第10話 続、小原の証言。
悦子は時計の男性についてよく話した。聞いていくうちに小原は男性が妻子の有る身分だと悟る。
「今度一緒に外国へ連れて行って下さるそうなの。ワタシ外国は初めてだわ。ヨーロッパって昔の古い町並みとかそのまま残っているそうよ。行ったら小原さんにはパリの香水を買ってきてあげる」
出勤の支度をしながら悦子はそんな風に語っていた。色々とひっかかる所はあったが余計なことは口出しすまいと思い相槌を打つにとどめる。
この頃悦子のパーティ熱は冷め、小原も無茶な家政婦を強いられることは減り、辞めようという気もなくなっていた。
悦子はいつもの倍の時間かけて化粧をすると最後に真っ赤な口紅をひき、うん、綺麗と微笑む。今日も仕事終わりはデートのようだ。つい最近まで悦子は寂しさを埋めるためかパーティ狂いのようだった。それが打って変わってこの充実。恋というものはこれほどに女を変えてしまうものかと小原は呆れた。
屋敷の前で悦子を送り出し、自分も帰宅する。暮れかけた帰り道、魚屋に寄りフライ用のアジを購入する予定でいた。注文してさばいてもらい支払い、ところが財布が無かった。断ろうかと思ったがすでにさばいてもらっているし、買って帰らなくては夕食が作れない。
仕方なく小原は月々預かっている悦子の生活費に手を伸ばした。借りるだけ、少し借りるだけだ。帰って補充すれば問題はない、以前借りた時も何も問題はなかったのだから気にしなくていい。そう片付けて代金を悦子の金で支払った。
夕刻、帰宅すると娘の貴美が寝そべって本を読んでいた。近頃、小学生というのに夫の読み古した本を読んでいる。勉強も好きなようで利発、将来はいい学校に通わせてやりたいと思っている。そのためには学資金が必要で、悦子の家政婦をして得た給金のほとんどは貯金している。小原にとって娘は唯一の宝であり希望だった。
「ない、バッグがないわ」
ある日、悦子がお気に入りのバッグが無いと騒ぎだした。バッグなら幸いたくさんあるし別の物を使えばいいと思ったのだが、悦子は悲壮な声でバッグは時計の男性、富沢に買ってもらったばかりのものだと言う。今日デートで持っていくつもりだったが持って行かないと気を悪くしてしまうのではないかと喚いている。
決してそんなことはないと思うのだが、悦子はひどく落ち込んでいる様子で、今日はおデート断ろうかしら、と頭を抱えている。小原も探すのを手伝ったが一向に見つからず、諦めかけたころふと妙案を思いつく。
「同じバッグを買って持って行ってはどうでしょう?」
悦子がハッとする。
「いいアイデアだわ。小原さんそうしたら早速買ってきて頂戴」
「えっ、私がですか」
「そうよ、ワタシはこれから出勤でしょ。買いに行く時間なんかないもの」
「でも」
「買って来たら仕事終わりの私にこっそり届けてちょうだい。そしたらそれを持ってデートに行くわ」
あまりのワガママぶりに小原は閉口した。断ろうと思ったが子犬のようにつぶらな瞳を見て断るのは気が引けたため仕方なしに了承した。
高級デパートで小原は身のすくむ思いがした。デパートと警戒して一度帰宅しておしゃれしてきたのだがそれでも浮くほど凛と高級な空気が張り詰めていた。すれ違う店の販売員が心中で笑っている気がする。ああ、田舎者がきた、と。お気に入りだったはずのピンクのニットがみすぼらしく目立った。デパートは小原のようなダサい女が来る場所ではないのだ、悦子の様な綺麗な女にこそふさわしい場所。大事なバッグをいとも簡単になくした悦子をひたすら恨めしく思った。
きょろきょろしながら歩いていると目的のバッグを見つけた。店に入りバッグの所へ向かうと販売員が寄ってくる。
「こちらをお求めですか?」
商売の笑みを張り付けているが、腹の底では笑っている気がする。これください、と言うと販売員は上品な笑顔でプレゼントですか、と問いかけて来る。私が持ってはいけないのかと反論したくなった。自宅用です、と無愛想に伝える。
会計で悦子から預かってきた束の大金を支払った。目的を終え、心がすっとする。もう帰ろうと勇み足でいると、ふいに島陳を飾る可愛らしいハンドバッグが気になった。思わず手に取ると先ほどの販売員が速やかに寄る。
「こちらの商品今人気なんですよ。残りの1個なんです」
こんなハンドバッグを持っていればこんな自分も綺麗に見えるかもしれない。そうな幻想を抱いた。幸い手元には悦子から預かった金の残りがあって、それが生真面目な心を誘惑する。販売員が鏡の前に誘導するので気後れしながら鏡の前に立った。凡人が少し華やかに見える気がする。
「色々なシーンで使えますし、1つあるだけでコーディネイトも増えますよ」
見ているのは悪い気がしなかった。悦子に借りたからと伝え、その後月賦で返せばいいとも思った。悦子の金を拝借するなど今までもやってきたことだしドロボウするわけじゃない。しかし、貴美の姿が浮かんだ。いい学校に入れてやりたい、という気持ちが押し寄せる。食費を借りるのとはわけが違う。バッグを販売員に戻すとまた来ます、と体よく断り店を出た。
閉店の時刻、歓楽街の真ん中にある悦子の店の前で手をこすり合わせ彼女を待つ。中に入りボーイに悦子に渡してくれと言伝しようと思ったがまた無くなっては敵わない。
少し待っていると客を見送りに華やぐ悦子が出てきたのでバッグの入った袋を渡した。
「ありがとう、小原さん! 悪かったわね」
バッグを見た悦子はこれまでにない満面の笑みを見せた。口元からアルコールが香る。少し酔っているらしかった。酔えば可愛らしいことも言えるのかと呆れてしまった。じゃあ、私はこれで、と伝え帰宅した。
ある日掃除しているとベッドの下から無くしたバッグが出てきた。小原はため息を吐く。あるのじゃないか、と。悦子に伝えようと立ち上がった時ふと心に魔が差した。これを質に入れてあのハンドバッグが買えやしないか。中を開けるとこれまたブランドの財布があってかなりの大金が入っていた。
「小原さん、どこにいるの小原さん」
「あ、悦子さんあの……」
逃れるすべなくバッグを差し出すと悦子は目を見開いた。正直者の小原には隠すことが出来なかった。
「まあ、どちらにあったの」
「それがベッドの下に」
「全く呆れてしまうわね」
そう言って悦子はチェストにバッグを取りに行く。今使っている小原が買ってきた方のバッグの中身を雑に移して、これ要らないわ差し上げると言った。人が恥を忍んで買ってきたものをと少しムッとしたがいつものことなので怒りを抑える。
「あの、でもこんな高価な物」
「デザインが気に入らなければ質に入れて別のバッグを買うといいわ」
はっとする。あのハンドバッグが買える。いつもなら断るがこの場ではじゃあ、ありごとうございますと悦子の気が変わらぬうちに頂戴し、帰りに早速質屋へと寄って換金した。
心を弾ませデパートに入り、店頭に行くところまでは良かった。だが、いざ買おうとなると決心がつかず伸びた手を止めてしまう。すると販売員が寄ってきて、先日はありがとうございました、と述べた。同じ服で来なければよかったと思う。
「随分気に入ってるご様子だったのでまたいらして下さると思ってました」
そう言ってバッグを渡してくる。買おう、買ってしまおう。これは悦子の金だ、ワタシのものじゃない。
結局小原はバッグを買うことが出来なかった。せしめた大金は全て娘の将来の学費に貯めた。後日、バッグを買ったかと悦子に問われ小原はその旨を正直に伝えた。すると悦子は神妙な顔でかわいそうね、と言った。貧乏人と指摘されているようであまりいい心地はしなかったが何も言わなかった。
小原は悦子との付き合いに疲れ、辞めよう、もう辞めようと思いながら働いていた。そんなある日、誕生日に悦子から貰ったのはブランドのバッグだった。派手で趣味がいいような気はしなかったが悦子は嬉しいでしょ、という顔をしている。
「いけませんこんな高価な物」
「たいしたものじゃないのよ。よかったら使ってちょうだい」
「でも貰えません。こんな……」
貰ってしまえば悦子に負い目が出来る。またワガママを言われるかもしれない。辞められなくなる。そのことが念頭にあったのでしつこく断っていると悦子は表情を険しくした。
「お金は貰うの良くてバッグだとダメなの。そんなに気に入らないのならこれも質屋に入れるといいでしょ。そのお金で生活すればいいわ」
悦子は怒って出て行ってしまった。小原はひどく侮辱されたようで涙がこぼれた。真面目に働いているというのにどういった仕打ちだ、と悲しくなる。
しきりに泣いた後、バッグを手に持つ。ただ眺めるだけ、ひとつも欲しくない。すると神妙な顔をして悦子が戻ってきた。小原の顔を覗き込んで、いつも感謝しているのよ、その気持ちなのに断られたから悲しかったの、と言った。
結局小原はバッグを受け取った。疲れと苛立ちで頭がおかしくなりそうだった。ブランド物のバッグを貰った手前近々辞めるとも言い出しにくかった。結局小原は悦子が銀華を辞めるまで働くことになる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます