第3話 半藤沙樹
豚之介は沙樹に胸倉をつかまれる。
沙樹は豚之介がなにかをしたのではないかと疑ってかかっているのだ。
だがこの顔面の説得力よ。もし豚之介自身が養護教諭でも豚之介がなにかをしたと思うだろう。
豚之介は考える。半藤の印象に対する記憶がない。
記憶にないということはここ一年で雇用された教諭だろう。
そしてここまで疑われているということは、おそらく嫌われている。
なにかしでかしたかもしれない。……高確率で顔が原因だろうが。
ここははっきり言っておく必要がある。
「ちょっと、離してくれませんか」
客観的には納得しているものの、さすがにこの扱いは不当だ。
不機嫌にそう言って手をどけてもらう。
すると女生徒がおずおずと口を開く。
「あの……先生。ブー……いえ油島先生は私を助けてくれただけです」
「助けた……彼が……? なぜそんなことを? この好色が!」
「顔だけでそこまで言われるのはさすがに傷つくのですが」
沙樹は釈然としない表情のまま手を離す。
カマをかけたら反論がない。やはり原因は顔だったようだ。
「じゃあ、本当の犯人は?」
豚之介は左口角を上げる。
「くくく、空き教室で
逆らうものには容赦しない。ドSの本性が垣間見えた。
「見てきます。油島先生。その子お願いできますか」
「いいですよ。彼女が嫌でなければ」
「あ、はい。大丈夫です」
女子生徒からは特に異論が出ない。沙樹はあきらめて見に行くことにした。
「いいですか。すぐ帰ってきますからね。変なことしたら警察に通報しますよ」
「問題ありません」
沙樹は激怒した様子で外に出ていく。
沙樹が行ってしまうと豚之介はすぐさま冷蔵庫を開ける。
「甘いもの甘いもの。お、アイス見っけ。えーっと……委員長さん? アイス食べる?」
「2―Bの鹿島真名です。それ、さっちゃんのですよ。高いんですから」
どうやら沙樹は女子に「さっちゃん」と呼ばれているようだ。
専門店のお高いアイスクリームのようだ。案外かわいい趣味だ。
中身もそういう女性なのかもしれない。
「いいのいいの、あとで弁償しとくから。鹿島さん、怖い目に遭ったんだから甘いもの食べて落ち着きなね。たぶん警察も来るんだろうから話もしなきゃいけないし。そうそう、【催眠術のことは忘れろ】」
豚之介は、ぱちんと指を弾く。鹿島は目の前で起こったはずなのに、指を弾いたことすら認知されない。ただぼけっとした。
「はいアイス」
豚之介は笑顔を作ってアイスクリームとスプーンを渡す。
「ありがとうございます」
鹿島はごく自然にそれを受け入れた。
まるで【催眠術のことは忘れろ】なんて豚之介が言わなかったかのように。
鹿島がアイスクリームを食べ終わったころ、ドドドドドと足音が聞こえてくる。
その足音は保健室の前でピタッと止まり、数秒して笑顔の沙樹が入ってくる。
「油島先生。ちょっと来いやがれ、です」
凄惨な光景を見たせいか、言語中枢がバグを起こしている。
豚之介は沙樹の方へ行く。すると沙樹は豚之介の胸倉を掴み、廊下に引っ張る。
「なにをしたんですか!?」
地獄を見た沙樹は目をつり上げる。
「私に犯行現場を見られた男子生徒が自殺を図りあのような姿に……」
「自殺を図ろうとして連結する変態がどこにいるんですか!」
「なにぶん私も教師生活の中で初めての経験でして。最近の若者は強いストレスがかかると連結してしまうのでしょうか? なにか学会でそういった報告が上がっていないでしょうか?」
しれっと豚之介は言ってのける。
「ない! 絶対にないですから!」
「そうですか。それで、救急車の手配をした方がいいかもしれません。私では怪我がどの程度か判断がつかないので、半藤先生の意見が聞きたく……」
「もう警察に通報しました! 救急車もすぐ来ます!」
「そうですか。では私はこれで」
逃げようとした豚之介の肩を沙樹はガシッとつかむ。
「まだなにか? あ、アイスのことですね。あとでファミリーパックで弁償致します」
「あ、お前勝手に食べたな! ……じゃなくて、油島先生。日曜日空けてください」
今の豚之介になってから、週の半分は副顧問に部活動をまかせ、休日も部活を休みにしている。
つまり日曜は空いている。
「あの……たいへんお恥ずかしい話ですが、女性からのお誘いは久しぶりすぎて……着ていく服がないのですが」
この面構えでは、久しぶりどころか皆無であろう。
普段着のジャージの上下を着ていくほどチャレンジャーではない。
「スーツで結構です。10時に駅で待ってます」
そう言うと、沙樹は返答も聞かずに鹿島の方へ行ってしまう。
「では私はこれで……」
今度こそ本当に出て行こうとすると、沙樹はにこやかに言う。
「油島先生が飲み物買ってきてくれるって。なにがいい?」
まだ解放されそうにはない。沙樹は中々図太い性格をしているようだ。
豚之介は左の口の端を持ち上げ「ははっ」と、乾いた笑みを漏らした。
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