第37話 無力

 夕方。俺は電車の窓から夕日を眺めていた。オレンジ色の光が空の向こうからこちらに向かって照りつけている。


「はぁ……あっという間だったね」


 隣から聞こえてくる声。俺はそちらに顔を向ける。


 未だ、濡れて輝いている金色の髪。俺はそれを純粋に美しいと感じてしまった。留奈は俺の顔を覗き込むようにしてこちらを見ている。


 留奈とのプールの時間は本当にあっという間だった。というか、俺にとっては――


「まぁ、ほとんど、昭彦の泳ぎの練習の時間になっちゃったけどね」


 おかしそうにそういう留奈。そう言われると俺も恥ずかしくなってきてしまう。


「……悪かったな。未だに泳げなくて」


「別に。私も教えていて楽しかったし。どう? 今度行ったら泳げそう?」


 そう言われると嫌でも思い出してしまう。俺が泳げないと白状すると、むしろ嬉々として泳ぎを教えてあげると言った留奈のこと。


 それこそ、まるで子供のように手を引かれながら泳ぎの練習をしたこと……思い出すとこの上なく恥ずかしいが嫌な気分というわけでもない。


「……まぁ、上手く行けば泳げるようになるんじゃないかな」


「そう。それは良かった。今度はプールじゃなくてもっと広い所で泳ぎたいよねぇ。例えば、海とかさ」


 そう言って留奈はなぜかニンマリとまたしても俺をからかうように笑顔を向けてくる。


「今度は競泳水着じゃなくて、もっと際どい水着を着てきてあげるからさ」


「なっ……! 別に、俺は何も言ってないだろ……!」


「そう? 泳ぎを教えている間、結構、視線を感じたんだけどなぁ」


 俺を試すようにそう言ってくる留奈。なるべく、あまり留奈の方は見ないように泳いでいたつもりだったのだが。


「……悪かったな。視線を感じさせて」


「別にいいって。昭彦だからね」


 そう留奈が言ったきり、俺達は黙ってしまった。そうだ……これで終わりじゃない。明らかに留奈は俺の答えを……選択を待っている。


 だから、終点までに……遅くとも改札を出るまでには俺は留奈に告げなければならない。俺がこれからどうしたのかを。


「ねぇ」


 と、先に声をかけてきたのは、留奈の方だった。俺は顔だけ留奈の方に今一度向ける。


「……なんだ?」


「……前さ、その……キスしたこと、覚えてる?」


 唐突に留奈はそう言ってきた。俺は予想外のことに思わず戸惑ってしまう。


「え……いや、まぁ、覚えてるけど……」


「昭彦は……あの時……私と里奈ちゃん、どっちとキスしたの?」


 そう言って不安そうに留奈は俺のことを見てくる。どちらとキスした……言われてみれば難しい話だ。


 確かにあの時、俺は留奈を留奈と果たして認識できていたのか。見た目には完全に里奈だった。でも、あの時、間違いなく俺がキスしたのは……留奈だった。


「それは……留奈だよ」


 俺がそう言うと留奈は少し俯いてから今一度俺のことを真剣な目で見つめてくる。


「……じゃあさ。私だから、キスしてもいいって思ったの?」


 もっと難しい質問が来た。いや、わかってはいた。いつかきっと聞かれる質問なのだ、と。だけど、俺は俺自身の中でその答えを有耶無耶にしていただけなのだ、と。


 俺はすぐには答えられなかった。しかし、答えないという選択肢はなかった。


「……いや、違う」


 そして、俺は考えた末にそう言った。留奈は少し驚いたように俺を見た後で、なぜか笑顔になった。


「ふ、ふーん……だよね。ま、まぁ、あの時、いきなりだったし……そういうのは、ないよね……」


「……正直、自分でもよくわからないんだ」


 俺はそう言って留奈のことを見る。今度は俺自身が話す番だった。


「久しぶりに里奈と留奈と会って、嬉しかったし、電車で会うのはいつの間にか、俺の中で、その……楽しい時間になってた。でも……その……キスとか、されるってのは、全然想像できなかったから」


 自分の考えていることを俺はそのまま述べた。学校でもここまではっきり言ったことはなかったので自分でも驚いてしまった。


 留奈は黙って俺の話を聞いていた。金色の髪先から水滴が溢れるのが見えるくらい、俺は落ち着いて留奈のことを見ることができた。


「でも、それが嫌だとかそういうのはない。だけど……やっぱり自分の中では……わからない」


「……わかってよ」


 留奈はうつむきながら小さい声出そう言った。俺はしばらく黙ったままで、返事をしなければならなかった。


「……ごめん」


 俺がそう言うと同時に電車が止まった。すでに終点に着いてしまった。


「……正直、私だって、同じだと思う」


 留奈はそう言って顔を上げた。俺は何も言わずに留奈の話を聞く。


「実際、昭彦とは久しぶりに会ったわけだし……そんな相手にキスとかするのは、いきなりすぎたと思う……それこそ、電車の中でたまたま会っただけの人と同じ程度の関係なのかもしれない……だけど!」


 そう言ってから留奈は俺の方を見る。俺は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。


「だけど……そうじゃないって……思ったから、私は……」


 留奈はそう言ってから目に涙を貯めて立上って、そのまま走っていってしまった。


 俺は……追いかけるべきか迷った。だけど……結局、俺はきっと追いかけたところで何もできない。何も返事ができない。


 ただ、席に座ったまま自分の無力感を感じているだけなのだった。

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