第9話 獅子は風邪をひかない 3

アパートに戻ると、つけっぱなしの暖房の柔らかい空気がレオの頬を撫でた。

 なるほど人間と言うのものは、環境を心地よくする術に長けた生き物だ。

 レオはそう感じながら、寝台にそっと愛しい生き物を横たえた。

「ありがと……レオ君。何から何まで」

「いい。待ってろ、何か食べさせてやる」

 レオは薬の袋の注意書きに食後と書いてあるのを読みとりながら言った。

 食べたら唾液も大量に分泌されるかもしれない。経口摂取も容易になると言うものだ。

 ムツミの部屋にはレオが補充するまで食べ物はほとんど無かったし、食器も使った様子がなかったから少なくとも半日は何も食べていないに違いない。

 よく分からないながらレオは買ってきた大量の食料品の中から、匙だけで食べられる柔らかそうなものを選んでパッケージを開けた。ミルクと卵と、それから正体不明の(バニラだよ!)甘い匂いがするから菓子のようだ。

 本当は暖かい食い物がいいのだろうが、悲しいかな、レオは食物の暖め方を知らない。人間と距離を置く野人の雄には料理と言う概念すらないものもいるのだ。

 いつか晴れてムツミに尽くせる日が来るまでに、人間の慣習の全てを知り尽くしてやろう、レオは密かにそう決心する。今できる事がとんでもなく少ないのが辛いが。

「ほら……口を開けな」

「ん……」

 赤い唇がむにゅむにゅと彼が与えた柔らかい菓子を飲み込む。小さな舌がちらりと見えて、野人の雄がびくりと震えた。だが、そんな事はおくびにも出さずにレオは優しくつがいに尋ねる。

「……美味いか?」

「はい……」

「あったけぇものでなくてごめんな?」

 もう一匙。少し多く盛りすぎて口の端を汚してしまった。舐めとりたいのを堪えて、親指の先で拭い、自分の口に入れる。これくらいでは風邪はうつらないだろうか?

「いえ、充分です……」

「そうか」

 野人は非常な幸福を覚えていた。

 他人にものを食べさせるなんて、生まれて初めての事である。だが、レオは野人の本能の命ずるままに、甲斐甲斐しくつがいの世話を焼いた。小さな口に合うように匙は小型のものを選び、濡れたタオルを横に置いて口元を拭ってやる。合間合間には水を含ませ、簡単な、だが彼にとっては記念すべき食事が終わった。次は服薬である。薬は三種類処方されていたが、それもちゃんと分量通りに飲ませることができた。

「大丈夫か?」

 レオは心中快哉を叫びながら尋ねた。

「ん……お部屋……あったかいね……」

 ムツミは早くもうとうとしながらもぐもぐと言った。咳込みが少なくなったようだ。室内に湿度が保たれていたせいか、喉が楽になったのだろう。

「ああ……あの……ムツミ?」

「なぁに?」

 とろりとした顔でムツミが聞いた。熱で瞳が潤んでいる。その恐ろしいほどの破壊力にレオは喉を鳴らしながらも耐えた。

「その……俺、心配なんだ。だからその……今夜傍についてていいか?」

「そんな……大丈夫ですよ」

 ムツミは恥ずかしそうに小さく答えて毛布の陰に顔を隠した。

「大丈夫じゃないだろ? そんなに赤い顔して……まだ息も荒い……俺、ついていたい……誓って悪さはしねぇ。大人しくするから信じてくれ……な? 頼む、心配で堪まらねぇ」

「……でも……悪いし……」

「頼む」

「もう……しょうがないなぁ……」

 毛布から覗く耳を真っ赤にさせてムツミは許可を出した。その耳たぶに喰らいつきそうになるのをぐっと我慢して、レオは目の前の幸福に酔う。

「……風邪うつったらごめんね?」

「ありがてぇ……」

「でも、なんで、そんなに……親切にして……くれるの?」

「親切じゃねぇよ」

 親切なんかではない。断じて。

「義務?」

「義務でもねぇ」

 何で義務なものか。

 涙を堪えてレオは答えた。

「俺がこうしたいんだ。俺の為だ。許してくれ」

「……よくわから……ないけど……良くなったら……お礼……します……ね」

 そう言うムツミの瞼が下りてゆく。薬が効き始めたのだろう。長い睫毛がゆっくりと下がってゆくのをレオは、心行くまで堪能した。

 そうしてレオはじりじりと十分待った。ムツミの吐息は規則正しく、深くなっている。

 今だ……風邪をうつしかえるなら今しかない

 野人は行動を起こした。


 ああ……

 野人はうっとりと目を閉じる。

 なんて柔らかいんだ。柔らかくて……蕩けるように甘い。これが――

 つがいの唇。

 レオは風邪を転嫁すると言う、当初の目的のことなど頭から吹っ飛ばしていた。甘い二枚のそれを何度も啄み、ぺろりと舐め、角度を変えてはまた押し付ける。幾度それを繰り返しただろうか?

「ふぅ……ん?」

 うわっ……!

 ムツミが寝返りを打った。湿った息を頬に受けて思わずへたり込みそうになる。吐息ですらこんなに威力があるのだ。つがいが本気になって自分を籠絡しようとしたら、自分は死ぬかもしれない。

 レオは冗談ではなくそう考えた。

 あ……そうだった。

 やっと思い出す。ムツミの病を治すために彼女の唾液を摂取しなくてはならない。幸い唇が薄く開いている。それは彼に吸われて赤く色づき湿っていた。

「……」

 やばい。どこかが非常にやばい。

 目のやり場に困るが、目を逸らす気もない。赤い可愛い愛しい唇。今からこの中に――

 入る。

 ごくりと喉が鳴った。


「レオ君、レオ君……!」

「ほえ?」

 上から覗き込むのはまさしく彼のつがい。レオは腹筋だけで上半身を起こした。あのまま寝台の下の床で眠ってしまったらしい。いつの間にか朝になっている。

「ムツミ……起きたりしていいのか!?」

「うん……お薬効いたみたい……けど、レオ君はいったいどうしたの?」

「へ?」

「寝ている間に鼻血出したの? ……顔も真っ赤……もしかして私の風邪がうつったんじゃ……」

 そう言ってムツミは枕元に置いてある鏡を指した。レオが覗き込むと、確かにそこには惨憺たる状態の自分の顔があった。両方の鼻腔から流れた血が渇き、顔の下半分がカピカピである。おまけに目が血走り、心なしか顔が赤い。体も熱い。だが、断じて風邪などではない。

「大丈夫?」

「うわっ!」

 突然寄せられた顔に、レオは再び真っ赤になってずりずりと床を後退した。昨夜の事が一気に蘇り、再び鼻の奥に鉄の味が広がった。分厚い皮のレザーのボトムの内側は、朝の現象で大変な事になっている。

「レオ君、まさかあのまま寝ちゃったの?」

 レオの余りに不審な動作に、ムツミは終に寝台から降りて寝間着のまま寄ってきた。結っていない黒髪が重そうに垂れて肩を覆っている。眼鏡をかけていないからよく見えないのか、無防備に見つめてくる瞳。

「い……いや、俺は別に……」

 あの唇に俺は俺は俺は――

 夜を徹して散々っぱらのやりたい放題。

 舐めてしゃぶって吸って入れてなぞって弄って見つめて絡めてまた吸ってしみこませて啜り上げた。

 風邪が唾液を介して感染すると言うのなら、確かに充分なはずだった。

 そのせいか、ムツミの体温は平常に戻ったようだ。鋭い耳に聞こえる肺の音も正常である。ただ唇がすこぉし腫れている……かもしれない。

「ごめんね……ごめんね、レオ君。私の所為で……やっぱり無理してでも帰ってもらえばよかった……」

 ぽってりした唇を泣きそうに震わす、彼のつがい。

 その瞬間、レオの脳裏に悪魔が囁いた。

「ああ……そうかも……俺風邪、うつった……」

 実は全然別の熱なのにもかかわらず、レオは悪魔の唆(そそのか)しに身を売ってしまう。つがいに嘘をつく罪悪感はものすごいが、昨夜の甘美な体験の後では、つがいの傍にいたいと言う気持ちがそれを上回るのだ。

「ごめんね、私の所為……」

「いや……いいんだ。俺の勝手でついてただけなんだから、それよりムツミは大丈夫なのか?」

「私はもうへいき。もともと大したことなかったし、めったに飲まないお薬がよく効いたみたい」

「良かった……」

 やっぱり風邪はうつし変えると治るのだ。レオはそう確信する。

「レオ君は……あっ熱い。すぐに横になって……それとも家まで送っていこうか?」

 そんなことは無論却下である。

「いやその……頼みが」

 レオは後ろめたさ顔に出すまいとしながら、上目使いでつがいを見上げる。彼の金の瞳はムツミの陰になって淡く光った。

「なぁに?」

「その……少し休めば治るんだ……でも俺にはムツミの他に友だちはいねぇから……しばらく……その……良かったらでいいんだが……付いててもらえねぇか……な?」

 野人としてはあまりに情けないが、「お友だち」では致し方がない。せめて手でも握ってもらおうと腕を――

「そんな事当り前よ!」

 物欲しげに伸ばされた指先を鮮やかに無視して(と言うか、全く気付かず)、ムツミは立ちあがった。

「今度は私が看病するわ! さぁ、横になって! 風邪は引き始めが肝心だっていうから……何かほしいものはない? あら、こんなところに桃缶が! リンゴもすりおろして……」

 レオが買ってきた食材を物色すると、ムツミはすたすたと部屋を出て行った。残された野人は、暫く腕を宙に上げたままじっとしていたが、やがて肩を落とすと小さな寝台に、もそもそと潜り込んだ。

 また暖かさの残る布団の中に窮屈そうに身を丸め、それでもうっとりと幸せに酔う。

 ああ……むっちゃんのにおいだ……


 野人はささやかな幸せをかみしめた。




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