第12話

「しゅう…にいちゃん…?」

「うん、しゅうじゃなくて、しゅん、な。…ほら、これ食うか?」

シュンは近くの屋台で買ってきたクレープを裕太に差し出す。裕太はそれを少しずつ口に運び始めた。

最初は目には涙が残り、まぶたは赤く腫れたままの顔で一口二口食べていた。そのうちだんだんと食べるペースが上がり、それにつれて表情は明るくなっていった。その変化が面白くて、ついシュンも微笑んでしまう。

「うまい?」

「うん、おいしい!」

全て食べ終わるころには先ほどまで大声で泣いていたのが嘘のように、裕太はすっかり元気になっていた。

ベンチで座る二人の隣には、先ほどアウトレットで買ったシュンの洋服が入った紙袋がいくつか並んでいる。買い物を終えて店から出てきたシュンは、ベンチで一人泣いている裕太を見つけ、話しかけたのだった。

海岸に作られた施設なだけあって、さわやかな風が身体を包み、時折潮の匂いを運んでくる。この場所からも、建物の隙間から、少しだけ海が見えていた。

「裕太くん、家族と来たんだよね?」

「にいちゃんがね、あっしょうにいちゃんね。ぼくがわがままだから、もうかえってくるな、って。」

「あぁ、お兄ちゃんと喧嘩したのか…」

「にいちゃん、あんなこというのはじめてだった。それに、どっかいっちゃって…もうぼくもにいちゃんいらない!」

「あはは、でも裕太くんのことを思って、言ってくれたんだよ。今頃きっと必死で探してる。」

館内図で迷子を預かってくれそうな「インフォメーション」と書かれた施設を見つける。シュンは紙袋を片手に持つと立ち上がり、裕太へ手を差し出した。

「さ、行こう。」

普段マヨヒガで暮らしていて、こんな幼い男の子と話すことなんて何年ぶりかわからないぐらい久しぶりだった。アウトレットの中は家族連ればかりで、自分たちもほかの人から見たら歳の離れた兄弟に見えているのかもしれない、そう思いながらシュンは裕太の手を引いて歩いていく。

噴水のある広場に出たとき、シュンは裕太が立ち止まったのに気づき後ろを振り向く。裕太が見上げる先には、大きな赤い観覧車が強い日光を反射してきらきらと輝いていた。

「どしたの?」

「…」

裕太はまるで宇宙船やタイムマシンを見るような目で、観覧車から目を離せないようだった。シュンは観覧車の料金が書かれた看板を見てから、財布の中を確かめる。洋服は安いものだけ選んだから、まだお金は十分に余っている。アオイには黙っていれば怒られないだろう。

「裕太くん、乗ろう!」

そう言ってシュンは勢いよく裕太の手を引いて、走り出した。


観覧車のゴンドラはテーマパークに有るようなものと比べると一回り小ぶりで、大人4人が乗ろうとすると少し狭いのではないか、というサイズだった。それでもシュンと裕太二人だけだと、対角線上に座れば二人とも足を伸ばしてリラックスして座れた。

「わぁっ、すごい、うみだ!」

裕太が歓声をあげて立ち上がる。観覧車はゆっくりと昇っていき、先ほどまで屋根に隠れていた海面が少しずつ眼前に広がっていく。

何故、一緒に観覧車に乗ろうと思ったのか、シュン自身にもよくわからない。普段マヨヒガで暮らして、子供から幸せを奪っていて、そんな自分とは違う時間を過ごしたかったのかもしれない。それに、ただ単純に、この小さな男の子にとって気分転換になって、兄と仲直りしやすくなればいい、という気持ちもあったと思う。

だんだんと変わる風景に、裕太はせわしなく両側を行ったりきたりして、そのたびにゴンドラが揺れる。先ほどから裕太を見ていて、好奇心の強い子だとシュンは感じていた。確かにこの子の面倒を見る兄は大変かもしれない。

「ともだちひゃくにん、なんだよ」

「へ?」

突然裕太がシュンに話しかける。

「あさってからしょうがっこうで、そこでともだちひゃくにんつくるんだ」

「あ…あぁ、そうなんだ。楽しみだね。」

…そうか、この子は、今日はじめて会った俺ともすぐに打ち解けることができて、学校でも自然にどんどん友達ができて、そういう子なんだ。

「うん、でね、にいちゃんとおなじで、かいちょうになる!」

シュンは、この前夢の中で会って、でも深く考えようとしなかった人物のことを思い出す。彼もまたクラスのリーダー的な存在で、彼の周りにはいろいろな生徒が自然と集まっていた。明るく、誰にでも優しく、いつも笑顔で、輝いていた。


「てっちゃん…なんで、アイツには笑うんだよ…」

記憶の中の春は一人、夕日の差し込む暗い部屋で、膝を抱えて座り込んでいた。ホームルームが終わり、今日は何の話をしながら帰ろうか、考えをめぐらせながら哲也の教室に行った。そこで見たのは、陸と楽しそうに会話をして、一度も見たことのない笑顔で笑う哲也だった。

陸は確かによく哲也に話しかけていたけど、同じ部活だというだけで、哲也は疎ましがっているはずだった。無口で落ち着いた哲也は、自分と一緒にいるのが一番心地よくて、そんな哲也を一番理解しているのも自分であるはずだった。

記憶は高校生になった後に繋がる。春は、何も変わらない部屋で、同じ姿勢で塞ぎこんでいた。学校に行かなくなってどれぐらいの時が過ぎただろう、でももう行く必要なんてないんだ。哲也は陸を通じて知り合った女の子と付き合い始め、春よりもレベルの高い高校に進学した。それまで強く二人を繋いでいると思っていた糸は、あっけなく切れた。

いつのまにか、他人と関わることができなくなっていた。地味で口下手な自分でも、どこかに必要としてくれる人がいる、そんな人が一人でもいれば十分だ、そう信じていたが、現実の世界は、決して手の届かない力を持った者に全てを奪われ、持たない者には何も残らない場所だった。

高校を退学になった夜、部屋を出て、哲也に似た男の子を見つけると、欲望のまま蹂躙した。それから、山の中をさまよい歩いた。もう、帰る場所など、自分を必要としてくれる場所など無くて、そのまま死ぬつもりだった。


今、目の前で無邪気にはしゃぐ男の子は、いずれ陸と同じ人間になって、僕のような子から何もかも奪って、そんなこと一瞬も気にかけないで、幸せな人生を送っていくんだ。

マヨヒガに入って救われた気がしてたけど、ほんとは何も変わってない。僕は同じような惨めな人間たちと幻想に浸って、自分が負けたという現実から逃げてるだけなんだ。どんなに他の子供で欲望を満たしても、あの日の哲也は自分のものにならない。

…お前さえ、いなければ…

シュンは裕太の細く柔らかい首に手をかける。裕太は不思議そうにシュンを見つめた。

この地上と切り離された、空に近いところにあるゴンドラの中なら、僕は陸に勝てる。ここなら、二人きりで、これから陸になるこの子はまだ幼くて、自分の価値に気づいていない。

少しずつ手と手の間を狭めていく。目の前で学生服を着た陸が、か細い悲鳴を上げた。いつも笑顔だった彼には似合わない苦しみの声。マヨヒガでの仲間との思い出が、写真が焼け落ちるようにどんどん消えていく。

指先に、何か固い感触を覚える。風のせいか、ゴンドラが大きく揺れる。でも躊躇しない。今度は逃げない。

観覧車の頂点に着く頃には、全てが終わっていた。


力を失った裕太の身体が、人形のようにどさりと床に崩れる。先ほどまでと変わらない速度で、今度は下がっていくゴンドラ。地面に着くまで、あと何分あるだろう。

桜の花びらが雪のように舞う。

「あのね、僕、てっちゃんのこと、好き。」

校門の前で、春は哲也にそう告げる。

「お前、何…言って」

困惑する哲也。でもまっすぐに見つめてくる春から、目をそらせない。

「前からずっと、好きだったよ。ねぇ、てっちゃんは?」

「いや、そんなこと急に言われても…わかんね…」

こんなに動揺した哲也を見るのは初めてだ。少し赤くなった頬を見て、春は今まで感じたことのなかった優越感を覚える。

「お、俺、部活あるから…もう行かないと」

哲也がぎこちなく歩き出そうとすると、春がその腕を掴んで引き寄せた。驚いた哲也は言葉を失ってしまう。春がこんなに積極的に行動するところなんて、見たことがなかった。

「部活は今日はお休み。僕の家行こうよ、新しいゲーム買ったからさ。」

春は哲也をぐいぐいと引っ張りながら、坂道を下っていく。哲也は初めこそ抵抗していたが、そのうちあきれ顔になって春の隣に並んで歩き始めた。桜のトンネルが、そんな二人を優しく包み込んでいた。

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