空の道

向日葵

空の道

坊主頭に何かが滴る。太陽が割れる。この世界の輪郭がぼやけていく。

降り出した雨に濡れながら歩く。

典道は、新しい制服の両袖を空に向かって伸ばしながら大あくびする。

教室に着いて、またいつもの日常が始まる。

俺は何度生まれ変わっているのだろうと同じような日々を繰り返すごとに思う。

今日は夏のいい日和の筈だった。

窓に目をやると暗く曇った空の下、グラウンドに水たまりができている。

いつも以上によそよそしかった。若しかして映画の撮影にでも参加しているのかも知れない。暗い空間の中、電灯が灯る。心なしか浮き彫りにされているような、それは少しの安心を差し込む光だった。

もう、誰も周りにはいない。

自分の体の節から台風の様なものが舞い上がるようで、けれど何処にも届かなかった。

気が付けば、雨は何度も何度も窓を叩いていた。まだか、まだかと此処にいるから早く入れてくれと必死に訴えるものを感じ、苦しかった。

背中に、この世の割り切れない部分を染められていくようで、

できれば手の中にくっついていたシャープペンで必死に机を書き乱したかった。

斜め前の席では椅子にもたれかかりながら彼らが大きな笑い声を立てている。

次々と話題を変え、疑い、また笑うという一連の動作をクラスが始まって以来ずっと繰り返している。

おい、誰か気づけよ。

隣の席で真面目に受験勉強をしている彼もまた、同じままだ。

正直、その男の第一印象はあまり冴えなかった。

高校に入学して以来、彼の身長は160㎝に満たないままだったし、どこか悟った老人の様な落ち着き過ぎた空気感を持ち合わせている一方で、ミルクの甘さが体にしみこんでいるようなその空気感に、気が逆撫でられた。

木の断片から蒸した懐かしいにおいが湿気に混じって、人と人の間にできる隙間を埋めていくようで、皆が同じ覆面をかぶっているような錯覚に戸惑った。

その中なら俺も紛れられるかも知れないという気がした。

その仮面の下の顔は狼が潜んでいる。

刃物の様に、相手が伏し目になるほど輝きを持った歯が用意されたピンクの大きな口を、吐き気のする空の胃袋に似合わない程大きく開けて現実を全部かみ砕いて綺麗にしてしまう。

もし俺が、完全に心を持ち合わせない部品であるなら楽だったのかも知れない。

結局抜け出すことも、何処の隙間にも上手く滑り込めないくせに、何をとっても

いつも平凡の枠に押し込まれている。

心に落ちる、いわば動機のようなものは、一度腑に落ちるととても重くて取り除くことなど出来ない。

これが俺の存在意義だ。

今、こうやって続けていかないと俺は消えてしまう。

俺だけが止まっているこの世界をどうにかしないことにはずっと救われない。

この瞬間、飛び降りても良い。

また、人生を続けても良い。

選択肢はおよそこの二つなのだ。

俺の人生を振り返る。

こんな惨めなことがあるだろうか。

何でこんな条件で俺だけ続けなくちゃならないんだ。

そんな根性、持ち合わせているわけないじゃないか。

必死に声の限り叫んだ。

机も椅子も、高く宙に浮かして落として次から次へと俺は走り回る。

騒音が響き渡り、少し遅れて足が曲がった不安定な椅子が死んだ。

そうだ。

こうやって、一つずつ潰されて最後には立てなくなるのだ。

夜の学校には、誰もいない。

母さんが泣いている。

ああ、俺は初めから高校なんて行っていなかったのだ。

俺は、この先どうすることもできないのだ。

俺はあと何年この現実に縛られれば皆を追い越せる日が、来るのだろう。

あの数年前の同級生たちはあと半年で大学受験をする。

俺は、どこへいけば良い。

今日も電話は鳴る。

その声は留守番電話に残されて、不気味に俺を笑っていた。

吉田さん、進路を決めてください。

この夏が終わるまでに決められないならば、あなたは世の中から外されて再生不能となります。

だから、早く決めてください。

自身の中にあるプライドさえ捨てれば、人生は何とかなるものです。

あなたは高校に行けなかったことをずっと悔やんだままですね。  

でも、高校のお勉強を知らなくても入れる大学や専門学校はあります。

だから、何でもいいから社会に参加して、あなたの人生を楽しみなさい。

俺は毎日のように流れてくるこのメッセージのせいで、必ず泣いていた。

やりたいことなんて、何もない。

人並に並んで走ることもできなかった人生なのだ。

なあ、そんな人生なんていらないに決まっているよなあ。

ソファに転がっていたメモ用紙にボールペンで無造作に、円やら四角やらの線のつながりをいっぱいに書く。

浮かんでいる変な模様でも持て余し、次の一枚を取る。

好きだったアニメのキャラクターの名前、小説の登場人物、アイドル等、少しでも共感できる人間の名前を思いつくだけ書いた。

どれも皆、嫉妬もできないほど輝いて、かっこいい。

ひとつだけ、高校へ入学して以来ずっと、それは口に出すことも躊躇われるくらい、それでもずっと俺の中で大きく存在していたクラスメイトの名前を書いてみた。

彼女のことを初恋と呼んでよいかもわからなかった。

でも、ただ気になっただけのその女の子には幸せに生きて欲しかった、そして

いっときでも俺のことを思い出して欲しかった。

十年後でも構わないから、必ず俺が死んだことを知って、少し懐かしんでほしかった。

熱い思いが流れてくる。希望だった。

それは俺が書いた唯一の、そして最後の誰か実際に生きている人の名前だった。

一人分の命がこもっている。

その大切な命に俺の成分が混じっていれば、それは朝日が輝く日にマンションの屋上の真下でばらばらに歪んだ、滑稽な姿をしている俺にも幸せが訪れる。

想像したら、今にでも陽射しに向かって駆けだしたくなった。

夏休みが始まってあまり日が経たない、午後三時。

窓を眺めると道路には日傘をさした大学生、主婦、猫の鳴き声、向かいの家の観葉植物、どれもうっとりして見えた。

太陽が高く真上から射してきて、もしこの時代に暦がなかったとしても、自分の時間が狂ってもこの晴れ晴れとした高揚感はこの季節にしか訪れることがないと、

分かるだろう。

白地にモノクロの写真がプリントされているTシャツにジーンズを合わせ、窓を開けてみる。

肌に熱気が当たり、後先のことが少し現実に引き戻されたような気もしたが、とにかくこれは夜ではなく、気持ちの良い真昼だと感じられた。

決意をした顔に真夏の暖かい風が吹いた。

それでも、こんな人生は無かった方が良かったのだと改めて言い聞かせると、その絶望感にしゃがみ込んでしまった。

脳に刺激が入り、無意識に床に転がっているメモとボールペンをひったくる。

なるべく大きく、雑に、それでいて達筆に、思いのまま書いてみた。

吉田典道。

これが、俺だ。俺の人生だ。俺という人間はどれ程の価値がある固体だろう。

最大限にカッコよく書いた字に向かって、どうか必死に生きて欲しいと、信念がある人間であれと、もっと本能的に人間であってほしいと、片隅に願った。

やはり、こんなところで終わりを迎えるのは悔しすぎる。

こんな人生だけれども、希望の道が続くことを信じたかった。

何処へ行ってもつながっている空の道は、努力が報われないとか、人より足りないという理由では消えはしない。










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