第4話

いつのまにか谷を中腹まで降りてきたらしい。夕方の低い太陽は完全に隣の尾根に遮られ、あたりは鬱蒼とした森に変わり、五感はここがもはや友樹が来た日常の延長線上でないことを伝えてくる。先ほどロクサンと名乗った狐は気づいたときには姿を消し、誰も彼を導く者はいなくなっていたが、友樹には何故か進むべき方向がわかった。

だが、帰宅部で最も苦手な教科が体育である友樹には、そろそろ体力の限界が近づいていた。汗が額を流れ、呼吸は荒い。時折水の音がしないか確かめようと歩みを止めて耳を澄ますが、聞こえてくるのは日が沈むまでのわずかな時間を精一杯生きようと、狂ったように鳴くセミ達の声だけだ。

その時、小さく水が流れる音がした。本能に突き動かされてその方向へ向かうと、森が不自然にぽっかりと開けた場所があり、そこには2階建ての家屋が在った。黒味がかった木で作られた、古いが頑丈そうなログハウス。なぜ、こんなところに建物があるのか、少し不審に思いながらも、水音がしてくるログハウスの裏側へと静かに歩みを進める。

「おーい」

突然、頭上から男性の声がして、友樹は思わず飛び上がる。

「ごめんごめん、驚かせちゃって。悪いけど、そこの水、止めといてもらえないかな。」

おそるおそる上を見ると、2階の窓から白いタンクトップを来た中年の男性が、上半身を乗り出してにこやかに手を振っていた。

「えっ、水…あ、はい…」

わけがわからず、ひとまずログハウスの裏側を覗くと、水のみ場の蛇口から水が空に向かって勢いよく吹き出しているのが見えた。その水の一部が傍に立つ木に当たって、枝から地面へ滴り落ちることで、水音を発生させていたようだ。

慎重に近づいて、水を止めようと適当に栓をひねるが、逆方向だったようで更に水が勢いを増してあたりに降り注いだ。

「うわっ」

友樹は飛び退こうとするが間に合わず、全身に水を浴びてしまう。汗でべとべとになった頭や体を、冷たくて綺麗な水が流れ落ちていく。まるでこれまで心の中に溜まってきた感情も一緒に流されていくようで、気持ちいい。栓をもう一度正しい方向へ回して水が止まった後も、友樹は髪から水を滴らせたまま、そこで立ち尽くしていた。

目の前に広がるのは、夕暮れの暗い森。前髪から流れ落ちる水が瞳にも入り、まるで自分が泣いているかのように景色が揺らいでいる。目を閉じるとセミ達の声を運ぶ涼しい風が全身で感じられ、だいぶ気温が下がっていたことに気づく。

「おーい、ごめんごめん、大丈夫?」

先ほどの男性の声が今度は近くから聞こえ、振り向くとそこには白いタンクトップにカーキ色のハーフパンツ、そしてサンダルというラフな格好をした人物が立っていた。体格はがっしりしていて背も高いが、気さくで優しそうな雰囲気で、友樹は不思議と警戒感を抱かなかった。

「あ、はい…大丈夫です。」

友樹がそう答えると、男性は蛇口を見ながら続ける。

「ありがとう、助かったよ。井戸の水圧が不安定で、たまに蛇口を閉め忘れちゃうんだよなぁ~。そうすると水圧が戻ったときに、こうやってパァーって噴出しちゃって。」

「はぁ…」

そうかこういう山奥にある家は井戸から水を採ってるのか、上水道のある住宅地でしか暮らしたことのない友樹は少し感心してしまう。

「びしょびしょになっちゃったなぁ。まぁ入りなよ。」

びしょ濡れの友樹を見て、ログハウスの中へ入るように勧める。

「えっ、いや…えっと」

「このまま野宿するつもりか?こんな山ん中で。」

男性は目の上に手を当てて周りを見渡す仕草をする。既に森には闇が迫ってきていた。友樹が住んでいた平野部と違って、内陸の山地は夏でも夜は冷えると聞いたことがある。

「あ、じゃあ…おねがい、します…」

友樹は軽く頭を下げ、今晩は泊めて欲しいと頼んだ。数分前に出会ったばかりの人間が招き入れる、山奥の1軒屋。普段街で生活しているときであれば、友樹は決して初対面の人間に心を許したりすることはなかったし、警戒感も強い方だった。しかし、夏の山を長時間歩いてきた疲労のせいなのか、もしくは山という非日常の世界がそうさせたのか、不思議とこの男性を怖がる必要はないと感じていた。


ログハウスの中は、外観の印象よりもずっと快適なものだった。家具や食器などは古いが充最低限のものは揃っていて、おそらく他にも住人がいて、ここで日常的に暮らしていることを感じさせた。

…何なんだろ…別荘?登山者のための施設…?それにしてはここまで来る道が無かったし、何も看板とか出てないし…

色々と思索する友樹を男性は廊下の奥の部屋へと招き入れる。そこは狭いが洗面台や洗濯機があり、脱衣所のようだった。

「えっ、ちょっと、待ってくだ…」

急に男性が背後から友樹のTシャツを脱がそうとまくりあげため、驚いた友樹は甲高い声を上げて男性から離れる。振り返るときょとんとした顔で男性が見ていた。

「え、だってそんなに濡れてちゃ自分で脱ぎにくいだろ。」

「いや、大丈夫ですって、自分で脱げます、から…」

あまりにも自然で悪気の無い男性の態度に、なんだか自分が失礼な反応をしてしまったような気がして、友樹は目を伏せる。

「そっか…わかった。ごめんな、普段同居人としか話さないから、どうするのが普通かわかんなくてさ。」

男性はしまったというように頭をかきながら苦笑いをした。

「あ、いや、大丈夫です。」

そこの扉の向こうが風呂だから、ゆっくりな。そう言って男性は脱衣所から去っていった。

服を脱いで扉を開けると、そこには温泉のような石で造られた浴槽と洗い場があった。風呂にはお湯がなみなみと張られていて浴室内は湯気が立ち込めている。浴室の広さは決して広くはないが、材質とわずかに香る硫黄の匂いが、友樹を非日常的な気分にさせた。

ゆっくりと湯船につかり、天井を見上げる。先ほどから感じていたがどこも掃除が行き届いていて、気持ちがいい。外はすっかり日が落ちて、窓からは暗闇しか見えないが、にぎやかに聞こえる虫の声が、ここが山の中であることを思い出させた。

不思議な一日だった。山の中で狐に誘われ、森の中を歩き、この家にたどり着き…。あれ、そういえば何で僕、山にいたんだっけ…今日以前の記憶に霞がかかっていてうまく思い出せない。どこかに居場所があって、でもそこではなにかが上手くいかずに悩んでいた気がする。でも、湯気に優しく揺らめく天井の電球を見つめていると、今はその悩みを思い出すより、ここにいることが一番大切なことだと思えてくる。


風呂から上がり、バスタオルで髪を拭きながらリビングへ向かうと、先ほどの男性が安楽椅子に腰掛け、タバコをふかしながら読書をしていた。傍のテーブルには灰皿と飲み物の入ったグラス、半分開け放した窓からは先ほどよりもはっきりとした虫の声と、森からの冷たい夜風が入ってくる。

「あの、ありがとうございました。」

そう友樹が話しかけると、男性は本をたたんで優しい声で答えた。

「おう、少しは落ち着いた?」

「はい、お風呂、気持ちよかったです。」

どうぞ、と手を差し出されて、友樹は向かいのソファに座る。電球だけの照明は決して明るくないが、室内を柔らかな空気に包んでいた。

「自己紹介まだだったね、僕はハシモト。」

男性はそう話し始める。

「色々あってここに住んでる。他にも2人同居人がいて、明日の朝には帰ってくるだろうから、また紹介するよ。」

ハシモトはそう言って手を差し出す。友樹は握手をしてから、自分がまだ名乗っていないことを思い出す。

「僕は、友樹といいます。」

「友樹君、よろしくね。ここに来た理由、聞いてもいいかな。」

「理由、ですか…」

思い出そうとするが、やはり思い出せない。その時、ハシモトが言った。

「みんなとは違う「好き」を、持ってしまったんだろう。」

「あ…」

友樹は断片的にこれまでのことを思い出す。

「僕、その…」

話してよいのかわからずに、ハシモトの顔を見る。表情は穏やかなままなのだが、視線は先ほどまでとは少し違った真剣なものに変わっていた。たぶんこの人も自分と同じなんだ、なぜかそんな気がして友樹は言葉を続ける。

「なんていうか、女の子を好きになるときに…その、自分よりも、…小さい子に、興味を…持ってしまうんです…」

はっきりと他人にこういう話をするのは初めてで、言葉を選びながらたどたどしく喋る。

「でも、僕、口下手で…同年代でも友達と呼べるような人っていなくて。今までどうやって小さい子と仲良くなればいいのか…そもそも僕なんかが彼女たちと友達になれるんだろうか、って悩んでたんですけど…この前、少しだけ仲良くなれた小学生の女の子がいて…そしたらなんだか今まで自分の前にあった霧が晴れて、目の前に続く道が見えた気がして…でも、それも一瞬で…」

少しずつ蘇ってくる記憶。図書館で会った少女の笑顔、大人たちの怪訝な目、母親の涙、自らの苦悩…。どう説明したら良いのかわからなくなり、口を閉じる。

「ありがとう、言いづらいことを言わせてごめんね。」

ハシモトはそう言って優しく友樹の頭をぽんぽんと叩いた。

「そうだ…僕、合宿に参加してて、森の中に入って…きっと今頃みんな僕を探してる、お母さんたちにも連絡が行って…」

友樹の瞳にはいつの間にか涙が浮かんでいた。しかしそれは寂しさや不安からではなく、不思議なことに、ハシモトの手の温もりへの安心感からの涙であることに、友樹自身も驚いていた。

涙を拭う。そしてもう一つ、先ほどから持っていた疑問を尋ねる。

「ハシモトさんは、なんで僕のことを知ってたんですか。」

「ここの住人は僕も含めて、みんな君と同じだからさ。本来満たされてはならない「好き」を持ったから、ここに呼ばれた。」

自分を森へと誘った不思議な存在が言っていたことを思い出す。

「そうか、僕、みんなの言うとおりにするのは何だか違う気がして…どう生きればいいのかを考えたくて。」

「あいにくここは電話線も引かれてなくて、今ふもとに連絡する術は無いから、どちらにしても明日日が昇ってからになる。明日、同居人とも話してもらって、それからどうするか考えてもいいんじゃないかな。」

自分と同じ人たち。なぜここで共同生活をしているのか、どんな考えを持っているのか、聞いてみたいと思った。

「…はい、そうします。」

「うん、シュンとアオイっていうんだけど、2人とも友樹君と歳も近くていい子達だから。じゃあ、今日は疲れただろうから早めに寝たほうがいい。寝室が一つ余ってるから案内するよ。」

そう言ってハシモトは立ち上がり、友樹を2階へ連れて行く。途中で振り返り、言った。

「ようこそ、マヨヒガへ。」

「マヨヒガ…」

聞きなれない単語に、友樹は聞き返す。

「そう、僕らの居場所である、このログハウスの名前。そして僕らの繋がりの名前でもある。」

後に残ったのは虫の声だけが響くほの暗いリビング。灰皿に置かれたタバコからは細い煙が天井に向かって昇り、ランプの光に照らされながらゆっくりと揺らめいていた。

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