第14話

机の上に置かれたデジタル時計があと数秒で午前4時になろうとする頃、友樹はふと目を覚ました。夜更けまで荷造りや部屋の整理をしていて、ベッドに倒れ込んだ後いつのまにか眠ってしまったらしい。半開きにした窓からはかすかな虫の声以外、何も聞こえない。横になったままぼんやりと考える。

…これからどうなるのかな…ハシモトさん達は妙に落ち着いてるけど、しばらく身を隠すって、そんなに上手くいくんだろうか…。…シュンさん、今、何を考えてるんだろう…やっぱり死刑になっちゃうのかな…僕たちだけ、逃げていいのかな…

窓の外がほんのり明るくなる。夜明けだろうか、それにしてはまだ早い気がする。光はゆらゆらと動いて…そして低い振動音がだんだんと近づいてくる。これは…

ばん、と乱暴にドアが開けられて、友樹は飛び起きる。同時にハシモトが部屋の中に飛び込んできた。

「友樹君、逃げよう。捜索隊が来た。」

ハシモトと共に慌しく階段を駆け下りる。納戸に入ると、そこでは既にアオイが床に作られた地下道への扉を開いて待っていた。

どんどん。玄関のドアが叩かれる。いつのまにか建物の周りに沢山の人の声や足音が聞こえる。建物の直上でヘリコプターが滞空しているのだろう、窓はがたがたと振動し、友樹は眠気が急に覚めていくのを感じた。

「まず、友樹くんから入って。」

「あ、はい」

アオイに指示され、扉から2mほど下の地面へ、はしごを伝って降りる。その後、友樹の荷物が入ったスポーツバッグと、食料を詰めたリュックサックが降ろされた。

玄関を叩く音は激しくなっていく。拡声器で中に入れるようにと誰かが叫んでいる。

「アオイさんと、ハシモトさんも、早く」

「僕とアオイは、ここに残るよ。」

「えっ…」

廊下にある明り取りの窓から、ヘリコプターのライトの光が納戸に差し込み、ハシモトとアオイの姿を照らした。

「あいつだけ、一人ぼっちにして逃げられないでしょ。きっと、今頃不安で泣いてるわよ。子供だから。」

そう言ったアオイは優しく微笑んでいた。

「それにな、」

ハシモトが口を開く。

「僕らには罪がある。沢山の子供たちを傷つけた。今逃げれてもいつかは捕まって、シュンと同じように裁かれることになるだろう。でも友樹君は違う。今なら社会に戻って、やり直せる。」

「…そんな…僕は…」

友樹は俯いて、声を震わせながら言葉を続ける。

「無理、ですよ…戻ったって、何もない…ハシモトさんだって知ってるはずです。僕たちは、誰にも理解されなくて、拒絶されて…幸せになる方法なんか存在しない。そうやって最後まで苦しんで死ぬか、自分を殺して生きていくかしかないんです。僕は…ここでしか生きられない…ここにしか仲間がいない…お願いですから、一緒に逃げてください!」

そう二人を見上げて叫ぶ友樹の瞳からは、涙が溢れ出していた。

「甘えるな!」

ハシモトの怒鳴り声に、友樹は唖然とする。ハシモトは最年長として面倒見が良くて、いつも優しくて、怒鳴られたことなど一回も無かった。

「理解されない?拒絶される?だから何なんだ、そいつらはお前にとって大切な存在なのか?そいつらはお前のことをよく知っているのか?違うだろう、自分のことは自分にしかわからん。何もわかってない他人にお前の価値を決めさせるな!自分から何もせずに他人から幸せを与えられるのを待つな!」

「…でも!僕は…自分を受け入れられない!…自分の「好き」が、怖くて、正しいかどうかわからなくて…きっとこのままじゃ自分が嫌いになって…」

「友樹くん、善悪なんて存在しないわ。多数派の人間にとって都合が良いことを正義と呼んでいるだけ。時代や場所が変われば、その数だけいくらでも違った正義が唱えられる。それでいいのよ、誰しも自分自身が一番大事。そして自分やその自分が愛する者のために、時には人を傷つけたりもする。たまたま、傷つけたほうが一人で、傷つけられたほうが多数だったから、その一人が悪の刻印を押されてしまっただけ。」

複数の方向から、がしゃん、とガラスの割れる音が響く。おそらく警官が窓を開けて突入しようとしている。

「じゃあな、友樹君。君がどんな大人になるのか、楽しみにしている。」

ハシモトはまたいつもの優しい顔に戻って、扉に手をかけた。

「ま、待って…お願いだから…」

友樹は震える手を上に伸ばすが、あと少しで扉までは届かない。

「友樹くん、勝手かもしれないけど、私の夢、託すからね。」

そのアオイの言葉を最後に、扉は閉められて、友樹はランタンの淡い光が照らす空間に一人取り残された。扉の上にはすぐに二人がカーペットを敷いて家具を載せたのだろう、微かに足音が聞こえる以外は何も聞こえなくなった。

友樹はしばらくそのまま、地面に座り込んでいた。

…夢…アオイさんの夢…そうだ、僕たちのような「好き」を持った人々が、平和に暮らせる場所を作る、って言ってた…

そのまま警察に発見されるまで、そこで待っていることだってできた。だが、何かに背中を押されるように、友樹はふらふらと立ち上がり、薄暗い地下道を奥へと進んでいった。


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川瀬家はまるでそこだけ時間が止まったように、静寂に包まれていた。キッチンのテーブルには由梨が生気のない表情で座っている。自分は続けて我が子を2人亡くした。周りはそう言っている。警察や親戚の人は気を遣って接してくれている。もう裕太と翔太の顔を最後に見てからどれだけ経ったのか。情報としては知っているのに、未だに何が起こったのか、なぜ彼らが帰ってこないのか、理解ができていない。感情は波のように押し寄せてはまた引いていく。以前まで休日には夫婦で料理やガーデニングを楽しんでいた気がするのだが、何もする気が起きず、ただここに座ったまま、時折深い悲しみの底に突き落とされるのを待っていた。

「食事、買ってきた。」

いつの間にか政史が買い物袋を持って、薄暗いキッチンの入り口に立っていた。

「ああ、ええ…」

由梨はあいまいな返事を返す。食事…そう、空腹も何も感じないけど、昨日から何も食べていなかった。政史は流し台の上に買い物袋を置いて、中から惣菜のパックを取り出す。その背中は以前より痩せていた。

「なぜ…裕太は殺されたんでしょうか…」

検察の聴取で政史が言っていた事を思い出す。

「なぜ…これから学校でたくさんの友達を作って、楽しいことや悲しいこと、たくさんの経験をして、好きな人ができて…そんな未来を奪ったんでしょうか。」

「いえ…そんなことを聞いても仕方がないですよね。犯人がどんな弁明を並べようとも、どんな事情があったとしても、決して許しませんから…どんな判決でも、足りません。裕太から奪ったもの全て、私たちから奪ったもの全て、返させて、裕太と同じ苦しみを、犯人に永遠に味わってもらわなければならないんです。この手で、直接彼の目を見ながら首を絞めて殺せないのが、本当にもどかしい。」

そう声を振り絞る政史の掌には、爪が食い込んで血が滲んでいた。

そう、裕太や翔太を失っただけでなく、以前の優しくて温厚な夫も失ったのだ。このキッチンに毎朝響いていた賑やかな笑い声は二度と戻ってこない。今までも、ニュースやワイドショーで色々な事件を見てきたけど、どこか現実感がなかった。遠くの世界で起こっていることで、自分には起こらないというおかしな自信があった。でも、他人が大切なものを奪っていくことも、それが二度と戻らないことも、全てこの世界の現実なんだと、否応なしに理解させられた。そして、今この家に充満する、復讐心や、犯人をこの手で殺したいという気持ちにも、政史と由梨は目を背けることができなくなっていた。

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