第2話 獅子も歩けばつがいに出会う 2

 つがいとは、野人にとって最大にして最強の束縛である。

 人間の言葉で言うならば「運命の相手」「生涯の伴侶」にあたるが、実際はそれよりも重い意味を持つ。野人のつがいは一生涯にただ一人。男なら女を守る為に命を投げ出すし、女ならば男が死ねば命を断つ。

 それほどまで重く、熱く、激しい存在なのだ。


 レオは瞬きを、呼吸をわすれて、その女に見入った。

 彼女はホールにひしめく、夏の派手な装いを凝らした女達の中では一番目立たない存在であったろう。

 もっさりと長いオークルの髪は、ロープのように太く編まれて顔の両側に垂れ下がっている。丸い眼鏡の奥のたれ目は矢張り茶色く、低めの鼻に薄く浮いたそばかす。どこもかしこも平凡で小さくて。

 そして、この店中で彼に注目していない唯一の女だった。

 ――ああ、あの女だ。

 やっと見つけた。

 彼が普段なら絶対に入ったりしない、こんな小洒落たレストランにふらりと入ったのは、正に運命としか言いようがない。

 この世界では比較的小さく、大人しい人々が暮らすと言うジャパネスク・シティでも、下町の治安はやはり悪い。この世界に蔓延はびこる麻薬、<ナイツ>中毒の男達に絡まれ、手加減しながら全員を叩きのめした直後で、気が立っていたのかもしれない。

 甘い物を少し、口に入れたくなったのだ。

 注文を聞きに来たウエイトレスがぽかんと口を開けて彼に見蕩れている。

 それへちらりとも目もくれず、レオは適当に白玉あんみつを注文した。彼の視線は奥の壁際に座り、こちらに横顔を向けている小柄な女から片時も離れなかった。彼女の前には若い男が座っている。

 ――誰だ、あの野郎は。

 ――あれは俺の、俺の女なのに。

 彼の中に、今しがた収めたばかりのどす黒い怒りの熱が沸き起こる。しかし、こんな明るい内から、上品なヤマノザタウンで騒ぎを起こす訳にはいかない。

 レオは優れた五感を全てその二人に注ぎ込んだ。


「悪いね。君とはもう付き合えなくなったんだ」

「……そう……ですか」

 女は悲しそうに俯いた。目の前のカップは手もつけられていない。

「君の事は別に嫌いじゃなかったんだけどね。だけども正直ダサ過ぎでさ……君といると俺が笑われちゃうんだよね」

「きれいに見えるように頑張りますけど、やっぱりダメですか?」

「……ごめんね。滅多にないタイプだし、確かに見栄えはしないけど、飾ればそれなりに化けるかとは思って付き合い始めたんだけど、やっぱり無理」

「……ごめんなさい……」

 ぷっちりした唇が震えるのが見えた。

 眼鏡の奥の大きな目は、溢れるものをき止めきれるだろうか?

 レオが思わず腰を浮かそうとした時――

「一人? ここ、いいかしら?」

 甘ったるい香水の香りと供に、別の女がレオの横に滑り込んできた。

 余程自分に自信があるのだろう、確かに男なら誰もが奮いつきたくなるような魅力的な曲線を持つ、美しい女だった。

「あなた、名は? 私はミヤコ」

「レオ」

 レオは女を見もせずに機械的に応えた。

「レオ! 獅子と言う意味ね。何てあなたにぴったりな名前なの? ねぇ、今夜時間ある? 私、二人きりで楽しめるいい所を知ってるんだけど」

 その時、ウエイトレスが注文の品を運んできた。先ほどより紅が赤く塗り直されている。女二人の視線が確かにかちりと火花を散らした。

「お待たせいたしましたわ」

「あら? あなた変わったものを注文したのね。白玉あんみつだなんて、今時滅多に見かけないわよ。見かけによらず甘党なのぅ? でも私ならもっと甘いわよ?」

 ミヤコはそう言ってレオの肩に手を置くと、ウエイトレスに流し目を送った。ウエイトレスも負けじとミヤコを睨み返すと、レオに微笑みかけて言った。

「……ご注文があれば、また私をご指名下さいね? ……いつでも」

 見ると涼しげな器と皿の間に紙切れがはさんである。

 おそらく自分の連絡先を書いてあるのだろう。しかし、レオは矢張り見向きもしなかった。美しい目に剣呑な光を湛え、奥の席の二人を見つめ続けているのだ。


「……あなたが太陽のようだったから、ずっと憧れていました」

 そう言って女は無理に笑った。その微笑みが三ブース離れて座っている、大の男を打ちのめした事にも気づかずに。

「知っていたよ。ずっと遠くから俺を見ていたろ? だからあの時、つい声をかけちゃったんだよ」

「嬉しかった……だから私、生まれて初めて勇気を出して言えたんです。好きです、おともだちになって下さいって……」

 その言葉を聞いた途端、レオの喉から低い唸り声が漏れる。隣の女が胡乱気にレオを覗き込んだ。

「そうだったよねぇ。俺もどうかしてたんだ。なんだか君が捨てられた仔犬か何かに見えたもんだから、思わずOKしちゃったんだよね」

「この二週間、私はとっても楽しかった……でも、あなたはそうでもなかったんですね。付きまとってごめんなさい。もう会いません」

 女はぺこりと頭を下げた。

 その拍子に、懸命に堪えていた透明なものが終に一雫、頬を伝い下りる。慌ててそれを拭う仕草が、あどけないくせに妙に色っぽく、分厚いレザーに覆われた彼の中心がどくどくと熱を持ち始めた。レオは彼女に見蕩れながら手探りで器を取り、きれいに盛られた中身を貪るように流し込んだ。

 蜜だ。あの女は甘くて濃い、俺の好物そのものだ……。

「いや、そんな風に言われちゃうと困るんだけど、確かに人生初めての経験だったね。二週間も僕といたのに、キスすら許してくれなかった女の子なんて」

 男は相変わらず、軽い調子で話に興じている。

「あの時は……びっくりして思わずよけてしまっただけで……でも」

「いいんだって。無理しなくったって。つまり、俺達はちっとも合わないって事なんだよ。でも、ムツミ……」

「……はい?」

 ムツミと呼ばれた女は僅かに首を傾げた。

 ムツミ?

 なんという甘美な響きだろうか? レオはゆっくりとその音を反芻した。

 それが彼のつがいの名前なのだった。


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