第5話 能のない獅子は詰めを忘れる 2
「ここで買い物をするの」
むつみが示した場所は小さな市場だった。
並木道から斜めに枝分かれした小さな小道。そこには小さな商店がずらりとテントを並べ、色とりどりの果物や野菜を並べている。向こうには肉や魚を商う店もあるようだった。夕飯の買い物客がちらほら集まりだしている。
昔からある平和な庶民の営みだ。
「市場……」
男にとっては始めて来る場所だ。
レオは物珍しそうに夕食時の市場を眺めた。入口付近に並んだ屋台からは、甘辛い、美味そうな匂いが漂ってくる。
「いつもここで買うのか?」
「あ、はい。この市場を抜けると私のアパートなんで、いつもここで。安くて美味しい食材が一杯あるんですよ」
そう言いながら、ムツミはどんどん買い物をしていった。
仲の良い商店主もいるらしく、時々会話を楽しんだり、おまけをもらったりしている。そして一様に、背後を守る騎士のような、用心棒のような、守護霊のようなレオをみて驚いていた。
「ムッちゃん、恋人かい?」
聞き慣れない単語がレオの脳髄に打撃を与えた。
ムッちゃん――ムッちゃんだと? そう呼んでもいいのか? いつかは?
「違います。今日できた新しいお友だちなの」
ムツミはさらりと答えている。
その答えは嬉しかったが、反面レオを哀しくもさせた。余りにも当然のように言い直されたからだ。
こんなやり取りを数回行いながら、ムツミは買い物を終えた。
きっと、友だちの次がコイビトなんだな。
レオの心中は知らず、ムツミは満面の笑顔で振り返る。買い物袋から溢れ返った食材は、見るからに健啖家であろう、レオの為だ。
菓子を売る屋台の前では、珍しそうにじっと見ていたから、少し出費になってしまったが、餡入りの揚げ菓子もどっさり買った。意外に甘党なのかもしれない。今日が給料日で良かった、とムツミは思った。
「一杯持ってもらってすみません。重いでしょう? 私もどれか持ちます」
「俺が持つ。重くなどない」
「いいんですか? あ、家はここなんです、オンボロでしょう? でも私は気に行っているの」
言いながら、小さなアーチを潜り、秋の花の溢れる中庭を抜けて、外側の階段から庭を見下ろす回廊へ。上がった三つ目の扉がムツミの部屋だ。小さな鍵を取りだして、古いペンキの剥げた扉を開ける小さな手をレオは黙って見守った。――少なくとも表面上は。
うわ……これは現実か? 夢じゃないのか? す……好きになった女の部屋に、早速上げてもらえるなんて……
「あのぅ……」
「はっ!?」
「入らないんですか?」
玄関先でぼうっとしているレオに、ムツミは不思議そうに声を掛けた。
「あ……いや悪い! ちょっと感動……いや、その……くー靴を脱ぐのか?」
「はい。びっくりしました? 私の民族の風習で……いえ、今はこんなことしない人が多いんですけど、私の家は昔からそうだったんで……でも、構いませんよ。どうぞお靴のまま上がって下さいな」
「脱ぐ」
レオは素直に頷いて、重い黒皮の|長靴(ちょうか)を脱ぎ捨……きちんと揃えて、ちんまりとした運動靴の横に並べた。
「どうぞ? 何にも無くてびっくりするかもしれませんけど」
「俺の部屋よりはいい」
「え? レオさ……レオ君はどこに住んでいるの?」
「決まった家はねぇンだ。この街にだって最近来たばかりで……」
「そう言えば、お仕事は何を?」
「ハンターだ」
「え?」
「ハンター。森海や荒野で人間や家畜を襲う獣を狩ったり、警察が手を焼く犯罪者なんかを捕まえる仕事だ」
「うわぁ……凄いお仕事ですねぇ……かっこいい。私なんてただの学生で、貧弱で、貧乏で……」
「金がいるのか?」
「お金? そりゃ学資と生活費ぐらいですけど。私は、訳あって両親と暮らせないんで、バイトと奨学金で暮らしてるから結構大変なんです」
「そうか……ちょっと待ってろ」
そう言うとレオは、レザージャケットの懐から小型の端末を取りだし、太い指で器用に操作し始めた。ムツミは仕事の連絡だろうと、そっとキッチンに姿を消す。
そろそろ夜は寒くなってくるし、レオは間違いなく肉食だろうから、奮発してスキヤキを作ろうと思ったのだ。これなら、材料を切るだけでいいし、味付けも調節できる。コメはたっぷり炊いておこう。
すっかり用意をして居間に戻るとレオがいない。
「あれ?」
トイレでもないようだ。だが、玄関には大きな長靴がそのままで。
え? いったいどうし――
「すまねぇ」
ムツミが心配し始めた途端、ドアが開いてレオが現れた。
「わ! 裸足で一体どうしたんですか?」
「ちょっとダチに連絡して、バイクとこれを取って来てもらってた」
さっきまで手ぶらだったレオの手には、大きな皮の袋が握られている。
「お友だちですか? ならご一緒に……」
「もう帰した」
折角二人でいるのに誰が邪魔など!
レオは大人しく差し出された雑巾で足を拭き、きょとんとしているムツミに皮袋を差し出した。きっと喜んでもらえる、そう信じて。
「これやる」
「は?」
「俺には不要のものだから。今まで放っておいたがやっと役に立った」
ムツミの手には重いだろうと、レオは食事の支度が整ったテーブルの隅にその袋をごとりと乗せた。
「はぁ……」
何の事だか分からないが、とにかく中を見ないと。ムツミは丈夫そうな袋の紐をほどいて中を覗き込んだ。
「ひゃあ!」
そこには、高額紙幣や金貨がぎっしり詰まっていたのだ。
「どうしたっ!」
驚きのあまり腰を抜かしたムツミにレオは慌てて駆け寄る。
「どっか打ったのか!?」
「ここここれ、これって……お金!?」
ムツミはわなわなとケースを指差した。
「ああ。人間は金に価値を見出すのだろう? 全部やるから、つかえ。もう苦労しなくてもいい」
「こんなにたくさんのお金……どうしたんです!?」
「どうしたって仕事の報酬でもらったもんだが……少ないか? なら……」
「そうじゃなくて!」
「?」
「こんなの貰えません!」
ムツミは何とか立ち上がって叫んだ。
冗談じゃない。
「……ムツミ? 怒っているのか? 俺は何か悪い事をしたのか? すまねぇ……」
てっきり喜んでもらえるかと思ったのに、どう見たって喜びのかけらもないムツミの様子に、男はおろおろと謝り始めた。
「ちーがーう! こんなにたくさんのお金もらう義理は無いって言ってんです! 少なくたって貰えませんけど!」
「なぜ? 友だちは困っている時に助け合うものだろう?」
訳が分からずレオは尋ねた。
こんな展開は想像していなかった。自分は一体何を間違えたのだろう?
「常識の範囲で、です! あなた変だわ!? 私をからかっているの?」
眼鏡の奥の大きな瞳がきらきら光って彼を射る。
「変……ヘン……へん……」
その言葉にレオは、がっくりと床に崩れ落ちた。金色のたてがみが力無く垂れて、顔を覆ってしまう。
「ごめん俺……ムツミの役に立ちたくて……いい友だちになりたかったんだ……すまん、何かきっと間違った事をしたんだな……俺、馬鹿だから……」
ぽたぽたぽた
握りしめた大きな拳の間に、水滴が音を立てて落ちて来る。
ムツミはあんぐりと口を開いた。
呆気にとられるとはこのことだった。こんなにきれいで立派な青年が、自分のような平凡な女学生の言葉に打ちのめされ、べっそりと床にへたりこんで泣いているのだ。
「ごめん。俺、ムツミが喜んでくれると思って……」
うわ、泣いてる、この人本気で泣いてるわ……
こんなに大きくてきれいで強そうな人が、私なんかにちょっと文句を言われたくらいで泣いてる……なんか……
「可愛い……」
ムツミは、巨大な背中を丸めてべそべそと泣いている不思議な生き物のたてがみに、そっと手をやった。
これはまるで――
「泣かないで? ごめんなさいね、怒鳴ったりなんかして。ちょっとびっくりしただけなの。こんなに一杯のお金、見たの初めてだから……」
そう、もっとすごいものが今、ムツミの目の前にある。
「レオ君? 顔を上げて?」
瞬間、がばりと男は顔を上げた。琥珀色の瞳が潤み、すっきりとした鼻梁の下から鼻水が垂れている。
これではまるで――
うわぁ……
思わず、濡れた頬に手を当てると、戸惑うように視線が揺れた。
これはもう、まちがいなく――
子どもだ。
ムツミはその瞬間理解した。
事情はどうでもいい。こんなに大きくても、色気むんむんでも、強そうでも、この人は子どもなんだ。それだけは確かだった。
「ごめんね? 私にくれようと思ったんだね?」
豪華なたてがみが、ぶんと下がった。
「ありがとう。でも、レオ君はそこまでしなくてもいいのよ。気持ちだけもらっとくね。それと、私もうお腹ぺこぺこ。早くご飯にしましょうよ」
「……」
「スキヤキっていうの。お肉好きでしょ?」
再びたてがみが下がる。
「野菜は食べられる?」
「喰える……もう怒ってねぇのか?」
「うん」
「……ほんとうに? ムツミ?」
「怒ってないよ。友だちでしょ? さぁ立って?」
ムツミが促すままレオは立ち上がった。
ぐんと背を伸ばすと、小さな部屋の天井に届きそうなほど背が高い。野人の生態などムツミは全く知らないが、いくら大きくともこの男は少年なのだ。
「友だち……」
そう、二人は友だち。
まずはそこから。
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