第四章 時間跳躍の果てで④

「岡辺、なんでお前がここにいる」

 そう問いかけた俺に、岡辺は憂いを帯びたような顔でこう言った。

「お前を止めるためだ」

 止める、だって?

「どういう事だよ、止めるって」

「そのままの意味だ。お前は橘を助けようとしているだろ。だから、俺はそれを止めにきた」

「は?」

 意味が分からない。なんでお前が俺を止めようとするんだ。

「吉屋。頼むから、このまま何もしないでくれ」

 後ろめたそうに目を伏せながら、やけに低い、疲れたような声で岡辺は言った。

「何もしないでくれって。お前、自分が何を言ってるのか分かってるのか?」

「分かってるよ。お前が何をしようとしてるのか。橘がどうなるのか。全部全部知ってる。その上で俺はお前に、橘を諦めてくれって言ってるんだ」

 岡辺は静寂をまとった声で淡々とそう言った。

「意味分かんねえよ。なんでだよお前、橘の事が死ぬ程嫌いだったのか?」

「んなわけないだろ!」

 岡辺の声が辺りに木魂こだました。それは俺が初めて見る、岡辺の感情の爆発だった。

「嫌いになれるわけないだろうが。一体どうやったら橘の事を嫌いになれるんだ」

「だったら、どうして」

 一瞬の静寂があった。やがて、岡辺はぽつぽつと語り出した。

「高瀬神社の神事の日、だから、丁度この日の事だ。俺の妹が死んだ」

「え」

 一体、何を言っているんだ。岡辺、お前の妹は健在じゃないのか。ついさっきだって、妹の事話してたじゃないか。

「いいやそれだけじゃない。他に何人も氏子の人が巻き添えで犠牲になった」

「待ってくれ。なんの話をしている」

「吉屋、俺の妹や氏子の人が犠牲になったのは、お前が橘を助けたからだ」

「はっ、ま、待ってくれ。意味が分からない」

「ユミチハカワツという名前は知ってるだろ」

「あ、ああ」

 多分そいつが、瑞葉を連れて行こうとした張本人だ。あの姿の見えない超自然的な存在。まさにあれこそは、神あるいは魔物といっても差し支えない存在だった。

「お前が橘を助けたことで、怒り狂ったそいつが矛先を変えたんだ。結果的に、俺の妹を含むこの町の人間がな、何人も、死んだ」

「なんだよそれ。俺が助けたのが悪いって事かよ」

「何もお前を責めるつもりはない。お前が橘を助けたいって気持ちが間違ってるだなんて決して思わない。だけど橘を助ける事で、凛、妹が、他の多くの人が、俺も知ってる人が。頼む、俺は見殺しに出来ない。残酷な事を頼んでいるのは分かってる。一生恨んでくれたって構わないよ。頼むから、何もしないでくれ」

「岡辺。それはつまり、瑞葉を助けるなって事か」

「……ああ。そう、だ」

「いや待ってくれ。お前にしては早計過ぎるだろ。俺の知ってる岡辺優希ってのは、もっと思慮深くて、簡単に物事を投げ出さない、そんな男だ」

 俺の頭は必死に探していた。何を? 決まっている。答えだ。誰もが悲しまなくて誰もが望んだ未来を手に出来るための道筋。ある筈なんだ。これが映画とかでよくあるようなタイムリープものだっていうんなら、俺がここに来たのは悲劇的な出来事を防ぐためで、俺はその方法を見つけないといけない。だから。

「まだ手はある筈だ。皆が助かる方法が――」

「そんな都合の良いものはなかったよ」

 一瞬、沈黙が辺りを支配した。

「俺だって考えたよ。お前と同じだ。町の人を助けるにしたって、なんで橘が死ななきゃならないんだよって。だから俺なりに試行錯誤した。何回も何十回も何百回も何度も何度も何度も何度だって少しの違いだって見逃さずに変えようとしたよ、でもどう足掻いても駄目だったんだ! 結局分かったのは、どちらかを諦めろという答えだけだ」

 絶句して、理解した。

 ああ、そうか。瑞葉が高校生として生きていたあの時間軸の中で、岡辺、お前はゲームがどうとか言っていたが、あれは嘘だったんだな。

 お前は、俺が能天気に学生生活を謳歌している横でずっと藻掻もがいてたのか。

「頼む、吉屋。俺の事を恨んでくれて構わないから、だからもう何もしないでくれ。お願いだから」

 岡辺はそう言って力なく泣き崩れた。

 岡辺を見下ろす。彼は、普段は張り付いて剥したくても離れないようなその知性的な雰囲気を保つ事すら出来ずに、只々小さな子供のようにすすり泣いていた。

 ああ、分かってるさ。岡辺は、橘に死んでほしいなんて微塵も思っていない事を。だからこそ、お前は気の遠くなるような回数のタイムリープを重ねて、誰も悲しまずに済むように動き回ったんだ。

 冴えてるお前が、陳腐なタイムリープものの主人公なんかに負けない位頭を働かせて立ち回った事くらい理解出来る。少なくとも俺は、お前とはそれくらいの付き合いだと思っている。

 なら、だけど。

 俺はどうすればいいんだ。

 お前がどう足掻いても達成出来なかったものを。俺は、どうすれば。

「助けなきゃ、いけないんだ」

 約束したんだ。瑞葉と。

 俺がお前を守るって。そんな軽い気持ちで言ったものじゃない。誓いだったんだ。

「何か手はある筈だ。岡辺。お前ですら思い付かなくて、でも、誰もが助かって、誰も悲しまない方法が。だから、助けないと」

「真琴」

 後ろから女の子の声がした。その声を、俺はよく知っている。

「やっぱり二度と会えないなんて、嘘じゃん」

「みず、は」

 振り返ると、そこに立っていたのは紛れもなく瑞葉であった。

「どうしてここに」

「それはこっちの台詞だよ。真琴、なんで君がここにいるのさ。さっき私を見送ったんじゃないの?」

 いつもとは違う、巫女装束らしきものを纏った瑞葉はそう言った。

「ひょっとして、私を助けに来ちゃったとか」

「それは! え、なんで、いつから気付いてた」

「いつくらいだったかな。正確な時間は覚えてないけど、高瀬町に来た時から薄々異変には勘付いてて、真琴、君がやって来た時に確信した。あーあ、私もうこの世界にはいられないんだなって」

「だったら普通助けてほしいって」

「だってそんな事したら真琴が代わりに死んじゃうかもしれないじゃん。そんな事なったら、私一生後ろ向いて人生歩まないといけなくなるよ。んな事出来ないし。それにさ、優希の大事な人達や、町の人達が犠牲になっちゃうんでしょ?」

「聞こえてたのか」

「そりゃこんなに騒いでたら聞こえるよ。ここ他に殆ど音ないんだから」

「そう、か」

 唐突に、瑞葉は問答無用で俺に近付き手を上げた。

「取り敢えず約束破ったけん、百発はたかせろ」

「あ、ああ」

 よくよく考えたら百発はきついなと俺は呑気な事を思いつつ、静かに目をつむった。

 構わない。二度と会わないって言ったのに、結局お前と会ってしまったんだから。ああ、この後日司からも百発位殴られるんだろうな。まあ、仕方ないか。

 ……ほんの、軽い痛みが頬を走った。

「この馬鹿真琴。なんで来た」

「なんでって。お前を助けるために」

「余計なお世話だ」

「余計なお世話ってお前」

「ほんとにさ、奥手な癖に、無駄なところで行動力だけはあるんだから」

 瑞葉の視線が俺から離れた。その視線は俺の奥の方、多分、岡辺の方を向いていた。

 そうして少しの間の後、瑞葉は小さく頷いてから俺の方を見た。

「瑞葉?」

「真琴、あのね。私の事を守ろうとしたら絶対に許さないから」

「え」

「いつかの時に真琴は言ったよね。私を絶対守るって。ほんとにもう、もっと考えて喋れっての。そんな事言ったら、君はその言葉に縛られるって言ったでしょ」

「いや、違う」

「違わないよ」

 違う。俺は別に縛られてなんかいない。むしろ逆だ。俺を後押しする言葉だ。俺のこの決意は、俺の臆病な心を奮い立たせてくれるんだ。だから、その言葉は鎖なんかじゃない。

「俺は! 別に軽い気持ちで言ったわけじゃない。お前がこの世界からいなくなるのが嫌だったから、お前を失いたくなかったから! 俺だって、お前の事が好きで――」

「大っ嫌いだ!」

 彼女は、目から雫を零しながらそう言った。

「だから私の事なんかとっとと忘れろ馬鹿野郎。そんで何処へでも行ってしまえ。もう二度、と、顔も、見たくないし」

「瑞葉」

 その姿は、今にも崩れ落ちてしまいそうな程に不安定に思えた。だけど、俺も人の事など言えまい。情けない事に、足元が震えている。

 受け入れたくない。いくら本人が決めた事だからって。

 瑞葉はもっと我儘わがままを言うべきで、嫌なら嫌って言うべきで、それを彼女が言わないから、俺は。

「真琴、ありがとね」

「あ」

 強張りきっていた全身から、まるで魔法にでもかかったかのように力が抜けてしまった。

 瑞葉の腕が、そっと俺を抱き締めていた。

 それは、いつかの時に感じた暖かさだった。今時の女子高生ぶってる癖に何処か泰然としていて、冷え切った心の温度をいつの間にか上げてくれるような存在。

 だからこそ、魔物とやらはお前を狙ったのだろうし、手に入れられないと分かると、怒り狂ったように別の人間に襲い掛かったんだ。

 俺は好きな人に抱き止められながら、この上なく無様で、惨めで間抜けで無遠慮で、そして見るに堪えない程、小さな子供のようにみっともなく泣き叫んでいた。

 世界はこんなにどうしようもない現実を突きつけてくるというのに。

 世界の空は只そこにあり、涙が出る程に美しく輝き地上を優しく照らしていた。

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