第三章 修正された世界⑦

 俺は昼になる前に学校を早退した。

 別に俺は体調に問題などなかったが、周りにはあたかも死の宣告をされたように顔面蒼白気味に見えてたらしい。心配した岡辺によって俺は保健室に連れて行かれ、落ち着いた所で間も無く早退という事になった。

 クラスメイトは瑞葉の事を知らなかった。そもそも瑞葉がいた筈のクラスには、橘瑞葉という学生は存在しなかった。わらにもすがる思いで朝日奈にも聞いた。だが、朝日奈も岡辺と変わらぬ反応だった。そもそも、朝日奈は昨日会った時瑞葉がもういない者だという素振りを見せていたのに、わざわざそれを聞きに行った俺は間抜けという他なかった。

 世界は、俺の知らぬ間に瑞葉の居なかった世界へと戻っていた。

「誰か、助けてくれ」

 学校からの帰り道、俺は人気のない寂しげな道路を歩きながらそんな事を呟いていた。

 世界が色褪せて見える。只一人の人間を失っただけで、こんなにも自分の見ている世界は変わってしまうのだと思い知らされた。

 色ボケだと笑ってくれていい。大袈裟だと冷笑してくれても構わない。なんと罵ってくれても構わないから、

 瑞葉を返してくれ。

「誰か」

「マコト」

 俺は、ゆっくりと振り返った。

 日司ミト。

 ああそうだ。何故俺は、真っ先に彼女に聞かなかったんだ。

「日司」

「マコト。話があるから、ちょっと付いてきてくれないかな?」

 学校を抜け出してきたのだろう、制服姿の彼女はそう告げ、俺の腕を掴んだ。

「お、おいっ。ちょっと待て」

「ごめんね。大事な話だから、ちょっとやそっとの用事なら後にしてほしいの」

 抗い難い力で引っ張られていく。俺は最初から振り解くのを諦めた。言い方は悪いが、ゴリラに掴まれたような感覚だ。

 やってきたのは高台の公園。俺は休む暇もなく日司に連れられ、その頂上と思しき場所に来た。

「ここでいいかな」

 日司はそこで漸く俺の腕を離し、俺の方を振り向いた。

「ごめんね。急にこんな所に連れ出して」

「いや」

「話したいのは、多分君が知りたがっている瑞葉ちゃんの事」

 心臓を突かれたような気分がした。やっぱり、日司は何か知っているんだ。

 日司は視線を下に落とし、徐に口を開いた。

「瑞葉ちゃんね、探してもいないと思うよ」

「なんで、どうして?」

「だって、彼女はもう死んだ存在だから」

 俺は息を飲んだ。なんでだ。過去に行って、俺は彼女を助けて、その結果、元の時間軸でも彼女は助かった事になった筈なんだ。なのに、何故それが無かった事になったのか?

「事故か」

「違う」

「まさか自殺なんて」

「それも違う」

「誰かが、瑞葉を」

 日司の手が肩に置かれる。

 日司の吸い込まれるような目が、俺を映していた。

「違うんだよ、マコト。元に戻ったの」

「は、そんなわけ」

 胸がズキリとした。目元がグラつく。なんでだろうか? 経験した事なんかないのに、俺は取り返しの付かない事をしてしまった犯罪者のような気分になった。

「一体、いつから知ってた?」

「改変された時から薄々と」

「そんな、だって皆は」

 そんな事気付かなかったじゃないか。俺が過去から戻った時、当たり前に瑞葉がいるように振る舞っていた。

 俺が考えている事が分かったのか、瑞葉は言った。

「だって神様だもん。そういうのからはある程度自由なのよ」

「なんで何も言わなかった。俺は過去に跳んだ事をお前に言わなかった」

「さあ、なんでだろね。あまりに君が嬉しそうだったから、ううん、なんでもない。まあでも、マコトが鏡を使った事に対して何か咎める気は更々ないよ。マコトなら、余計な騒動は起こさないって思ってたから」

 俺の問いに、日司は目を逸らして言った。鏡、というのは美術館で日司が落とした鏡の事を言っているのだろう。あれは、やはり時間跳躍をするための道具だったんだ。

「元に戻ったってどういう意味だ」

「そのままの意味だよ。元々この世界は瑞葉ちゃんを喪失した世界だった。だけど君はその現実を改変した。瑞葉ちゃんのいる世界へと。だけど、それは修正されてしまったってわけ」

「修正って。なんで修正されてしまうんだ」

「……自然に起きた事ではない事は確かかな。これには明確な人の意思が加わっている」

「誰かの仕業だってのかよ。なんで」

「瑞葉ちゃんは人に恨みを買うような子だった?」

「そんなわけない! そりゃあ、あいつの事なんでもかんでも知ってるわけじゃないけど、あいつは、そんな事する奴なんかじゃない。絶対違う」

 日司は目を細め微笑する。

「そっか。じゃあ別の可能性かな。例えば、瑞葉ちゃんに恨みは無いけど、彼女がこの世界から消失してもらわないと困る人がいる、って可能性。もしくは、何かしらの改変の結果、意図せずして瑞葉ちゃんの生存は修正され、元の状態に戻った、って可能性」

「なんで、瑞葉が消えなきゃならないんだよ」

「マコト。そういうものなの。瑞葉ちゃんが仮にどんなに聖人だろうとそんなのは世界にとっては関係ない事で、不都合の辻褄つじつま合わせとしてやっぱり瑞葉ちゃんは消えるしかなかった」

「そんな、理不尽だ。そんなの、おかしい」

「そうね。人の理屈で考えると、こんな理不尽な事はないよね。私も、皆が幸せになれるならその方がいいって思うよ。でも私、全知全能的なのじゃないから、そういう事はオーバータスクなんだ」

 言葉が途切れた。遠くから聞こえる自動車の音や、風に揺れる木々のざわめきが辺りを支配する。

 こういう時、よく服のすそだとか、地面の変な模様みたいなものに意識が集中してしまう。もしかしたらそれは、少しでも気を紛らわしたいと考えているからなのかもしれない。

「日司」

「なに?」

「お前の持っていた鏡を使えば、また過去へ跳べるのか?」

「うん。正確には過去の世界というか、この世界と結びつきの深い、酷似した世界に跳ぶのだけど、まあそこら辺はいっか。大まかに言って過去へ跳べるよ。君が望んでいるであろう一年くらい前の地点にも」

「頼む。もう一回だけ過去に跳ばせてくれ」

「それは、どうして?」

「瑞葉を助けたい。助けられる命なら、助けた方がいいだろう?」

 日司は目を伏せる。

「そうだね。よっぽど絶望的な状況じゃない限り、生きていた方がいいとは思う」

「お願いだ。瑞葉が死ぬ事なんてないんだ。なあ!」

 日司に縋る俺は傍から見たら情けない姿なんだろう。だけど、どんなに惨めでも手放したくないものがあるんだ。

「残念だけど、瑞葉ちゃんを助ける事はお薦めしないよ。君は絶対後悔する」

「今助けない方が後悔するんだよ!」

「マコト」

「やらないで後悔するより、やって後悔した方がいいって言うだろ。俺は大好きな人を助けたいだけなんだ。頼む、俺の命と引き替えでもいいから」

 日司は悲しそうな、でも、少し嬉しそうな表情をした。

「それじゃ本末転倒だって。分かった。君を跳ばせよう」

「ほ、本当か?」

「でも条件がある」

「なんだ、条件って」

「瑞葉ちゃんを助けようとしない事」

「なんで」

「なんででも。別に助ける事が罪になるわけでもなんでもない。只マコト、それは君のためでもあるし、きっと、瑞葉ちゃんのためでもあるからだ」

「じゃあ、なんで俺を跳ばせる」

「瑞葉ちゃんにちゃんと別れを言うためだよ」

「え」

「君は、いつまでも瑞葉ちゃんに未練たらたらみたいだ。それはよくない。だから、君が後ろばかり振り返るんじゃなくてちゃんと前を向けるように別れを言いにいくんだ」

 日司はじっと俺を見つめてくる。それは、今まで見た事ない位の真剣な眼差しだった。日司にとっては、俺の心の問題なんてどうでもいい話だろうに。

「……った」

「マコト?」

「うん。分かった」

 自分でも驚く程えらく小さい声だった。少しかすれてもいた気がする。だからもう一回言わないと、そう俺は思ったが、日司は聞こえていたのか小さく頷いた。

「ありがとう、日司」

「感謝される筋合いじゃないよ。私は君にきつい事をさせようとしてるんだから」

「いいや、そんな事ないよ」

「マコト、手を出して」

「ああ」

 俺が手を前に出すと、日司は聞き慣れない言葉をぶつぶつと唱え始める。やがて、俺の差し出した手の平に、あの時と同じ丸い鏡が現れた。

「これを君に預けます。この時代に戻りたい時はこの鏡に強く願って、元の時代に帰りたいと」

「分かった」

「後余計な事をもう一つ。普通ね、壁を通り抜けられる位の天文学的な確率で起きる時間跳躍って、いわゆるバタフライエフェクトってやつが大きく作用してしまいがちなの。つまりは、本来ならマコトの過去における些細な行動が今の世界を大きく変えてしまうって事。だけどこの神鏡を通していけば、余計な影響は殆どシャットアウトしつつ、使用者が最も変えたいと願っている事に絞って元の世界にフィードバックしてくれる」

「そうなのか」

「でもね、使用者が改変した事実それ自体によって連鎖的に引き起こされる影響まではコントロール出来ないわ。もしかしたら、その事で使用者やその周りに少なからぬ不都合が生じるかもしれない。その意味を、よく考えておいてね」

 それはつまり、間違っても俺が瑞葉を助けないようにという忠告なのか。お前はまだ、俺が瑞葉を助けると踏んでいるんだな。

 それなら日司、お前は何故俺を過去に跳ばせる。

 日司、お前が俺に望んでいるのは。

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