幸福
@aki0125
第1話
「みゆ、にねんせい!」
そう元気な自己紹介をされて、友樹は少し圧倒されてしまう。尋ねてもいないのに学年までわかってしまった。最近は知らない人に警戒感を持つような教育を受けているはずだが、実際にどうするかは、子供本人の性格が大きく影響するのかもしれない。
「みゆ…ちゃんは、どんな本を探してるの?」
そう友樹が尋ねると、少女はランドセルから小さなメモ帳を取り出し、ページをめくり始めた。ちらりと見えた教科書の表紙に「2ねん4くみ 西崎みゆ」という字を見つけ、平仮名の可愛い名前に少し緊張が和らぐ。
「えっとね、もちもちの…き…と、ちゅうもんのおおい…んっと」
「料理店。」
「そう、それ!」
おそらくまだ習っていない漢字なのだろう。幼い字で書かれたそのメモは、一生懸命書いたことが伝わってきた。自分にとっては10年近く前のこと、でも同じ小学校に通っていた友樹は、自分も夏休みの読書感想文用の本を、こうして学校の帰りに探しにきていたことを覚えている。
「どうして、その本にしたの?」
昼下がり図書館の中はとても静かで、二人から少し離れたところで数人の大人が本を選んだり、机に座って何か調べ物をしていた。喋っている者は皆無で、あまりこの場から浮きすぎないように、友樹の声は自然と優しくなった。
「ともだちのりんちゃんがね、もちもちのきにするっていって、あと、もういっさつはひょうしにねこがいて、みゆねこすきだから」
そうリズムよく説明する少女の瞳は澄んでいて、笑顔のまぶしさに思わず視線を逸らしてしまいそうになる。自分のよりもずっと小さな手、キャミソールとショートパンツという、このままビーチに出かけられそうな格好。公立高校の夏服というとても地味な格好をした自分とこの少女が、まわりからどう見られているのか、今更不安になる。
でも、今日はもう、決めたのだ。いつも通る道で、偶然一人で図書館に入っていく女の子を見つけて、声をかけようと。いつもは遠くから見ているだけの彼女達と、仲良くなれなくてもいいから、会話をしようと、そう、しつこいぐらいに鳴く蝉の声にも背中を押されて、図書館へ入ったのだ。
「ちょっと探しにくいと思うから、僕が一緒に探そうか。」
「おにいちゃんがてつだってくれるの?」
「うん、ここは大人の人が多くて、みゆちゃんが探してる本も、大人の人向けの本と一緒に置かれてるかもしれないから。」
それは嘘ではない。この市立図書館は建物が古く、利用者から探しにくいという声も多いため、来年には建て替える計画になっていた。
「そうなんだ、ありがとう。じゃあ、いこうよ」
そう言ってランドセルをしょって元気に歩き出す少女。友樹も肩掛けのカバンを持ち上げて、並んで歩き出す。
本当に素直で良い子なんだ。人を疑ったり、傷つけたりしない。きっとこの子は、いい親に育てられて、学校でも友達に恵まれて、幸せに生きていけるのだろう。
「あ、ちょっと高いところにあるね…僕が取るよ…」
そう言ったのだが、少女は既に踏み台を引きずって来ていた。
「さがすのはおにいちゃんで、とるのはみゆがする~」
そう言って少女は踏み台を上がる。友樹は変なところで律儀だなと苦笑する。その時、少女はバランスを崩して背中から倒れそうになった。
友樹はとっさに少女の背中を両手で支えた。
「大丈夫?」
「あぶなーこわかったー!」
すぐに姿勢を直せたから、手に彼女の重みが乗ってきたのはほんの一瞬だった。
…軽いんだな…
そんな当たり前のことなのに、妙に感心して自分の手を見つめてしまう。わずかに残った体温。
…でも、生きてる…
でも、すぐに周りのことが気になって視線を泳がせる。多分、誰も見ていない。見ていた人がいたとしても、兄妹か、近所の子同士に見えていて欲しい。とにかく、この時間を邪魔されたくはなかった。
2冊の本を見つけ、無事に貸し出し手続きまで済ますことができた。二人で正面玄関を出ると、蒸し暑い空気はそのままに、空はオレンジ色を帯び始めていた。
「きょうはありがと、おかげでかんそうぶん、はやくかけそう!」
1時間前よりも、親しさの増した笑顔で礼を言う少女。友樹も何か気の利いたことを言おうとするのだが、何を言うべきなのか、どこまで近づいて良いのかわからずに、月並みな返事をする。
「うん…じゃあ、夏休み楽しんでね。」
なんの未練も無く友樹とは反対方向の道を歩き出す少女。友樹も歩こうとしたが足下を見つめ立ち止まる。
人と会話をして楽しいと思ったのは、今日が初めてかもしれない。それに最初は緊張から上手く喋れないんじゃないかと思っていたけど、不思議と子供の心を開かせるような言葉が、まるで湧き上がるように口から自然と出てきた。
…もう少し、だけ。
踵を返し、早足で少女に駆け寄った。
二人で並んで夕暮れの商店街の道を歩く。上機嫌で鼻歌を歌っていた少女がふいに尋ねる。
「おにいちゃんはおうちどこなの?」
「えっと、桜台のほう、かな…」
結局嘘をついてしまう。でも、これは誰も傷つけない嘘だ。そう友樹は自分に言い聞かせるようにカバンの持ち手を握る。
「あ、わたしのともだちも、さくらだいのこいるよー」
パン屋のショーウィンドウに自分たちの姿が映る。ずっと自分の中にあったけれど、どうすれば良いのか分からなくて、見ないふりをしていた感情。少し勇気を出して行動したから、一緒の時間を過ごせた。そしてちょっと欲張りをして、まだその時間は続いている。
まだはっきりとはしないけど、少し答えが見えたような気がする。きっと、こうやって彼女達のすぐ近くで、同じ目線で時間を過ごすことが、自分にとっての幸せで、彼女達を笑顔にできるのだ。そうすれば、この感情とも、付き合っていける気がする。
「こことおろうよ、おにいちゃんも、こっちのほうがちかいよね」
そう言って何のためらいもなく少女は裏路地へと友樹を導く。そこは竹林と古い建物に囲まれた、細い道。竹林の向こう側にある住宅街までの近道になっているが、この暗くて湿った路地に面して出入り口がある建物は殆ど無くて、昼間でも静かで通る人はいなかった。
建物の隙間から差し込むオレンジ色の鈍い光が、時折少女の肌や持ち物の上を滑っていく。路地に入ってから、会話が途絶えてしまった。今まで仲良く喋れていた少女が、急に他人のように見えてしまって、友樹は喉の奥にわずかな乾きを感じ始める。
「みゆちゃんは…お父さんとお母さんは、お家にいるの。」
聞いてから、自分でも何故そんな質問をしたのか分からなくなる。どんな答えを期待しているんだろう、これ以上何が欲しいのだろう。
「おかあさんはおしごとだよ、おとうさんはおうちにいるはずだけど…なんで?」
そう少女は無邪気に首をかしげる。この道を抜ければ、そこはもう住宅街で、自分が住んでいるはずの桜台はすぐそこで。この少女とは、今日知り合って、今日別れて、たぶんそれっきり。自分は、幸せなのだろうか。本当に、これで満足なのだろうか。
友樹は立ち止まる。
「じ、実はね…僕が桜台に住んでいるって言うのは嘘で…みゆちゃんと一緒に帰りたかったから適当に言っちゃって…」
…あれ、僕、なんでこんなことを…
怒っているような、泣いているような、奇妙な笑い方をしながら、友樹は目線を泳がせて情けない弁明を続ける。そんな友樹を大きな瞳で見つめる少女。
「さっきお家のことを聞いたのも、もっとみゆちゃんと一緒に過ごせるのかなって、そう思って聞いただけで…いや、ほんと、意味分かんないよね、あはは…ごめんね。」
勝手にお喋りを続ける自分の口が憎らしくて、少女の表情を見るのが怖くて、友樹は目を伏せる。多分僕の顔は真っ赤になってる。握りしめた手も汗ばんで心臓がばくばく言ってる。
「ぷっ…あははっ」
予想しなかった笑い声に驚いて顔を上げると、そこには向日葵のような眩しい笑顔で笑う少女がいた。
「なにそれー、おにいちゃんおもしろいね!」
細長い黄昏に照らされた、大人の女性とは異なる、少女の笑顔。なんの迷いも、疑いも、嘲りもない、純粋な感情。
もしかして、今僕たちの姿は他の誰にも見えないんじゃないか。そんな考えが、友樹の心を満たす。いや、きっとっそうだ。そうに決まってる。だって、今日は勇気を出せた記念日で、初めて女の子と仲良くなれて、こんな二人きりの場所を見つけて…
ここは、僕だけのためにある世界。涼しい夕方の風が、路地をすっと通り抜けていく。それから庇うように、友樹は少女の背中に手を回した。
「君は…なんで、こんな所にいるの?」
そう友樹は自分の腕にすっぽり入った少女に問いかける。驚かせたくない、怖がらせたくない、傷つけたくない。だから、手には力を入れないで、いつでも少女から離れられるように。
最初、少女が少しだけ身体を強張らせたのが伝わってきた。離れようかと思ったが、すぐに友樹の胸に埋ずめた顔が揺れて、笑い出したのがわかった。
「うわーつかまえられたー!あはは、やっぱりヘンなひとだ!」
自分の問いへの答えは返ってこない。でもそれでもいい。友樹は、初めて全身で感じる身体の小ささや、体温のぬくもりに、ただ目を閉じていた。
「そうだ、おにいちゃんのなまえは?」
そう少女が上目遣いで尋ねる。
「僕は、友樹…斎賀友樹です。」
なぜか敬語になってしまう。
「ともき…」
そう、ゆっくりと少女が発音するのを聞き終わらないうちに、別の声が聞こえてきた。
「何やっとる」
この路地裏が、外の世界と何ら変わりない場所であることを、強制的に思い出させる。友樹は腕を解いて横目で声の主を見る。それは50代ぐらいの体格の良い男性で、少女を見て言葉を続ける。
「あんた西崎さんのところの子か?」
「あっ、よしやのおじちゃんだ、ひさしぶり~!」
そう言って少女は笑顔で駆け寄ろうとするが、男性の硬い表情を見て躊躇する。男性は友樹を汚らしい物を見るような目で一瞥してから、少女の腕を乱暴につかんで友樹から遠ざけた。
「北高の制服やな」
そう小声で言ってから、少し離れたところで少女に何かを話しかける男性。少女は困惑しながらも住宅街の方へ駆け出す。途中、心配そうに振り返った少女に手を振ってあげようと思って腕を上げようとしたが、バッグを握りしめる指は震えて動かすことができない。
急に路地裏に流れる下水の臭いや、建物から吐き出される生暖かいエアコンの排気をはっきりと感じられるようになり、友樹は自らの白昼夢が終わったことを実感するのだった。
両親は、怒鳴ったり、ましてや手を上げるようなことは一切しなかった。彼らはただ優しく、でも震えるような声で「ゆっくり治そうね」と言っただけで、その後は以前と同じように接しようと努めていた。
…そうか、僕は病気、だったんだ。
「息子さん、まだいくらでもやり直しのきく歳だから…」
「適切な治療をすれば、社会生活には影響が出ないようにできますよ。」
そんな周りの人達の言うことを聞いて、友樹は初めて自分が悪い病に冒されていたことを知った。もちろん以前から、自分がほかのみんなとは違うこと、自分が好きなものを正直に話したら、彼らはそれを拒絶するであろうことは知っていた。
「性的に未熟な児童を恋愛対象としてしまうのには、いくつかの理由が考えられます。同年代の女性に対する恐怖、自分よりも弱い存在に対する支配欲、自らが幼少期に受けたトラウマや虐待…加害者の方も自分ではコントロールできない場合が多いのです。治療方法として最も効果的なのは、被害者の体験談を知り、彼ら彼女らに一生の身体的、もしくは精神的な傷を負わせてしまうことを学ぶことでしょう。」
医者が理路整然と説明するのを聞いていると、だんだんと心の奥が麻痺してくるのを感じる。休日の昼間、少女達が公園で遊ぶのをじっと眺めていたときの甘酸っぱい気持ち。それを級友に伝えて軽蔑されたときの悲しさ。図書館で出会ったみゆという少女と心通わせたときにわずかに見えた未来への希望。でもそれらは、個性でなく病気。恋でなく罪。両親にとっては決して認められないものであり、社会では治療されるべきものだった。
夜、予定より塾が早く終わって家に着く。玄関を開けると、両親がリビングで話をしているのが聞こえてきた。
「大丈夫だよ、友樹はきっと勉強で疲れていただけだ。」
父親の声。間に母親の嗚咽が途切れ途切れに聞こえてくる。
「母さんも知ってるだろ、昔から友樹は優しい子なんだ。すぐに元に戻るよ。」
昼間、あの少女の家に謝りに行ったらしい。そのまま家に入ることができなくて、友樹はドアをそっと閉めて、ランプが淡く灯る玄関に座り込んだ。
涙が滲んで、視界がぼやける。なんてことをしてしまったのか。何も知らない少女に自分の身勝手な気持ちをぶつけて、両親をあれだけ悲しませて、それでも自分のことを信じてくれていて…。
…でも、どうすればいいのか、わからないんだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます