第三章 修正された世界⑤
当たり前の事を言うようだが、冬の朝は寒い。
いや、正確には冬に入るか入らないかの時期なのだが、いずれにしても寒いものは寒い。可能な事なら暖房を点けたいのだが、お袋からは我慢するようにとの仰せなので、仕方なく毛布と掛け布団二枚で妥協している。布団の中は流石に暖かい。冷房を点けないと根本的に苦痛を解決出来ない夏と違って、暖かいものを重ねればそれなりに暖かくなるのは冬の美点だと思うし、ついでにいえば虫がいないのも冬の美点だ。しかし、夏と違って寝床から起き上がるのが一段と憂鬱なのは冬の欠点だと思う。兎に角出たくない。だが今日は月曜日であり、生憎学校は通常運転だ。祝日などで休みという話もない。
俺は意を決して布団と毛布を跳ね上げ、そのまま一直線に部屋を出てから洗面台へと向かった。ここまでで今日一日の体力の半分を使ったと言っても過言ではない。だが、世界はそんな俺に「今日は頑張ったね。休んでいいよ」などと甘い言葉をかけてくれる程優しくはない。故に、残りの体力でなんとか一日をやり切るしかないのだ。顔を洗い、歯を磨き、着替えなど諸々を済ませた俺は居間へと向かう。
「おはよう」
俺が言うと、「おはよう」とキッチンの方から声が返ってきた。お袋が朝の家事でもしているのだろう。
「真琴、ご飯テーブルにあるから」
「ああ。いつもありがとう」
「おだてても小遣い出ないからね~」
「分かってるよ。なあ、父さんは?」
「仕事でもう出ていったわよ」
「そっか」
「何か用事?」
「いーや別に」
ふとテーブルの中心辺りに歯の部分が著しく欠けた櫛があった。大方お袋が壊したのだろうと俺はぼんやりとした頭で考えながら、小鉢に盛られたサラダを頬張り始めた。
テレビを見ると、いつものお天気キャスターがいつものような笑顔で今日の天気を伝えていた。
今日も、気怠い一日が始まるのだ。
〇
その日の空は晴れと曇りが半々といった具合だった。俺のいる場所の上空は晴れ渡っていて白い雲がぽつぽつと浮かんでいるばかりだったが、学校のある方向は如何にも重そうな灰色の雲がどんよりと空中を漂っていた。
もし雨でも降ったらどうしようかななどと些細な不安を抱えながら俺は学校へと向かい、そしてその校門をくぐった。
いつもの昇降口。いつもの廊下。いつもの教室。むしろ驚く程に代わり映えのしない風景。もう少し日常に変化が欲しいものだと思いつつも、じゃあどうすればいいのかなんて分からない俺は、やはりいつものように日常を一日一日とこなしていく。
教室へ入って席に着くなり俺は後ろを振り向いた。岡辺はこめかみに手を当てながら、熱心にノートに数式やイニシャル等を書き込んでいた。規則性、ランダム、など自分でも分かる単語がいくつかあったが、全体的な内容はさっぱりであった。
「よっ」
俺が岡辺に挨拶をすると岡辺はびくりと肩を震わせ、ゆっくりとノートから顔を上げた。
「ああ、おはようさん」
「相変わらず大した集中力だな。だが岡辺、また目に隈が出来てるぞ」
「ほっとけ。勉強とゲームでここ数日忙しかったんだ」
ノートをそっと閉じながら、岡辺はため息交じりに言った。
「しかしま、優等生のお前がゲームなんてな」
「吉屋。お前の中では優等生はゲームをしないのか?」
「まさかそんな事はないさ」
「だが、お行儀の良いゲームをやってるとか、そんなイメージだろ?」
「良く分かったな」
「分かるさ。それなりの付き合いなんだ」
「へえ、そんなもんか」
「ちなみにだがな、俺はそんなファミリーでも出来るようなお行儀の良いゲームはやってないぞ」
「ほお、じゃあ何を」
「他の奴に言うなよ。フリじゃないからな」
そう念押しして、岡辺は俺の耳に口を近付けた。
俺は彼の口から出てきた言葉に思わずっ耳を疑った。
「まじか?」
「まじだ。悪いか? 僕も人間だ」
「まあそうだが」
「え、何話してたの?」
唐突に俺達の頭上から降り注いだ女の子の声。俺と岡辺は咄嗟に振り向いた。
いつからいたのか、日司がそこに立っていたのだ。
「なになに、さっきゲームがどうとか言ってたような」
「いや、なんでもないんだ。男同士の話だからさ」
俺は反射的にそんな事を言った。ここは頭が切れる岡辺に任せるべきだったが、もう全てが手遅れだ。もしお前の趣味や性癖などが露呈してしまっとしても、許してほしい。
だが、日司はそれ以上追及をしようとはせず、「はいはい。どうせ私は女ですよ」と少し残念そうに自分の席へと帰っていった。
「ふう、良かった。そういうわけだ吉屋。お前が心配する必要はない。俺はなんとかやってるから」
「そうか。まあでも、勉強は兎も角ゲームは程々にしろよ。お前がうっかり画面に映った女の子の名前を呟き出したら目も当てられないからな」
「ああ、そのつもりだよ」
岡辺はいつものように澄ました笑みを浮かべながら言った。
〇
特に意識しない、平凡な学校の一日は終わってみると早い。授業中はあれだけ長く感じていた座学も、いざ過ぎてみるとあっという間だという感覚に感じてしまう。
「さてと、じゃあな吉屋」
帰りのホームルームが終わるなり、岡辺はさっさと帰ってしまった。
「なんだよあいつ。やけに早く帰るな」
「まあなんかあるんじゃないかな」
後ろから俺の呟きに答える声。日司だった。
「何かって、例えば?」
「女の子に会うとか?」
「なんだよ。盛ってんな」
「思春期だからねー」
「日司はどうなんだ?」
「ああ、めんごめんご。私も実は放課後に野暮用があるんっすよ」
日司は申し訳なさそうに手を合わせながらそう言った。
「そう、か。はあ、どうしたもんかね」
今日は美術室に顔を出してみるか。ほぼ自由だからといって、こう何日も顔を出さないと只の幽霊部員になってしまう。
「ねえ、マコト」
「ん? なんだ?」
「最近、何か変わった事なかった?」
「え? 別に何も無かったと思うけど」
最近あった珍しい事といっても、クラスメイトの花島が数学の小テストで満点を取った事とかの些細なものくらいだ。花島は数学が得意という話を聞いた事はないから皆驚いてたし、勿論俺も驚いた。他にあった事と言えば、市内南区のどこそこの野良猫が突然渋い声で日本語を喋り始めたらしい、とかくらいだ。もっとも、これは聞いた話でしかない眉唾物《まゆつばもの)の噂話だが。
俺の言葉に日司は「ふーん」となんとも言えない感想を漏らした後、言った。
「そっか。じゃあいいや。じゃあねマコト。また明日」
「ああ、また明日」
振り返って微笑する日司に俺は言った。
先程の日司の態度が妙に気にかかったが、まあ気にしたって解決するわけではないから考えても仕方ないだろう。その後、美術室に行った俺は顧問の先生に描いた練習絵の添削をしてもらいながら、今度描く予定の絵の構想を練る事にした。
「何か悩んでいるの?」
不意に声が投げかけられた。俯いて考え込んでいた俺が顔を上げると、そこにいたのは朝日奈だった。
「まあな。次に描く絵の事だ」
「次に描く絵? まだ決まってないって事?」
「いや、漠然とだけど決めてはいるんだ」
「そうなのね。良かったら聞かせてほしいけど」
「別に構わんぞ。題材は、まあなんというか、神様だ」
「神様ねー。全知全能の神様?」
「いや、それ系じゃない。日本的なのだ」
「ああ、そっちね」
「まあ神様って言っても、具体的な姿がそこにあったわけじゃないから、どうしようかなって思って。やっぱり見た通り間接的な表現で」
「え?」
「ん? なんかおかしな事言ったか?」
「だって吉屋君。まるで神様みたいなのと会ったみたいな事言うから」
「あれ、そうだったか」
「うん。見た通りって、会ってないと言えないわよね」
「んー、まあな。でも多分言葉の綾ってやつだろ」
「そう、ね。そういう事もあるわね」
朝日奈の顔を見る。普段女子の顔なんて恥ずかしくてよくは見れないが、朝日奈は整った顔をしているなと思った。失礼な言い方かもしれないが、朝日奈はどちらかというと地味な印象だ。だがきめ細かな肌といい、ぱっと見で分からない枝毛の無さといい、容貌に無駄がないというか地味ではあるのに野暮ったさがあまり感じられないのだ。やっぱり、女の子だからそういう所に気を遣っているのだろうか。
「ん、どうしたの? さっきからじろじろと見て」
「ああごめん。腐れ縁だなって思って」
「いきなり急ね」
言って、朝日奈は苦笑する。その拍子に、眉下まで伸びた前髪が少しだけ揺れた。
「済まん」
「なんで謝るのよ。でも確かにそうね。まさか同じ高校に進んで、また同じ美術部に入るなんてね。案外、大学や職業まで同じになったりね」
朝日奈が冗談そうに笑うと、俺もつられて笑みを浮かべた。
「まさか。そこまで来たらもうそれこそ神様か何かのやらせだよ」
「でもあるかもよ。そういう例も一つくらいは」
「まあ探せばあるかもな」
「うん、そうね。それで話を戻すのだけど、吉屋君さっきからなんか上の空よね」
「それはさっき言った通り、次に描く絵の事だ」
「それもあるかもしれないけど。直観なのだけどね、それだけじゃない気がする」
「やれやれ、朝日奈はエスパーか」
「一体どうしたの? 友人関係、とか」
「いいや、そんな具体的なものじゃない。もっと漠然としたものだ。只、なんかやけに引っかかるんだよな。なんか忘れちゃいけない事を忘れているような」
「そういう事は私もしばしばあるわね。それで思い出してみたら、なんだこんなものを思い出せなくてもやもやしてたのかってなる。吉屋君はないの? そういう事」
「まあ、無いわけじゃない」
「そういう事よ。私の経験論から言わせてもらうと、無理に思い出す必要はないかもしれないわね。そういう事って、意識しすぎて他の事に手が付かなくなっちゃうし」
「言ってる事は分かるんだけど、どうしても気になるんだよな。正体は他愛の無い事かもしれないけど、思い出さないと一生後悔しそうな感じっていうか」
「その気持ちも分からなくはないんだけどね。でも、いちいちそういうのに拘ってたら生きるのがままならなくなっちゃうんじゃない」
「うーん」
思わず唸ってしまう。どうしても思い出したいけど、朝日奈の言う事も一理というか、百理千理はあると思う。論理的かつ経験的に考えれば、朝日奈の言うように無理に思い出そうとしてもエネルギーと時間の無駄である。
「ああもう、なんで人間ってこう曖昧に記憶を保持するんだろ」
隣で微かな笑い声が漏れる。朝日奈か。
「前から思ってたけど面白いわね、吉屋君は」
「っておい、人の苦悩を笑うな」
「ごめんなさい、でも仕方ないじゃない」
「仕方ないって、お前なあ」
「でも成程。あの子が面白がってたわけね」
「あの子って?」
俺が尋ねると、朝日奈は一瞬はっとしたような表情になって眉尻を下げる。
「いいえ、なんでもない」
「瑞葉の事か」
朝日奈は答えない。その沈黙こそが、全てを物語っていた。
「別に気にしなくていいって。昨日今日の話じゃないんだ。それよりさ、アドバイスありがとう。話してたら少しだけもやもやが収まったよ」
「そう? 思いがけずだけど力になれたのならよかった」
そう言って、さっきまで曇っていた表情をしていた朝日奈はやんわりと微笑を浮かべた。
〇
そうかもしれない。朝日奈の言う通り、気にし過ぎると他の事に身が入らなくなってしまう。それに、ハッキリとした形で覚えていないという事は忘れてしまってもいいという合図のように思えた。
だから、別の事へ意識を早く移して考えないようにするんだ。時間が経てば、その内どうでもよくなるだろう。
ま、大事な事ならその内何かのきっかけで思い出すだろうし。
「ん?」
最寄り駅から降り、自宅近く、川辺のベンチに差し掛かった。川に目をやると、川の水を頼りに生きていた筈の水草がすっかりなくなっていた。
そういえば、中学の時に瑞葉とここで話したっけ。あれは何年のいつくらいの時だったっけ。
瑞葉、幼い頃からの腐れ縁。きっかけがなんだったかは分からない。いや、そもそもきっかけなんて無かったのかもしれない。気が付けば、俺は瑞葉の事を好きになっていた。
だが、彼女はもういない。将来の事を少し不安そうに語っていたあの少女は、もう将来の事で悩む事も無いのだ。
ふと、何かが手に触れた。
「あっ」
それは、鞄に付けていたらしい朱色の御守りだった。
「なんだこれ」
思わず俺は呟いた。こんなもの、俺は付けた覚えなんか無かったからだ。
高瀬神社という刺繡の施されたそれは、どうやら縁結びの御守りのようだった。
俺は少しだけ笑った。開運でも学業成就でもなく、一体何が悲しくてこんなものを付けているのだろう。というか、これを鞄に付けて俺は一日中過ごしていたのか。誰かに見られてただろうか。だとしたら、相当恥ずかしい。
「笑え、る?」
高瀬神社だって? 一体、俺はいつそこに行ったんだ。行ったのなら、何故行った? なんの為に? 誰の為に?
「待て、待て待て」
何かがおかしい。引っかかる。
俺は数日前の休日、ここで瑞葉と話をして――。
「は?」
ここで瑞葉と話をして? なんでそんな記憶がある。俺は休日、家で勉強したり絵の練習をしていたりしていた筈だ。合間に漫画を読んでたら思いの外時間が経ってしまって後悔したり、そんな休日だった筈。
「ああくそっ」
朝日奈と話した時は薄らいでいたのに、またもやもやがぶり返してきた。
いい加減にしてほしいものだ。そんなに気になるのなら、何故自分の頭ははっきりと記憶しておかなかったのか。自分で自分の脳の怠惰を責めたくなってきた。
「頼む、誰か教えてくれ」
俺は自分でも気付かないくらいに痛切に言ってたのかもしれない。その祈りのような願いが、神だか仏だか、そういう超自然的なものにでも届いたのかもしれない。
それは多分、インスピレーションだったのだと思う。
瑞葉。今この時なら確信を持って言える。俺は数日前、確かに彼女とここにいた!
「どうなってんだ」
何故、俺は瑞葉との思い出を忘れていたんだ。いやそもそも、何故俺は彼女はもういないと考えていたんだ。瑞葉は俺が助けて、数日前にここで言葉を交わしたんだ。まさかぼけてしまったわけじゃあるまいに。
「いや」
ここで悩んでいたって仕方がない。俺は、はやる気持ちで家への一歩を踏み出した。
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