第8話

顔に誰かの投げた洗剤容器があたり、葵莉は思わず床に尻もちをついてしまう。容器の蓋は開けられていたようで、中から飛び出した液体が髪と上着にべったりと付き、塩素の臭いで激しく咳き込む。

「あ、ごめ~ん、蓋閉めるの忘れたぁ」

「ゆきちゃんドジっ子にもほどがあるよ~かわいそぉじゃーん」

そう言って彼女たちがどっと笑う。

「てゆうかいつまでそこ座ってるの?邪魔なんですけど~」

一人が掃除用のブラシで足元のタイルを乱暴にこすり始める。跳ねた泡と汚れが飛んできて、少しでも離れようとして後ずさりするが、身体は便器と壁に挟まれていて、どこにも逃げ場は無い。

葵莉は上着の袖で顔から洗剤をふき取り、彼女たちを睨みつけて言う。

「杉本さんの鞄捨てたの、あんた達でしょ、ちゃんと謝りなさいよ。私、焼却炉に放り込んでるところ見たんだから」

どん わき腹をブラシの先で乱暴に叩かれ、先ほど食べたばかりの弁当を吐きそうになる。

「謝るぅ?何言ってんの?みんなで抜け駆けしないって決めたのに、あいつ隠れて高倉先輩と付き合ってたんだよ。みんなで決めたルール破ったんだからあれぐらい当然でしょ。」

「神里さんっていつも成績トップだから、頭いいと思ってたんだけど、勉強以外はバカだったんだねぇ」

いつもこうなのだ。自分が正しいことをすると、それを都合が悪いと思う人たちが必死になって潰しに来る。正しいか間違っているかなんて彼らには関係がない。いや、常に自分たちが正しいのだ。仲間を集めて多数派になることで自分の行いを正当化するから。

「神里さんさぁ、いじめを無くしたいっていう気持ちは立派だと思うけど…冷静になりなよ。杉本さんは自分から友達の和を壊したんだよ。」

「私たちだってほんとはこんなことしたくないのにさぁ、神里さんにもちゃんと教えてあげたくて仕方なく、だからね。」

下校を告げるチャイムが校舎に響く。

「じゃ、神里さん、あとちゃんと綺麗にしておいてね~。」

「このこと誰にも言わないでよぉ。ま、正義の味方がボコボコにされましたなんて、言えるかって話だけど。」

下品な笑いを残して彼女たちはトイレから出て行った。


今が真冬でまだ良かった、と思う。洗剤で赤くかぶれた肌や、染みの取れない制服は、マフラーとコートで隠れてしまって、通行人から哀れみの目線を向けられることもない。完全に葉を落とした街路樹が並ぶ道を、葵莉は早足で進んでいった。わき腹がまだ時折痛む。おそらくあざになっているのだろう。思い出したくもないのに、痛みとともに先ほどの光景が蘇ってくる。

小さいころから正義感が強く、弱いものいじめや曲がったことは大嫌いだった。小学校の時は掃除をサボっている上級生を注意したり、男子同士のけんかを止めに入ったりしていたため、クラスメイトからはヒーロー的な扱いを受けることが多かった。それが、中学に入ってから徐々に周りの見方が変わってしまった。

「そうだ、今日は…」

ふと思い出して立ち止まり、かばんの中から手帳を取り出して広げる。

「…良かった。お母さんまだ帰ってきてない。」

帰ったら親に見られることなく後始末ができることに安堵を覚える。厳格な父親を持つ彼女の家庭は正義や自立という事柄に対してとても厳しく、葵莉も小さなころから強い人間になれと繰り返し教えられてきた。そのため、今学校で自分が置かれている状況を親には知られたくなかったし、彼女自身のプライドが先生へ報告することをも邪魔していた。

小さな公園の前に差し掛かると子供の声が聞こえてきた。

「あたり!1点!」

「あれ?わたし今何点だっけ?」

「ボール投げて、次わたし!」

見ると小学校3,4年生ぐらいだろうか。数人の少女たちが砂場の横でボールを使って遊んでいた。一見すると、寒くても外で遊ぶ無邪気な子供たちを見て、心が温かくなるような光景。だが、葵莉はすぐおかしい事に気づく。少女たちのうち一人は公衆トイレの壁に追いやられ、残りの三人は笑いながらその一人にボールを一方的にぶつけようとしていた。

「アカネちゃん、もっとちゃんと逃げてよ!」

「そうだよー止まってたら面白くないでしょ」

「わたしたちと遊びたいって言ってたよねぇ」

アカネと呼ばれた少女は一生懸命笑おうとはしているものの、その表情は引きつり、ボールが壁にぶつかり音を立てるたびに、びくっと体を震わしていた。

「ちょっと、何やってるの!」

葵莉は少女たちの間に割って入り、ボールを乱暴に取り上げる。ふざけていた三人はびっくりして後ずさり、そのうち一人はリーダー格と思われる少女の後ろに隠れようとした。ボールをぶつけられていた少女のほうを振り返ると、お洒落な格好をして活発そうな三人とは対照的で、眼鏡をかけ大人しい感じの彼女は、安堵感からなのかヘナヘナとしゃがみこんでしまった。

「こんなことして、あの子が怪我したらどうするの!?それにあなたたち、これっていじめよ、わかってる?」

三人のほうを再び向いて、葵莉は厳しく叱りつける。彼女たちはまだ幼い、おそらく遊びの延長線上のつもりなのだろう。でもだからこそ、誰かが、それが許されないことだと教えなければならないのだ。

葵莉はしばらく説教を続ける。少女たちは俯いてしまい、しまいにそのうちの一人はすすり泣き始めた。もうこのぐらいでわかってくれただろうか。葵莉は少し声を和らげて問いかける。

「わかった?もうしないって約束できるよね。じゃあ、あの子に謝って…」

「お、おねえさんには…かんけいない、じゃん…」

「え?」

一瞬、なんと言われたのかわからず、葵莉は聞き返してしまう。一番体が大きく気の強そうな少女が、上目遣いで葵莉を睨んでいた。

「それに…いじめじゃないし…アカネちゃんから友達のままでいて、ってお願いされたから」

やめときなよ、という感じで別の少女が袖を引っ張るが、その少女は葵莉を見るのをやめない。

そう、理解していたのだ、彼女たちは。自分たちが「いじめる方」であり、あの子が「いじめられる方」であることを。自分の地位を利用して仲間を集め、あの子が逃げ出せない状況を作り出し、そこであの子の恐怖に満ちた表情を見て、悲鳴を聞いて、集団で甘い蜜をすすっていたのだ。

葵莉は学校で自分がされたことを思い出す。放課後のトイレという誰の助けも来ない場所に連れ込まれ、集団で、一方的な暴力を受けた。正義を騙る同級生たちへの憤り、一人で立ち向かっても何もできない自分への苛立ち。色々な黒い感情が荒れ狂う。トイレの個室の隅に無様に座り込む自分を見下ろしていた同級生達。目の前で自分を睨みつける少女は、このまま成長すれば彼女たちと同じになってしまう。そうすれば自分のような思いをする子が増えてしまう。幸いこの場所で自分は一番年上で、同級生の中でもかなり背が高いほうだから、当然目の前の少女たちよりも力がある。同年代では圧倒的な力を持つ多数派を断罪し、社会の秩序を取り戻すことができるのは、私しかいないのではないか。


…気がつくと、葵莉は肩で息を切らしていた。どこだっけ、この暗くて湿った場所は…あぁ、そうだ。そこは公園のトイレの裏にある、手入れの行き届いていない生垣が視線も音も遮ってくれる場所。トイレのコンクリート壁と地面の境目はひときわ暗い場所で、そこには先ほどまで自分を睨みつけていた少女がお腹を抱えて、時折喉の奥からおかしな音を出しながらうずくまっていた。もう暗い、親が帰ってくる前に自宅に帰らなければ。トイレの手洗い場の前に立ち、コートについた汚れを落とす。葵莉は鏡の中の自分が少しだけ微笑んでいることに気づいた。でも、それを不思議とは思わない。何故なら、学校で自分を取り囲んだ人間たちも、同じ表情をしていたから。


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「友樹くん、大丈夫…?」

心配そうにアオイが友樹の顔を覗き込む。友樹は弱々しく頭を縦に振るが、身体は小刻みに震えていた。

ここは小さなキャンプ場の一角にある東屋。だいぶ昔に作られたままほとんど手入れがされていないようで、二人の腰掛ける木製のベンチにも長い間誰も座っていないことが確信できるほど、みすぼらしい有様だった。辺りは闇に包まれ、虫の声と、東屋の屋根に取り付けられた今にも消えそうな蛍光灯がジリジリと音を立てている以外、何も聞こえない。

「…私ね、初めてマヨヒガに来た時、わけがわからなかった。」

アオイは誰に向けてでもなく、闇に沈む雑木林のほうを見ながら話し始めた。

「私は自分のことを、間違ったことを集団で行う多数派を断罪して、正しいことを主張して虐げられている少数派を救う、正義の味方だって考えてた。だから、なんで私が犯罪者の中年男と二人きりで暮らさなきゃならないの、って思った。」

「でも、リーダーは、幸せの種類が普通と違うだけで、本当にいい人だった。私がそれまでしてきたこと全て話しても、何も否定せずに受け入れてくれた。そしてそのうち気づいたの。そんな「好き」を持つ人たちは少数派として、社会という多数派に弾圧されていたんだって。」

「「自分が理解できない価値観」「自分が大切している存在を脅かす可能性」そういうものを持つ他人に対して、人は誰でも恐怖感を抱くわ。それが個人間であれば、力の均衡は取れて一方的な展開にはならない。でも、片方が集団になるとその均衡が崩れる。そしてその集団が社会という規模にまでなると、多数派に属する人たちは暴走し始める。みんなと同じ意見なんだから自分は正しい、自分のルールに従わない人たちには何をしてもいいと、本気で思い始める。」

友樹は頭をゆっくりと上げる。アオイの話を聞きながら、これまで自分が周りの人々に言われてきた事を思い出していた。

「それはもう、嫉妬よ。集団からはじき出されることで代償を払い、集団の規範にとらわれず自由に生き、集団に属する大勢が我慢している幸せを手に入れた人々への。」

「嫉妬…そんなふうに、考えたこともなかった…」

友樹が小さな声でつぶやく。それを聞いてアオイは、彼が少し落ち着いたことを悟り、表情を緩ませた。

「だから私はマヨヒガで生きていこうと思った。…いつかね、少数派の人たちが安心して暮らせる場所を作りたいの。マヨヒガみたいに、誰もお互いのことを否定しない、足りないところは補い合って、でも必要以上に干渉しないで、自分の「好き」を隠さず生きれる場所を。」

「おーい、終わったよ。」

シュンが手を振りながらがら東屋へ歩いてくる。

「大丈夫だった?ちょっと今日は、時間をかけすぎたかもしれない。」

アオイがそう尋ねる。

「うん、傷の手当てして、管理事務所の近くまで送っていった。多分もうすぐ警察に通報が行くと思う。さ、ここを早く離れよう。」

友樹は目をこすりながら力なく立ち上がる。

「友くん大丈夫?あんまり無理すんなよ~。俺らに着いてくるの義務じゃないんだからさ、マヨヒガで待ってても良かったんだぜ。」

シュンはそういって友樹に手を差し出す。

「いえ…大丈夫です。それに、ちゃんと自分の目で見ないと、意味ないですから…」

友樹は俯いたままその手を取った。

「さぁ、今晩はリーダーが食事当番よ。期待して帰りましょう。」

アオイも振り返って友樹に手を差し出し、友樹は二人に両手を引かれる形になる。雲の切れ間から満月の光が差し込み、3人をやさしく照らしていた。

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