第10話
行き先の階のボタンは押さなかったが、エレベーターは勝手に進み、ある階で止まった。エレベーターから出てスマホの地図を拡大すると、何号室なのかわかった。「かみさま」はそこにいるのだ。
「ここに誰かいるの?」
背中の少女が囁いた。俺は頷いて、少女を肩から下ろした。
「もし嫌なら、この通路で待っていて。俺は少し……この部屋に用事があるから」
「わかった」
俺は少女を置いて、目的の部屋に踏み入った。
部屋は荒れに荒れていた。ものがあちらこちらに散乱している。地響きで家具が動いたり落ちたりして、床や玄関でさえも、足の踏みどころがない。埃まみれで、空気が淀んでいる。最近なのかどうかはわからないが、大きな旅行鞄のようなものを引きずって、焦って家を出たようにも思える痕跡も見られる。
重い扉を閉めると、驚くほど静かになった。
まるでこの部屋だけが、世界から隔離されているかのようだった。
「……」
慎重に、足を進める。部屋の奥へと進むにつれて、どこかから、あの双子の巫女の語る声が聞こえてきた。
「昔々あるところに、一人の女の子がいました」
「女の子は、この世のありとあらゆる不幸を背負って生まれました」
キッチンを探す。汚れた皿と、吸い殻と、酒瓶が転がっている。ここではない。
「女の子は何にも恵まれませんでした」
「女の子はとても優しい子で、いろいろなものを心から愛しましたが、世界のどこを探しても、女の子を愛する人はいませんでした」
洗面所と風呂場を探す。こびりついた黒カビと、いくつものシャンプーの空きボトルが目についた。鏡は汚くくすみ、小さな船のおもちゃが浴槽の底に倒れている。ここでもない。
「女の子は自分の運命を呪いました」
「こんなにも辛い思いをするのならば、いっそ自ら命を絶ってしまおうと決めました」
「でもその前に、せめて誰かを救いたいと願いました」
「神様が自分を愛してくれないのならば、自分と同じように神様に愛されない、不幸な誰かの救いになりたいと思ったのです」
「それでアプリを作ろうとしました」
「なんのことはありません。暇つぶし用の、罪もなく他愛もないゲームアプリです」
ベランダに出てみた。遠くでいくつもの黒煙が上がっているのが見える。ゴミ袋と放置されてひび割れたプランターが置かれている。ゴミ袋は破れて、中身が見えている。中学生用のノートと教科書だった。
「しかしなんということでしょう。アプリが完成する前に、女の子は、酔って帰ってきた父親に手ひどく殴られて死んでしまいました」
「父親は女の子の死体を押し入れに隠しました」
「女の子は長いことひとりぼっちで、見つけられるのを待っていました」
「しかしいつまで待っても、誰もやってくることはありませんでした」
俺はベランダに崩れ落ちた。心がひどく重かった。上空を自衛隊のヘリが通る轟音が、俺のみっともない嗚咽を掻き消していった。巫女たちの声だけが静かに世界に響く。
「でも女の子は今や『かみさま』になったので、寂しくありません。皆が彼女のために祈り、走り、許しを請います」
「彼女は全てを廻します」
「人間はもう、死んでも天国にも地獄にも行けません。ただ生まれ変わるだけです。死んであの世に逃げるなんて土台許されません。これから人は、ずっと苦しい生を続けなくてはいけません」
「それが彼女の救いなのです」
「弱い者に苦痛を押し付けるくらいなら、みんな平等に苦しんだ方がいい。そうでしょう?」
「それでは愛すべき人類の皆様!」
「せいぜい良い終末を!」
「「はい、セルフィー」」
パシャリ。
カメラのシャッター音が鳴ったきり、あとは何も聞こえなくなった。しばらくぼうっと空を見上げていたが、なんとなく立ち上がった。仕事をしないとと思った。ベランダから部屋の中へ入るとき、ひときわ大きな爆発音がした。
さっきのヘリコプターが、どこかで墜落したらしい。
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