第7話 獅子は風邪をひかない 1

 『風邪を引いたからしばらく来ないでくださいね』

 その日、ムツミから入った連絡は男を一瞬で打ちのめした。

 ひゅるりら

 木枯らしの季節である。


 来ないでくださいね……来ないでくださいね……来ないで……

 メッセージの後半部分だけが頭の中を木霊する。

 これは一体どういう事だ? 来るなってどういう意味だ? しばらくってどのくらいだ? そもそもカゼって一体なんなんだ? 何を引いたら会えなくなる理由になるんだ?

 広いが無機質な部屋の床を大きな男はごろごろとのたうちまわった。

 野人はめったに病気はしないし、人との交わりが少ない野人の中には、風邪を引くという概念すらない者も珍しくはない。

 若いレオニダス・ライオンハートも御多分に漏れず、人間の細かな習慣や体質――ましてや女性の事情などにはからきし疎い。

 ううう、俺は俺はムツミに捨てられるのか?

 出会ってまだ二月に満たない彼のつがい。

 出会った瞬間、魂を奪ったあの姿かたち。黒縁眼鏡の奥の愛くるしい瞳、ロープのように編んだ長い髪。肉感的な曲線、そのすべてに彼の細胞は沸いたのだ。(注:レオフィルター透過につき。実際のムツミはそんな美女ではありません)

 嫌だいやだイヤダ。

 頼む、ムツミ俺を見捨てないでくれ……!

 一時間ばかり懊悩した後で、レオはある男の事を思い出した。

 彼より年上で人間の女をつがいにしているという男。

 以前、ある事件で手を貸しただけの関わりだが、この際なんでもいい。野人の雄ならば、つがいに関しては協力してくれるはずだ。つがいがバッティングしない限りは雄同士、持ちつ持たれつだからである。

 自分が知らなそうなことを教えてもらえるなら、どんな雄、人間、いや獣にだって頭を下げて頼むつもりだった。

 記録しているナンバーを端末で呼び出す。常に受信されるとは限らない。

 しばらく待ったが応答があってほっとした。

 銀髪の男が小さな四角形に投影された。

「俺だ。なんだ?」

 野人に時候の挨拶の習慣はないが、レオの事は覚えていたらしい。

「教えてくれ! カゼってなんだ? 来るなってどういうことだ? 一体俺はどうしたらいいんだ!?」

「……」

 いくら挨拶は無縁と言っても、あまりの唐突さに相手の男は少し呆れたようだった。

「おいっ! 何とか言ってくれよ! お前だけが頼りなんだ! 頼む、俺にはなんのこったかさっぱり……」

「……分かった。分かったから落ち着いて説明しろ。つがいだな?」

 野人の男が必死になるなど、つがいに関することに決まっている。

「ああ! そうだ! ムツミだ! 俺の魂だ!」

「ふん……それで、カゼって、風か?」

「さぁ……メールじゃ風邪を引いたって……」

 レオは分からないまま文面を引用した。

「……ああ、風邪か。風邪ってな、確か人間のよくある病気だ」

「病気! 死んじまうのか?」

 レオの目の前は真っ暗になった。膝が震えて立っていることができず、ふらふらと冷たい床にへたり込む。

 ……ムツミは死んでしまうのか?

 なら俺も……

「……後を追わねぇと……ああ、ムツミが、ムツミが死んで……」

「は? 何言ってんだ、おいてめぇ! しっかりしろ! 風邪をひいたのは、てめぇのつがいなんだろ?」

 錯乱しはじめ、ぶつぶつ言っているレオを、相手は端末を壊す勢いで怒鳴りつけた。

「待ってろムツミ……すぐに俺も……」

「こら聞け! よくは知らねぇが、普通は風邪で人間は死んだりしねぇ!」

「……え」

「多分大丈夫だ」

「……死なない?」

 レオはのろのろと、鬣(たてがみ)のような|黄金(きん)の頭部を上げた。同色の目も昏く彩度を落としている。

「ああ、よく聞けよ。確かに悪性の風邪ってのもあるらしいが、まずは安静にして、室温と湿度を十分に、栄養と水分を定期的に補給すれば、普通は二、三日で治る……はずだ」

「本当か……」

 声すら弱弱しい。

「本当だ。だが、風邪の恐ろしい所はソコじゃねぇ」

 通話の相手は意味深に声を顰めた。

 彼のつがいも少し前に風邪をひいて寝込んだのだ。

 だがダウンしたつがいより大騒ぎし、今にも死にそうに真っ青になっていたのは、他ならぬ彼自身だったという事は、若い同朋には敢えては告げない。結局彼も同じ野人の雄なのだ。

 彼のつがいは悪性ではないがしばらく近寄らぬように彼に厳命し、男を悶絶させた。結果、つがいの世話を焼きたし、逆らい難しの彼は彼女以上に衰弱した。彼女に入室を許されたのは、派遣された医師と看護師だけだったのである。彼らは男の殺人光線(視線ともいう)を難無くやり過ごし、おかげでつがいはすっかり元気になったが、男にはトラウマが残った。

 恐ろしきもの、その名は風邪。

「とにかく早く行ってやれ」

「だが来るなと……」

 つがいに会いたし、逆らい難しでレオは弱弱しく言った。

「いいから様子を見に行ってやるんだ。もしかしたら悪性かもしれねぇだろ? 抵抗力のない場合はそれこそ命にかかわるっていうぜ?」

「……ひぃ」

 冗談ではなく、悲鳴が漏れた。生まれて初めての事だ。

「ああそうだ。肝が縮むだろ? それからあんまり勧められねぇが、医者に連れて行くという手もある。俺たちには相当な覚悟がいるが、それでも医者は病気のプロだ。薬もくれるし、治りが格段に速くなる。ヨボウチュウシャってのもあるらしいぜ?」

 男はあれから風邪に関する知識をしこたま溜め込んだのである。二度とつがいに風邪をひかせないように。

「医者……か……」

「あ、そういえば本当かどうかはしらねぇが、こんな話も聞いたぞ」

「どんな?」

「風邪は人にうつすと治るとか……っておい! 聞いてるか? うわ!」


 ガタコン!

 相手を映し出した端末を放り出し、若い野人は部屋を飛び出した。




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