第2話 おっさんは催眠術を操る体育教師なのです
話は集団痴漢電車からかなり遡る。
油島豚之介40歳。親に嫌われていたのだろうとしか思えない名前を背負ったその男が、今の状態になったのは一年前のことだった。
彼は私立阿屏我王学園の体育教師である。
アマチュアボクシングの有力選手だったが引退。ロスジェネ世代の豚之介は恩師に泣きつき高校教師になった。
以来、ボクシング部の顧問をしながら例のプールと職場を往復する日々である。(比喩表現)
彼には特技があった。それは催眠術である。
彼は催眠術を使い、学園にハーレムを作るのだった!
……と、いう設定である。
だが本人にその記憶はない。ある日突然、油島豚之介になっていた。
だが今の豚之介は思う。どう考えても設定に無理がある。
そもそもこういうもののセオリーは女子バスケット部とか女子新体操部の顧問ではないか!
なぜ汗臭い格闘技なのだ! 意味がわからない。
それにアマチュアボクシングもだ!
記憶に動きは刻まれている。だが、フックと見せかけて肘とか、足を踏んでからの金的とか。憶えている動きがダーティすぎる。
昭和の審判じゃあるましし、すぐにバレるような姑息なものばかりだ。
いや、これだけなら過去も油島豚之介だったのかもしれない。連続性を担保する記憶がないが。
そう、豚之介にはここ一年間の記憶がなかった。
わかっているのは油島豚之介はなぜか催眠術を操る。ゲームかエロ漫画転生と思ったが、どうやら違うようだ。確信はないが。
救いは催眠術を操れるようになった直後に、今の豚之介になったことである。つまり、まだ犠牲者はいない。なので今の豚之介は普通に生きていこうと決めた。
40代、私立学校に正規に雇用されたフルタイムの教員。時間外労働は多いが給与は上場企業の正社員より多い。受験校ゆえ少子化の時代でもリストラの憂き目に遭う確率は低い。就職氷河期世代の人生としては最良の部類に入る。
絶望的にモテないが、それがなんだというのだろう。相性の悪い相手と結婚して地獄を見るよりはだいぶマシだ。
そもそも催眠術で操っているとはいえ、彼女が数百人とか悪夢そのものである。
現実世界では嫁一人でも持て余すのだ。ハーレムを維持できる道理がない。
ハーレムを作ってわざわざ破滅を選ぶ道理はない。
記憶はないが仕事の手順は憶えている。生活に困ることはない。
催眠のことは忘れよう。数日経過してそう実感したときのことだった。
「オラオラ委員長、暴れても無駄だぜえ!」
放課後、いつものジャージ姿で道具の片付けをしていたところ、IQの低そうな声が聞こえてきた。
「わ、私は屈しません!」
【うわあ……】
豚之介はその場で頭を抱えた。だが道理でもあった。こんな名前の学園の存在が許されて、おまけに催眠術まである世界。こんなベタな展開もまた存在するのではないだろうか。
だが……そんな豚之介は不条理を許す気はない。
「きゃあああああああああああッ!」
女生徒の悲鳴が聞こえた。もう時間的猶予はない。
豚之介はドアを開け悲鳴の聞こえた部屋に押し入る。
「なにをやっている!」
中に入ると男子生徒たちが、真面目そうな女子生徒を押し倒し、床に押さえつけていた。
「なにをやっている!?」
もう一度質問するが、男子生徒たちは「へへへ」と下卑た笑いを漏らした。
「うへへへへ。ブーちゃんよお。あんたも混ざらないか?」
【ブーちゃん】呼ばわりするなれなれしい態度よりも、その顔に豚之介は苛立った。その顔に鉄拳をねじ込んでやりたい。そう強く願望した。
そのときだった、豚之介の脳裏に悪魔的なアイデアがふわりと浮かんだのである。
悪党に人権など、ない。特に鬱シナリオに突き進もうとする輩は。
「お前ら【ズボンを脱いで円状に連結しろ】」
ぱちりと豚之介は指を弾いた。
「な、なんだ、身体が勝手に……」
男子たちがズボンを脱ぎ、整列する。
「あ、足が勝手に。お、おい、やめろ! やめてくれえええええええッ!」
がしゃん。血の通ったイギリス製の鉄兜を次々と連結していく。
男子たちは血で染まった山手線のごときグロテスクな輪を作る。それはまさしく暗黒のサバトであった。
「て、てめえ、ふざけんな! ぶっ殺してやる!」
「てめえ豚! ぶっ殺してやる!」
「殺す! てめえだけは殺す!」
「うるさいな。代表者は君でいいね。【君以外の男子は黙れ】」
ぱちりと指を鳴らすと男子学生が声を発することができなくなる。
「い、今……なにをしやがった?」
豚之介は何も答えない、ただその場に落ちていた男子のスマートホンで写真を撮る。
「ふざけんなてめえ! やめろ! 写真をとるな!」
かしゃりかしゃりと音が響く。
「てめえ、豚野郎! 俺の親父はヤクザだぞ!」
ぴくっと豚之介の眉が動く。
「そうですか。では元から潰さないといけませんね」
そう言い捨てると豚之介は、目の前に広がる異様な光景にへたり込む女子生徒の腕を取り引き起こす。
「怖かったでしょう。さあ、外に出ましょう。大丈夫。彼らがあなたの前に出ることは二度とありません」
「おい、俺を無視するな!」
「小うるさいなあ。【声を発するたびに激痛が起こる】」
「てめえ何を言って……」
次の瞬間、男子学生の口の中で無数の針が突き刺したかのような激痛が起こった。
「ぎゃッ!」
喉までもが焼き付く痛みを発する。
まるで熱した鉄を呑まされながら、針で突き刺されるかのような拷問。ただ人を壊すためだけの暴力。
たった一瞬で、男子学生の心は壊れた。
「さあ、君。保健室に行きましょう。そしたら親御さんを呼びますので心配しないで」
豚之介は優しく言うと女子生徒を保健室に連れて行く。
だがこれが勘違いのはじまりだった。
保健室に行くと保健担当の教師が豚之介の胸倉をつかむ。
「その子になにをした!」
名前は名簿で知っている。養護教諭の半藤沙樹だ。
それが豚之介と後にパートナーとなる半藤沙樹との出会いだった。
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