第3話 獅子も歩けばつがいに出会う 3

 もう、ダメだ。


 レオは鼻の奥に鉄の匂いを感じ取った。

 しかし、こんな所で血を吹く訳にはいかない。彼は野人の治癒能力のありったけを総動員して鼻血をこらえた。そして気分を変える為に、器の底にくっついていた白玉二つを一気に吸って飲みこんだ。当然咽むせそうになったが根性で耐え、血走った目で奥の二人を睨みつける。娘の前に座る男は、まだにやけながらぺらぺらと喋り続けていた。


「でもねぇ、俺だって本当に悪いと思っているんだよ。……そうだ、いいことを考えた。せめてものお詫びに、君に償いをしよう」

 そう言いながら、男はムツミの頬についと指を伸ばした。

 その瞬間レオは弾かれたように立ち上がる。

「きゃっ!」

 彼にしなだれようとしていたミヤコが驚いて声を上げたが、その甲高い声は彼の鼓膜をかすりもしなかった。

 大体彼は、一度もその女を見てはいないのだ。ただひたすら奥を見つめていたから。

 黄金の瞳が燃え上がる。

 触るな……触るな、それは俺の女だ。

 あいつ――を

 

 アイツヲコロシテヤル。

 吹き上がる殺気と雄の匂い。

 レオは静かに、しかし気を張り詰めて通路を歩んだ。

 獅子は兎を狩るのにも全力を尽くすと言う。

 レオが行く傍から、誰もが言葉を失っていった。

 静まり返った通路に重い足音が響く。彼はまっすぐ歩を進める。通路の突き当たり。壁際のブースを目指して。


「あの……償いって?」

 ムツミはすっかり諦めた顔で尋ねた。

 もうこれ以上無様な姿は晒したくなかった。この人とはここまでの縁だったのだ。未練は残すまい、いい経験をさせてもらった。それだけでもこの男に感謝をしなくてはならない。

 だが、男は卑しげな微笑みを浮かべてムツミの胸元を見つめている。そこにあるのは、幼い外見に似合わないふっくらした隆起。

「だからさ、俺だって別に氷の男ってわけじゃない。お別れの前に、一度だけステキな思い出をあげたっていいんだよ」

「思い出、ですか?」

「そう。今夜一晩、君をたっぷり可愛がって……うあ!?」

 何が起きたかも分からない内に、男は襟首を掴まれて通路に投げ出された。

 そのまま、ワックスの効いた床をすごい勢いで滑って行く。二秒後に銀器が落ち、食器の割れる耳障りな音がフロア中に響いた。

 しかし、レオはそちらを見向きもしないで、訳が分からずに呆気に取られているムツミを見下ろした。

「え?」

 ムツミは突然現れた美丈夫をぽかんと眺めていたが、彼が動かないので向こうの壁際で身を起こした男に視線を流した。

 男はワゴンの下敷きになり、両手両足を上げた無様な格好でじたばたしていたが、何とか這い出すと額からソースを流しながら、辺りをきょどきょどと見回した。そして自分を投げ飛ばしたであろう、レオに眼を止める。

 しかし、ムツミの視線を追って自分をめつける金髪の大男と目が合った途端、その整った顔は恐怖に醜く歪んだ。優男とは小賢しい生き物である。負ける絶対に戦はしないものだ。

 彼は上着の袖で、顔にマーブル模様を描いているピンク色のソースを拭うと、忌々しそうに足元に唾を吐いて立ち去った。

 レオはその後姿をにらみつけながら、辺りを圧倒する野生美を溢れさせて佇立していた。

 誰も何も言わなかった。


「あのぅ……?」

 おずおずと呼びかけられた声に、レオの肩はびくりと震えた。

 恐る恐る振り返る。そこには自分を不思議そうに見つめる大きなたれ目があった。

「すみませんが、あなたはどこの誰でしょう?」

「……」

 瞬間レオの脳髄は沸騰した。

 初めて自分に向けら獲れた彼女の瞳と声が脳天に突き刺さる。 

 体中の血液が沸き、どこかの海綿体に集中する。分厚いレザーがうまく隠してくれているだろうか?

 レオはしかたなく、彼女の前に腰を下ろした。が、坐った途端、急に居たたまれなくなって、もじもじと俯いて両手を膝の間に挟んでしまった。これが大の男のする事だろうか?

「あのぅ……」

 ムツミは再び問いかけ、はっと顔を上げた男の顔に思わず魅入ってしまった。さっきは驚いたあまりよく認識しなかったが、なんという美しい男だろうか?

 金色のたてがみのような髪と同じ色の瞳。太陽神アポロの怒りと言うテーマで絵を描けば、このような形をとるのだろうか。男の頬は強張り、視線は鋭く自分を射ぬいている。

 キレイな瞳……。でも、とっても怒っているみたい……。

 自分はこの美神に、何かしでかしたのだろうか? 神の怒りを買うような、とてつもないようなことを。

 ムツミは勇気を振り絞った。

「わ、私に何かご用です……か?」

 大きなたれ目は戸惑いで一杯に見開かれている。

「あ……いや、スマン。そのぅ……用、用って……あの……」

 レオは焦った。心臓が肋骨を突き破りそうな勢いで暴走している。ついさっき、<ナイツ>まみれの馬鹿者達をコテンパンに伸した時でさえ、これほど心拍数は上がらなかったのに。

 レオは男の飲み残した酒のグラスに手を伸ばし、一気に煽った。そして気分が悪くなった。

 胃の中で白玉とアルコールが取っ組み合いをしているようだ。しかし、指先が冷たくなったのはそのせいばかりではない。膝までが小刻みに震えるのは、目の前の女の所為なのだ。

 彼の運命の女性つがい

「その……用事は……」

 舌が皮のように口腔にへばりつくのを引き剥がし、からからに乾いた喉から何とかレオは声を絞り出した。

「用事は?」

「つ、つまり……」

「つまり?」

「……だから」

 レオは丸まっていた背を伸ばして座り直した。


「好きです。オトモダチになって下さい」




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