第三章 修正された世界③

 数日前に川辺で瑞葉と話して以来、俺は彼女とまともに言葉を交わしていなかった。違うクラスというのもあるが、きっかけがなかったのだ。瑞葉のクラスまで出向いて話をしにいけない事はないが、瑞葉も付き合いなどがあるからそれは迷惑だろう。

 何か行動を起こさねば。そう俺は思いつつも「まだ時間はある」などと自分に言い聞かせ続けてしまった。

 そうして数日が無為に過ぎていった。

 その日はどんよりと曇っていた。朝の天気予報では昼頃に雨が振って夕方には晴れるとあったから、俺は学校に傘を持ってきていなかった。だが、実際空を見ていると不安になってくるもので、やはり傘は持ってくるべきだったのではないかと俺は後悔していた。というか、いざという時に折り畳み傘をかばんの中にでも常備すべきなのかもしれない。

 そんな事を教室の片隅で考えていると、岡辺が教室に入ってくるのが視界に入った。実に数日ぶりの再会だ。

「よお、岡辺」

 教室に入ってきた岡辺に俺は挨拶すると、岡辺は一瞬ぼーっとした後に「ああ」と返事をした。いつも澄ました顔の岡辺には珍しく、目元に薄っすらと隈が出来ていた。

「曇りの日は気怠いな。憂鬱に拍車がかかって今日本気で休もうと考えたよ」

 席に着くなり、こめかみを手を当てて視線を下に向けながら岡辺は気怠げそうに言った。

「なんか疲れてそうだな、大丈夫か?」

「まあ特に風邪でもないからな。ちょっと夜遅くまで起きてたんだよ」

「まさか、お前がゲームしてたわけじゃあるまいし」

「僕だってたまには不健康な事したい気分にもなるさ。特にキツイ事とかあった時は尚更だ」

「まあ気持ちは分かるけどさ」

「おっはよ〜」

 どんよりとした曇の日だというのに、そんなものはお構いなしとでも言わんばかりの陽気な挨拶。言うまでもなく、日司だった。

「どもども、二人共」

「ミツクニさんか」

「ねえ、岡辺君。大丈夫?」

 さっきまでの陽気な挨拶は何処へやら、日司は岡辺の顔を見るなり心配そうな顔で言った。そりゃそうだ、万事そつなくこなす岡辺が疲れた表情をしているのだから。

「さっきも吉屋から言われたよ。まあ大丈夫だ。今日一日耐え切ってみせる」

「んーならいいけど。やばそうだったら保健室行きなよ。何も君が体張らなかった位で世界は終わったりしないんだから」

「大袈裟だな。でもそうだね、限界が来たらそうさせてもらうよ」


       〇


 結論から言うと、その日も俺は瑞葉と学校で言葉を交わす事が出来なかった。全くもって、気軽に他人に話しかけられる人が羨ましい限りだ。彼らは言葉が途切れてしまったらとか、それとなく拒絶されたらとか、そういった心配をしないのだろうか。いや、仮にあっても彼らはそういった事を苦にしない性質なのかもしれない。だからこそ、気軽に他人に話しかけられるのだ。

 それにしても、と俺は玄関の屋根の下から空を見上げた。天気予報は見事に外れてしまったようだ。昼頃に降った通り雨はさっさと何処かへ行ってしまったかに見えたが、まるで忘れ物でも取りに来るかのように俺が学校を出た辺りでまた降り出してきたのだ。結果は言うまでもない。俺はずぶ濡れの状態で家に帰宅する事になった。

 偶々この日の朝はいつもとは別のニュース番組を見ていて、いつもとは別のお天気キャスターがテレビに映っていたが、あの自信満々で全能感に満たされたような顔を信じてはいけなかった。確かにキャスターは可愛かった。それは認めるが、それはそれだ。お天気キャスターというのだから、天気を当ててもらわねば困る。可愛いだけでは世の中はやっていけないんだ。

 いや、他人への愚痴ぐちはやめておこう。そもそもは自分が念のために折り畳み傘の一つでも持っていかなかったのも問題なのだから。

 俺をずぶ濡れにした雨は夜になってもまだどんよりとした湿気を伴ってじめじめと粘着質に振り続けており、一向に止む気配がなかった。

「さて」

 どうするべきか。シャワーでスッキリした俺は、ベッドに座りながらぼーっと天井を見つめながら考えた。結局今日も瑞葉と言葉を交わす事はなかった。彼女と言葉を交わす方法。彼女に、思いを告げる方法。

 親しい方がそういうのは気軽に言えるなんて言う人もいるが、それは逆なんじゃないかと思う。親しいからこそ言い出せないんだ。もしそれまでの関係性が崩れてしまったら。そんな事を考えると、とても怖くて一歩なんか踏み出せようもない。いっそ、あまり知らない知人くらいの関係性であればと何度も思った。

 ……もういっそ、このままの関係も悪くはないかもしれない。

「って、違うだろ」

 このままじゃ平行線だ。動かねば何も変わらない。何かないか、何か。

 あ、と俺は呟いて机に置いていた携帯を取った。文明の利器があるじゃないか。

 本当は会って言うべきなのかもしれない。だけど、そんな事を言ってたら結局先延ばしになって、やっぱり言わないんだ。

 チャットアプリを開く。今時の子だな、などと笑いたいなら笑えばいい。これでも俺にとっては精一杯の勇気なんだ。

 震える手でメッセージを打ち込む。たかだか数十文字にしかならない筈のその文章を打つのに何度も何度も打ち直し、推敲すいこうを重ね、やっと妥協出来る文章が出来た時には十数分が経過していた。

 内容は言う程のものじゃない。シンプルに、瑞葉に対して今度の休日に遊びに行かないかと誘う内容だった。

「後は」

 送信ボタンを押そうとして、送信ボタンの前で親指をぐるぐると動かす。後は押すだけだ。自身が出来る最大限の事をしたんだ。人事を尽くして天命を待つとかいう言葉があるじゃないか。ここまでやって上手くいかなかったなら、それはもうそういう運命だったんだ。大事なのは自分に出来る最大限の事をやる事だ。そうすれば後悔なんてする必要はないんだ。

 勇気を振り絞り、俺は無理やり送信ボタンを押した。

 送った。もう後戻りは出来ない。後は、彼女の返信を待つだけなんだ。

 瑞葉からの返信はすぐには帰って来なかった。チャットアプリには既読機能がある。瑞葉がそれを読んだのか気になって何度も開きたい衝動に駆られたが、一方で、それを確認するのが怖かった。

 なんでもない振りをして少しでも不安を無くそうと、俺は携帯をベッドに置いたまま机に向かった。絵を描いて気を紛らわすためだ。

 そうして椅子に腰を落ち着けようとした時だった。

 ブブブ、と背後からバイブレーションが鳴り、俺の心臓は一気に高鳴った。

 俺は覚束ない足取りでベッドまで歩く。やばい、心臓が沸騰ふっとうしそうな気分だ。これ本当に体は大丈夫なのか。兎に角やばい。

 相変わらず震える手で携帯を取って画面を見た。

 それは岡辺からのメッセージの通知だった。アプリを開くと『明日ずる休みしそうな予感があるので、勉強教えてくれ』などと書かれていた。

「なんだよ、驚かせるなよ全く」

 俺はホッと安堵しながらも岡辺に、「いいけど、あまり期待するなよ」とメッセージを返した。

「やれやれ」

 軽く息を吐いたところで、また通知が入った。

「あ」

 俺は思わず声を漏らした。

『どよびう? 分かっち逝く行く』

 それは瑞葉からのメッセージだった。俺は文章の打ち間違いに思わず吹き出しながらも、思わず舞い上がりたくなる程の達成感で満たされた。

「ああもう、調子狂ってしまうだろ」

 思わず、そう呟いた。

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