぼけた小さな待合室で野人は苦渋の涙を呑んだ。床に伏したその姿は「あらあら彼氏は大げさね」と、中年の看護師の失笑を誘ったが、本人は笑うどころの騒ぎではない。大切過ぎて口づけはおろか、手も握れないつがいの(生の)胸を、他の雄にもてあそばれて(診察だっつの)いるのだ。野人の雄としては憤死できる程の屈辱である。

 冷たい床に涙と鼻水のしずくがばらばらと撒かれた。

 そして、彼にとっては永遠と思われる時間が流れた頃、診察室の扉が開いてムツミが青い顔を出した。

「大丈夫かっ! 酷いことはされなかったか?」

「ふあ? えっと……その……酷い風邪じゃないって……二三日寝てたら治るって……お薬も処方され……」

 肩をつかんで圧し掛かるレオを振り仰いでいるムツミは、ふらりと仰のけによろける。まだ熱があるのか、レオの腕にしっとりと熱い体が倒れこんだ。

「ムツミっ! しっかりしろ!」

 そう叫ぶと「まぁまぁ熱いわねぇ」とからかうナースを明白に無視し、レオは薬剤師を急かして医院を後にした。

 ねっとりと彼を見上げた若い女の薬剤師は、薬と一緒に何やら認めたメモまでくれたが、そんなものは木枯らしと一緒に夜空に放り出す。来た時と同じようにムツミを夜風にあてぬよう、揺らさぬよう、壊れ物のように抱え上げ、レオは家路を急いだ。


 早くムツミから風邪をうつし換えなければならないのだ。




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