第2話

バスは山の斜面に作られた急勾配の道を、時折エンジンをうならせながら登っていく。舗装は荒れ、乗り心地は良いとは言えないが、それよりも友樹は崖の下に広がる流れの速い川の透明度に目を奪われていた。

8月の始め、両親の勧めで、友樹はある合宿に参加することになった。色々な事情をかかえた青少年達が、山中の合宿施設で1週間を共に過ごす。期間中、彼らは共同で様々な活動を行い、社会奉仕の大切さや、仲間と汗を流すことの意味を学んでいた。

「斎賀君、悪いけど、半分手伝ってくれるかな?」

「あぁ、うん、いいよ」

同じ班になった一つ年上の少年から、使用済みの食器が入ったカゴを受け取る。洗い場は緩やかな坂を登った所にあるので、二人で砂利道を並んで歩く。

「斎賀君は、どうして参加してるの?」

「えっと、僕は…」

どう説明しようか、友樹は考え込んでしまうが、その前に彼が口を開く。

「俺はクラスメート怪我させちゃってさ、親に無理矢理連れてこられちゃった。」

「怪我…」

彼の明るい声と話す内容のギャップに、正しい反応の仕方がわからない。

「前は友達も沢山いたんだけど、春に転校してから虐められるようになって。だから、ずっと学校行けてなかったんだ。でも、勇気出して夏休み前に1回だけ行ってみた。」

乾いた風が木々の間を駆け抜けて友樹達の肌を触る。街中と比べると湿度が低くて若干すごしやすいが、それでも日差しが強く、重いものを持って歩いていると背中がじっとりと濡れてくる。

「そしたら虐めっ子のリーダっぽい奴に妹の悪口言われてさ…気がついたらそいつのこと血が出るまで殴ってた。なんか自分のことなら良いけど、家族のこと言われたら我慢できなくてさ…」

「それは…酷いね…」

「なんだか、みんなが俺の敵で、この世界に自分の味方なんて一人もいないって感じたんだ。だから、俺は人に傷つけられて、仕返しに人を傷つけてしか生きられないんだって。このままずっとこうして生きていくんじゃないかって思ったら、目の前が真っ暗になった。」

洗い場に着いた二人は、重たいかごを地面に下ろし、中から食器を出して流し台へと置いて行く。

「…でも、そんなのほんとに狭いものの見方だったんだよな。」

彼は額の汗を持っていたタオルで拭いて、友樹の方を向いた。

「こうやって色んな事情抱えてる奴らと一緒にいると、戦ってるのは俺だけじゃないんだな、って気づけたよ。それに、何か悩みがあっても、人に相談すれば、必ず助けてくれる人たちがいる。自分ひとりで全部背負い込もうとするからダメになっちゃうんだろうな。」

彼の言葉は裏表なく、心の底から思っていることを話してくれている。そう友樹は感じた。蛇口をひねり、食器を洗い始めようとする。

「あ、水が出ない…」

友樹がそう言うのを聞いて、少年も試してみるが、やはり水は一滴も出てこない。

「おっかしいな…栓止められてるみたいだな。ちょっと合宿所の人に聞いてくるわ、悪いけどしばらく待ってて。」

そう言って彼は坂を小走りで下っていった。


一人残された友樹は、水が出るまでできることもなく、洗い場の横にある岩に腰掛ける。そこは大きな木の陰になっていて、周りよりも大分涼しく感じた。

「自分ひとりで背負い込もうとしない、か…そうだよね…」

そう自分自身に問いかける。確かに僕は、許されないことをしてしまった。でも、両親も、医者も、学校も、自分を見捨てずに力になろうとしてくれている。どう生きていけばいいのか、まだはっきりとした答えは出ないけど、周りの人たちと歩いていけば、きっと誰も傷つけずに、誰も泣かないですむ世界にたどり着けるんじゃないか。自分はみんなと生きていても許される人間に変われるんじゃないか。


『あなたは自分を許さないのですか。』

声が、聞こえた。空気自体が語りかけているような、頭の中に直接響く、明瞭な声。驚いて顔を上げると、森の奥へと2、3メートルほど進んだ所に横たわる岩の上に、小さな白い狐の置物が置かれていた。

『誰も傷つけない、誰も泣かない。それは、あなたの最初の願いでしょうか。』

置かれているんじゃない、座っているんだ。そう友樹は気づく。白い和紙のような毛皮に、黒と赤の線で刻まれた輪郭。間違いなく、それは自らの意思でそこに存在し、鋭い視線で友樹の揺れる心を射抜いていた。

『他人が「病」と呼ぶので自らの声を偽り、目の色を隠し、髪を切り捨てる。彼らの優しさに身を委ね、彼らの望むものに変わったふりをして、いつしか本当に変質してしまう。』

いつの間にか、森の空気がさっきよりも湿り気を帯びて、冷たいものに変わっている。声の主と友樹の間の地面に細い光が差し込んで、まるで誰もいない劇場を照らす照明のようだ。

『それに先ほどの彼の場合は、周りの状況が攻撃的な行動を生み出しただけですよ。あなたのように自分自身と不可分な、生に密接に関わるものではありません。ただ、自分ひとりでは答えにたどり着きにくい、という点には同意しますね。人間というのはどんなに努力しようとも、群れで生きる社会性からは逃れられませんから。』

そこで、友樹はやっと自分にも言葉という道具が備わっていることを思い出す。

あなたは誰、そう聞こうとして思いとどまった。おそらくこれは幻覚、自らの迷う心が見せるわき道のようなもの。そしてその道は自分の心の奥深いところへ続いている。であれば、自身との対話を少し続けるのも良いかもしれない。

「なら、どうすればいいの。」

『あなたに、これまでとは違った場所と人々、そして考える時間を与えましょう。そこでこれからどう生きていくのか、考えてみて下さい。』

「場所…それは、どこにあるの。」

狐は音もなく岩から地面に降り、森の奥へと数歩進んでから振り返る。

『この山の裏側、谷を少し下ったところです。ついて来て下さい。』

友樹も立ち上がり頭上の杉の木を見上げた。上手な生き方を見つけたい。それは自分が他人と違うことに気づいてからずっと考えていた、心の奥底からの願いだ。だが、今の感情のまま、両親に言われるがまま、生きて良いのか、正直自信がなかった。もっと言えば、自分をありのまま受け入れてくれる世界があったなら、どんな生き方ができるのか、その夢を捨てることはできなかった。その場所へ行けば、もしかしたら…

「僕は…僕は、答えを見つけられるかな…」

『見つけられるでしょう。しかし、それが今のあなたが目指しているものかはわかりません。破滅に足をとられるかもしれませんし、大勢に屈する決意がより一層強まるだけかもしれません。ですが、迷いを断ち切るだけの十分な思索の時間を持てることは保障しましょう。』

友樹は人間の手の入っていない場所へと足を踏み入れる。森の奥に進むにつれ、日の光は弱くなり、足元は倒木や岩で歩きにくく、緑の匂いは一層濃くなっていく。

『先ほどの疑問にお答えしましょう。私はロクサン、人間を社会の理から開放する者。』

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