第11話
「同じように生きるでしょう。」
予想していなかった回答に、橋本は思わず言葉を失ってしまう。どの様な答えを期待していたのか、次はどの質問をする予定だったのか、手帳を見つめるがすぐに答えは出てこない。動揺から立ち直れないうちに、男が口を開いた。
「私、子供のころ、自分のやりたいこと一つもできなかったんです。暴力が日常茶飯事の家に生まれて、いつのまにか親がいなくなって、預けられた家でもまた暴力を受けて、学校では無視されて。橋本さんにはわからないかもしれません。何一つ満たされない、いや満たされるという感情自体を知らなかったんです。大人になって、なんとなく地元の工場に就職したんですが、1ヶ月も続きませんでした。だって生きる意味がありませんでしたから。」
「お金がなくて、田舎町でやることもなくて、昼間から公園でぼーっとただ時間を潰していた。そのうち一人の女の子と仲良くなりました。その子は両親が仕事で帰りが遅いらしく、よく公園に一人で遊びに来て…」
「その話は、もう結構です。」
少し強い口調で、橋本がさえぎる。この話を聞かされていては、自分は冷静に取材を続けることができなくなる。そう感じたからだ。
「はは、すいません、話しているとつい長くなってしまって…でも、人生を繰り返したいか聞いたのは、あなたじゃないですか、橋本さん。」
「それは…」
「そうして、私は子供が大好きになって、自分がやりたいことができる喜びを、生まれて初めて知った。そしてその時既に、私には失うものや守るものが何も無かったんです。このことを初めて幸運だと気づいた。きっとほかの人たちは色々なものを失いたくなくて、我慢することしかできないんでしょうからね。最後はここに行き着いてしまったけれど、大好きなものを見つけられて、やりたいことをやりたいだけできて、本当にいい人生だったと思います。だから、何度でもこの人生を生きたいんです。」
そう話し終えた男の顔は、ほんとうに幸せそうで、そのおぞましさに橋本は目をそらす。
…そうだ、みんな我慢してるんだよ。自分のため、家族のため。自分一人が幸せになるために、周りを傷つけて良いわけがないじゃないか。何がいい人生だ…
反論を口にしかけるが、それが取材の目的でないことを思い出し、ぐっと飲み込む。そもそも身勝手な犯罪者と話が噛み合うわけが無いのだ。改めて大きく息を吐き出し、感情を抑えながら手帳の文字を読む。
「被害者へ伝えたいことはありますか。」
「私の幸せのために犠牲になっていただいて申し訳ない。でもちゃんと私は幸せになれた、無意味な犠牲でなかった。だから同時に『ありがとう、大好きだよ』とも言いたいです。」
もう限界だった。どちらにしろこの内容を記事にそのまま書けるわけが無い。怒りが声に滲み出るのをこらえながら、できるだけ自然な感じで終わらせようとする。
「…ご協力ありがとうございます、これで取材は終わりです。」
「あぁ、随分早いんですね。まだ10分ぐらいしか喋っていませんが。」
「別の用事が入ってますので」
そう早口で返し、橋本は乱暴に手帳と筆記用具を鞄に押し込み、立ち上がろうとする。
「橋本さんにはお子さんはいますか。」
嫌な汗が全身からふき出す。一番聞きたくなかった質問、一番考えたくなかったこと。橋本は思わず、一瞬手を止めてしまう。
「…いえ、記者やってると、なかなか家庭を持つのは…」
「いるんですか、それは良かった。」
男は橋本の取り繕う言葉など聞いていなかった。瞳の奥を覗き込み、隠した動揺をいとも簡単に暴き出してしまった。
「橋本さん、自分の好きなこと、できていますか。」
それを聞いた橋本は肩に掛けかけた鞄を下ろし、乱暴に机に叩きつけた。
「私には、守るべきものがある。全て欲望のままに行動できるわけがないだろう。それが社会に生きる人間として当然だ。それに、まともな人間なら、好きなものは、傷つけずに守るべきだ。欲望を満たす手立ては他にいくらでもある。聞こえの良い言葉を並べているが、結局のところ、お前は、子供を物としか見ていないんだ。」
そう一気にまくし立てた後、肩で息をしながら、男をアクリル板越しににらみつける。そうだ、俺は正しい。職場で校正のパートをしていた女性と知り合って、自然に愛し合って、結婚は両親や親戚に祝ってもらって、たまの休みに昼寝をしていると娘に遊びに連れて行くようせがまれ…そんな平凡だけど幸せな家庭を築いている。こんな自分のことしか考えていないような奴とは違うんだ。落ち着け、感情的になる必要なんて無いんだ。
「橋本さんは、立派な方だと思います。でも、このままそれを続けるつもりですか。」
「…いったい何を…」
「他の人の幸せのために自分を犠牲にしてきたんですね。本当はやりたいことが沢山あったのに、周りの目が気になって、自分を殺すしかなかった。いえ、そこまで苦しいとは感じていなかったのかもしれません。だって、「良い大人」で居ると気持ちがいいでしょう。正義には簡単に酔えますからね。でもそれはただの麻酔で、あなたの深いところには、どんどん溜まっていってるんですよ。」
顔をアクリル板のこちら側に近づけて、静かに男は尋ねた。
「娘さんに、今まで我慢してきたもの、ぶつけてみませんか。」
眩暈がして、橋本は力なく椅子に座り込む。なぜ、ここで娘が出てくるんだ…確かに、俺は若い頃、子供をそういう対象として見ていた。手を出してしまいそうなぎりぎりのところで踏みとどまっていた。そのうち歳をとり、世間の目が気になって成人女性と結婚することになって、そういう汚い欲望とは決別しようと思った。なぜ、この男にはそんなことまでわかってしまうのか…早くこの男から離れなければという気持ちと、あと少しだけ話を聞いていたいという気持ちが頭の中をかき乱す。
「休日の町に出ると、そこらじゅうに家族が幸せそうに歩いてるじゃないですか。私たちの苦しみなんか1ミリも知らない人間同士が笑いあって。彼らは残酷です。私たちを誘惑して、手を出した私たちに一生の傷を負わせて、その罪は問われないんですから。そんな世界を傍観して、諦めて、それは橋本さんの人生ですか。」
橋本の目にはいつの間にか涙が浮かんでいた。もう長い間流していなかった涙。元気に遊ぶ娘、時々泊まりに来る娘の友達。模範的な父親としての表情の下で、心の奥底に閉じ込めた自分が、彼女達をどの様に見つめていたのか、思い出す。
「…めん…ごめんな…」
嗚咽の中で呟くそれは、決して彼女達への謝罪ではなかった。
「橋本さん、選択するのはあなたです。私は後悔していません。全てを失いましたが、その前に一番欲しいものを手に入れられましたから。だから、罪は命をもって償いたいですし、今の世界に感謝できるんです。これが私の嘘偽りの無い気持ちなんです。」
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春休みというだけあって、モールはどこも家族連れや子供で溢れていた。隣の椅子には、おそらく姉妹なのだろう、退屈そうにゲームをする中学生ぐらいの女の子の膝で、小さな女の子が寝息を立てている。翔太の座るベンチは吹き抜けに面した踊り場に有り、そこからガラス張りの壁の向こうに見える海を背景にして、エスカレーターが複雑に張り巡らされた広い空間を見下ろすことができた。時折翔太は吹き抜けと反対側に顔を向ける。目線の先には先ほど裕太をひとり残して立ち去った、あのおもちゃ屋があった。
「出て…来ないな。」
翔太はそう呟く。もうあれから10分はたったと思うが、一向に裕太の姿が見えない。このベンチは少し離れてはいるものの、頻繁におもちゃ屋のほうを見ていたから、出てきたら気づかないわけがなかった。
「…少し、言い過ぎたかな。」
普段から叱る時は厳しくしているが、あそこまで突き放したことを言ったのはおそらく初めてだった。あの時は自分なりに考えて言葉を選んだつもりだったのだが、時間がたち冷静になるにつれて、裕太を傷つけることを言ってしまったと後悔する感情が降り積もっていた。
「しょうがないな、迎えにいってやるか…」
時計の針がまた1分進むのを見て、裕太は立ち上がった。面倒だという顔を装ってはいるが、内心の焦りは余裕のない歩き方にも現れていた。
そう広くない店内を歩いて探したが、裕太の姿はなかった。おかしい、そう思ってカウンターの店員に尋ねようとした瞬間、先ほどまで棚の陰になって見えていなかった、反対側にも小さな出入り口があることに気づく。
しまった。おそらく裕太は自分がいた方とは逆側から店を出たのだ。店員に尋ねても覚えていないと言う。急いでその出入り口から出ると、そこは一方がフードコートや映画館へ、もう一方が屋外の遊園地へ続く道だった。周りを見渡すが、裕太の姿は見えない。いや、これだけの人がいる中で、しかも道の両脇に立ち並ぶ専門店へ入った可能性もあり、遠くから見るだけで小さい裕太を見つけるのは容易でない。
「なんでこんなに待ったんだよ…」
それは、弟から離れてすぐに後悔を感じたのにもかかわらず、決心がつかないまますぐに迎えにいけなかった自分への苛立ち。兄としてどんなときも見守ろうと決めたのに、一時の迷いから目を離してしまったことへの悔恨。その感情を散らすかのように、翔太は勢いよく床を蹴って走り出した。
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