第36話 猫。

「猫のおばちゃん」


 呼ばれた悦子は振り向く。


「ラムネ見なかった?」


 央太が問いかける。央太は近所に住む小学五年生だ。猫のエサやりを通して仲良くなった。


「見てないよ」


 ラムネというのはここ河川敷に居ついている仔猫の名前だ。悦子は毎日エサやりに来ているのだがそう言えばこの頃ラムネを見かけない。


「どっか行っちゃったのかな」


 寂しげな表情の央太に悦子は笑いかける。


「気が向いたら戻ってくるよ」

「そうか、そうだね」


 央太の顔に笑顔が戻ったのを見て悦子も笑顔で頷く。


 この頃悦子は一人だった。里香や母親の声が聞こえなくなって久しい。聞こえないことに一抹の寂しさはあったが悦子は孤独でなかった。毎日猫のエサやりをして近所の子たちと触れ合い、日々を送る中で得られる確かな充実感。猫を大切にし始めたのは神のお告げがきっかけだが今、悦子は自らの心の声に従っている。猫を可愛がりゴミを集めるのは神ではなく悦子の意思だ。


 こうして河川敷のベンチに座り、猫がおいしそうにエサを食べているのを見るとこの世の辛い現実を少し忘れられた。自分は孤独でもうすぐ死ぬ。誰にも看取ってもらえない恐怖に時々襲われたがエサをやりながらこうして考えているとそれは仕方のないことの様にも思えた。人には運命というものがある。自分は孤独になる運命だった。この頃の悦子はそんなことについて深く考えるようになった。


「央太最近学校はどう?」

「先生が来なくてもいいって」


「先生がそんなこと言ったの?」

「うん」


 寂し気に呟く央太を見て心配になる。


「来れないなら無理に来る必要はないって」

「そう、冷たい先生ね」


 悦子は猫のパウチの中身をエサ皿に入れ地面に置く。しかし、猫はエサに飽きたのか続いて食べようとはしなかった。


「これから拾いに行くけど一緒に来る?」

「行かない、お母さんに怒られるから。本当はここにも来ちゃいけないんだ」

「そう」


 ここに来る小学生は何人かいるが一番央太のことが心配だった。いつも沈んだ顔をして元気がない。小学生特有のはしゃいだ感じが少しもなかった。


「にゃーちゃんたちが喜ぶからまた来てあげてちょうだい」

「うん」


 央太はランドセルを背負うと河川敷を離れていった。



       ◇



 この頃ゴミを集めにくくなった。皆、警戒して見張りを立てている。時々、見張りのいないゴミ置き場を見つけてはゴミを持ち帰る日々。よく持ち帰るのは漫画と玩具、それには理由があった。


「おばちゃん、ゴーミください」


 外から子供の声がする。悦子は布団から起き上がると返事をする。


「はーい、どうぞ」


 数人の子供の嬉しそうな声がしてゴミを漁っている音がする。悦子が外に出ると小学生の男女が五人いて皆楽しそうにしていた。悦子がゴミを分別するのは一つは悦子が几帳面であること、もう一つはやってくる子供たちがゴミを探しやすいようにするという目的があった。


 片手鍋、漫画、魚をとる網、フライ返し、水槽。思い思いの物を手にして満足そうな笑みを浮かべている。子供は何に興味を示すか分からない。だから、悦子も張り切って出来るだけバラエティに富んだゴミを集めるようにしている。それにしてもこの子たちは央太と同じ年頃の子供だろうか。


「ねえ、僕。佐々木央太くんて知ってる?」

「知ってる。隣のクラスだよ」

「学校ではどんな様子かな」


「いつも一人だよ。本ばっか読んでる」

「仲良くしてあげてくれない?」

「無理だよ、アイツ暗いもん」


 こういう時子供は正直で大人のように体裁よく振る舞うことを知らない。悦子は苦笑いになりながら今度は女の子に言う。


「あの子ね、猫を可愛がる優しい子なの。学校で少し上手く振る舞えていないかもしれないけど仲良くしてあげてちょうだい」

「うん、分かった」


 女の子の心地よい返事にホッとして悦子は物は大事にしましょうねと号令をかける。子供たちは、はーいと元気良く返事をしてそれぞれ選んだ物を持ち帰った。





 数日経って、央太はやっぱり河川敷に来た。来てくれるのは悦子も嬉しいが学校に行っているはずの時間だ。悦子は返事をしてくれた女の子の声を思い出す。央太と友達になってくれなかったのだろうか。


「学校は楽しくない?」

「うん、行く意味ないよ」


 ベンチで項垂れる央太の肩にそっと手を回す。


「世の中上手くいくことばかりじゃないものね。辛いこともたくさんある」

「おばちゃんも学校嫌いだった?」

「好きじゃなかった。でもちゃんと行ったわ」


 央太が視線を落とす。


「央太はこれから大人になる。大人になって社会に出て働いて好きな人が出来て結婚して子供も出来て幸せになる。そのために学校へ行くことが必要なのよ」

「友達ができなくても?」


「友達ならすぐにできるわよ。いつも笑ってなさい。そしたら幸せの方が寄ってくるわ」


 悦子の笑顔を見て央太が頷く。


「分かった、明日もう一度学校に行ってみる」

「そう、応援してるわ」


 それからしばらく央太といて、猫にかまい時間を過ごした。央太は学校がすむ時間になると自宅へと帰っていった。


 央太が帰ってすぐ、帰宅途中の小学生五人が河川敷にやってきた。時々やってくる央太より幼い子たちだ。随分慌てている様子だった。


「おばちゃん! 大変。あっちでラムネが死んでたの!」


 悦子は耳を疑った。泣いている子供などもいて嫌でも信じなくてはいけない状況だった。


 子供たちに案内されていくとラムネが鼻から血を流して死んでいた。可哀想にと泣きながら悦子はくずおれる。小さなラムネの亡骸は草むらに隠れ数日経っているようだった。子供たちがスコップを持ってくるというのでそれを待ち、皆でお墓を作った。花を飾り皆で拝む。悦子はラムネの死と自分の死を重ねた。

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