第一章 転校生⑥
市立美術館は中央に池の配された公園の中に建っている。主に近現代美術を取り扱っているこの美術館には一度だけ赴いた事があったが、教科書やテレビなどで紹介されるような引きの強い作品が存在しないためか、それとも単に宣伝が下手なのか、その洗練された建物に比して人の出入りは少なかったかのように記憶している。
休日の土曜、俺は日司、岡辺と共に市立美術館に来ていた。事の発端は、日司に美術館へ行かないかと誘われた事だ。特に断る理由もなかったので、俺は二つ返事で行くといった。いや、むしろ行こうと思っていたのだから、これは俺にとっては好機だった。何故なら、丁度この時期に鹿島一彦という俺の好きな画家の作品展示があったからである。岡辺の方はというと「後学のために」などとよく分からない理由で参加する事になった。
「おーすげえー」
バスから降りた日司は美術館を視界に収めるなり、子供のようにはしゃいで言った。
「日司、美術に興味あったんだな」
「まあね。ロマンチストなので、感傷的なものは好きなのです」
そう言って満面の笑みでVサインをする日司。俺も普段インドアだが活動的な事も嫌いではない。しかし、彼女のこのバイタリティは一体何処から湧き出てくるのだろう。自分にとっては思い切った行動を、日司はなんの躊躇もなく実行していくのだ。それが自分にとっては羨ましくもあった。
「ではでは、早速参りましょうぞ」
そう言って日司は軽快に美術館へと向かっていった。
「なあ、岡辺」
「なんだ?」
二人を置いて一足先に美術館へと向かう日司を追うように歩きながら、吉屋は尋ねた。
「ちょっと聞いてみるんだが、日司についてどう思う?」
「どうって、桃色的な話か」
「変な言い方をするな。それとそういう話でもない」
「違うのか」
「当たり前だ。単純に、彼女について不思議に思う事がないかと聞いてるんだ」
「不思議、ね」
岡辺はこめかみに手を当てて視線を落とす。こいつが考えている時によくやる癖だった。曰く、ぼーっと突っ立って考えるより思考が
「まあ、多少は不思議に思う事がないわけではない」
「例えば、髪の色の事とかか?」
俺は思い切って聞いてみた。そう、岡辺にはまだ日司の髪の色の事を聞いていなかったのだ。ひょっとすると、彼も日司の髪を白色と認識しているのではないだろうか、そういう淡い期待も込めて。
「髪の色?」
しかし、
「そうか。済まん、変な事を聞いた」
「いや、構わん。お前が変な事を言うのは今に始まった話じゃないからな」
「どういう意味だよ、それ」
そう尋ねたが、ははは、と岡辺は笑って誤魔化した。
「お前の違和感、僕も興味が出てきたよ。彼女に対してお前は並々ならぬ違和感を感じているらしいからな。果たしてそれが一体何処から来るものなのか。お前の内を起因とするのか、それともやはり彼女を起因とするのか、あるいは両方かーー」
ふと美術館の入り口付近を見ると、日司がおそらく活き活きとした表情で手を振っていた。
「ま、あまり考え過ぎるなよ。俺は別に彼女が妖怪でもなんでも、一向に構わんがな」
そう言って岡辺は俺の背中を軽く叩くと、日司の元へ小走りで行ってしまった。
「そりゃまあ、寛容性のある事で」
そう呟いて、俺も遅れじと歩き出した。
さっきの冗談、結構核心に近かったぞ、岡辺。
〇
赤茶色を基調とした美術館の天井は意外に低く、建物を全体的に小ぢんまりとした印象にしていた。しかし、外の様子からある程度予想は付いていたが、美術館の中も人はまばらであった。美術館的にはどうだか知らないが、人が少ないというのは個人的には嬉しい事である。何故なら、周囲を気にせず心ゆくまで作品を楽しむ事が出来るからだ。
「取り敢えずといってはなんですが、先ずは常設展から見ても構いませんかね?」
エントランスでチケットを購入した後、日司は言った。
「まあ私の本命は特別展の方であるけど、やっぱり美術館に来た以上は一通り回っておきたいよね」
「ああ、日司が行きたいならそうしよう」
「えー、何そのあまり興味なさそうな顔」
「いや、興味無いっていうか、一回来た事あるからな」
実際、常設展は一度見に来ていた事があったから、俺はあまり食指が動かなかった。いや、それでも特別好きな作品があればリピートも辞さないのだが、生憎好きな作品には出会えなかったのだ。
「吉屋、市立美術館の常設展だが、時期によって展示物が入れ替わっているそうだ。流石に全てではなく一部の作品だけのようだが、それなら、お前が見ていないものにも出会えるんじゃないか」
「そうそう旦那。通ぶってもすぐにボロが出ちゃいますぜ」
「お前達なー」
止めておこう。ここで乗ってしまったら余計彼らにからかわれてしまうだろう。大人の対応だ。我慢しなければ。
常設展は四つの展示に分かれている。一階に一つ、二階に三つだ。一階の展示は東洋の古美術品を取り扱っており、仏像や壺等が展示されていた。実は一階の常設展には以前美術館を訪れた時には結局行かなかったので、今回が始めてであった。しかし、仏像は兎も角として壺などの良さは俺のような無教養な男にはさっぱりだった。日司はというと、険しい顔をしながら延々と仏像と睨めっこしていた。一体彼女が何と戦っているのかは分からなかったが、人の鑑賞方法を邪魔するのも無粋なので放っておく事にした。岡辺はというと、如何にも模範的そうな鑑賞者の振る舞いで一つ一つの美術品を鑑賞しては次の美術品へと関心を移していくという事を繰り返していた。岡辺の芸術に対する知識の程は分からない。只、俺や日司に付き合ってやってくれてるだけなのか。それとも、おくびに出さないだけで何かしら楽しんではいるのか。出来れば、後者の方だと俺は嬉しい。
一階の展示を終えた後、俺達は二階の常設展示も見て回った。他三つの展示は近現代を主とするもので、中にはシュールレアリズムの巨匠が描いた絵も展示してあるなど、その道のプロなら興奮してその場に一時間はいるんじゃないかという作品もあったし、海辺で戯れる裸婦達の絵画なども展示されていた。キャッキャウフフと戯れる裸婦達を前に、「これは」などと小さな声で呟き目を見開いて押し黙った岡辺を俺は向こう一年間は忘れはしないだろうし、そんな彼に親近感を感じてしまった俺をどうか責めないでほしい。男なんてものはいくら高尚ぶっても、目の前で美少女美女が誘惑してきたら理性を保てなくなる下衆な生き物なのだから。
〇
「あれ、岡辺は何処に行った?」
お手洗いに行った後、二階エントランス横の美術情報コーナーで休んでいる日司に俺は言った。気が付くと、岡辺の姿が何処にも無かったのだ。俺の問いに、美術雑誌を見ていた日司は顔を上げて首を振る。
「ううん、分からない。携帯は?」
「それもそうだな」
俺は携帯を取り出して、チャットアプリでメッセージを送る。すると、すぐに返信が返ってきた。
「『済まないが、ちょっと気になるものがあったから後で落ち合おう』だってさ」
「ほうほう。一体何に惹かれたのやら」
「まあいいか」
「いいの?」
「前もあいつと博物館に行った時も同じような事あったし。ま、それにこういうとこってそういう所だろ。無理に他人に合わせて回る必要なんかないさ」
「あー、それもそだーね。まあ迷子にならなきゃいいか」
「一番迷子になりそうなのは日司だけどな」
「あー、何それ偏見。文明の利器があるのに迷うなんて有り得ませんから」
本当かな。俺はなんだかんだで彼女は迷いそうな予感があった。根拠はないのだけれども。
「それよりさ、本命の特別展の方へ行こうぜ、旦那」
日司は朗らかに笑いながら席を立ち上がる。
特別展は二階でやっておりエントランスからも程近い場所だったが、今回やっている特別展は開催日から二週間を過ぎていた事もあってか人はまばらであった。周りにいるのは一人や二人、三人組の女性、それと美大生と思しきグループなどで、若い男性は殆ど見かけなかった。
俺の目当ては鹿島一彦だ。だが、この特別展は現役で活躍している現代画家を集めたものなので、鹿島一彦の作品はその一角を占めるに過ぎない。とはいえ、生の作品を拝めるのは滅多にない機会なので、しっかりと目に焼き付けておかねばなるまい。
展示室内を回っていると、時折日司からひそひそ声で俺に解説を求めてくる事があった。例えば、
「これってどういう意味や背景が込められているのかな。マコト先生知ってる?」
とこんな感じに聞いてくるのだ。生憎俺は先生ではないし、美術史も知らないから
「じゃあさ、これは如何ですかな。画伯」
とある絵の前で立ち止まった日司はにやりとしながら言った。ひょっとして試されているのではなかろうかと俺は思いながらも、その大きな絵へと視線を走らせる。
夜明けかあるいは日没か、見晴らしの良い場所で市女笠をした女が里を見下ろしている。こちらに背を向けているので女の表情は分からないが、少なくとも、喜色に満ちたものではない事は容易に想像出来た。
それは、俺にも馴染みのある話が題材に取られた絵だった。作者の名前は
「糸姫伝説だ」
俺は思わず呟いた。日司はそれにきょとんとした顔で尋ねてきた。
「糸姫伝説?」
「そっか、日司は知らないか。この辺りの地域で語り継がれている伝説の事だ」
「へえ、どういう話?」
「無茶苦茶かいつまんで話すよ」
「うん」
ある山麓の村に糸姫という長者の娘がいて、両親に見守られ、思い人とも相思相愛で幸せに暮らしていたんだけど、ある日、その子が神隠しに遭ってしまうんだ。それで、その子は人ならざる世界で暮らす事になったのだけど、ある時、ふと故郷が懐かしくなって現世へと舞い戻った。人ならざる世界と現世とじゃ時間の進みが違ったみたいで、娘が見た故郷はもう娘の知っている村ではなくなっていて、両親や思い人もとっくの昔に死んでしまっていた。娘はそれを嘆き、結局、望郷の思いを晴らす事も出来ず常世の国へと渡ってしまうんだ。
「ふーん。悲しいお話ね」
彼女はこれまでの朗らかさとは打って変わって、少し神妙そうにそんな感想を漏らした。
「確か小学生の時に学校の国語の時間で聞かされたんだが、子供ながらになんでそんな悲しい話なんだろうな、とは思ったよ」
「ねえ、マコト。マコトはさ、もう二度と大切な人と会えないって分かった時、どうする?」
「なんで、そんな事を」
「無理ならいいけど、出来るなら答えてほしい」
なんというか、いつもの日司とは違った声音だった。
「分からない。どうするべきなのか分からない。でも、せめてもう一回会ってちゃんと別れを言いたいな、と思う」
「そう」
俺はちらと横を見ると、近くにいた学芸員の人と目が合ってしまった。
そういえば声のトーンが大きくなってしまっていたかもしれない。そう思い、俺は「すみません」と頭を下げると、学芸員はきょとんとしながら同じく頭を下げてきた。どうやら、俺の心配は杞憂だったらしい。
「さ、行こう」
そう言って俺は次の展示の方へと歩を進めた。
ふと振り返ると、日司はまだ絵画をぼーっと眺めていた。
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