第9話 小原の証言。
午前中、玄関のゴミを全て運び出した。伽藍洞となった玄関には一種の大事件の前の静けさが漂っている。シミの付いた赤い絨毯、地味な時代を感じさせるシャンデリア、優馬は時々サスペンスに出て来る金持ちの屋敷を思い出した。サスペンスならここでロングスカートの主が殺されているんだよな、とふと想像する。そばには割れたワイングラスとダイイングメッセージ。幸いこの場にダイイングメッセージはない。
玄関から続く部屋は3つ、右と左と奥、それに階段があった。それぞれどんな部屋かしれないがどこを最初にやるかと話し合っていると仙道がどこでも一緒だろ、と言って右手の部屋のゴミを運び出して行った。
その部屋も相変わらずのゴミに埋もれていたが全て運び出すと広くて立派なパーティルームという事が分かった。部屋の隅には立派な蓄音機、その後ろに作り付けの本棚があって大量のレコードが収納されていた。肝心の本の方は少ない。レコードのほとんどは優馬も知らない昔の人のもの、特に海外のアーティストが多かった。あと、目立つのはクラシック、これらレコードをかけて優雅な生活を送っていたのだろうか。目を瞑るとワルツが流れ出した。
「小原さん、お料理がなくなったわ。それからワインも持ってきて頂戴」
「かしこまりました、あの悦子さん」
「なあに」
「私そろそろお暇する時間で」
「ああ、そうだったわね。お料理が出来たら帰っていいわ」
「でも、作ってる時間が」
「チーズでもなんでも切ればいいでしょ? 私も手伝うわ」
「はあ」
キッチンに立つと悦子は冷蔵庫からチーズを取り出し包丁で切り分けていく。長くて綺麗な爪が邪魔して包丁を持つ手がぎこちない。本当に炊事の似合わない手だなと小原は思う。花村邸で働き始めてふた月たった。小原にとって悦子は扱いづらい主人だった。猫のように気分屋でコロコロと性格が変わり、可愛い時もあれば本当に素っ気ないこともある。
決して悪い人ではないのだが中々好きにはなれなかった。もしかするとそれは彼女が夜の世界で働いているからかもしれない。差別をしているわけではないが、やってくる客に会わせて性格を変え精一杯もてなす。当然小原のような家政婦は悦子にとってもてなす対象ではなく、だから時々冷たく当たられるのかもしれなかった。
チーズを切り終えると悦子は口からワインの香りを垂れ流しながらパーティールームへと戻った。小原は残っていた洗い物をしてエプロンを外すと帰路についた。
屋敷の仕事は今月で終わりにしようと思っていた。週に二、三度パーティをする悦子にいちいち付き合うのは心身が疲労し大変だった。働き始めたころは決してそんなことはなかった、パーティを始めたのはほんの数週間前のことである。
「小原さん、ワタシパーティをしようと思ってるの。お料理作れる?」
もしかしたらそれは一人の寂しさを埋めるための思い付きだったかもしれない。こんな大きな屋敷に一人きりで孤独を感じない方がおかしい。だから、一度ならと協力した。しかし、訪問客に好評で気をよくした悦子はそれから暇さえあればパーティを開いた。
招待しているのは店の常連だったり仕事仲間、スーツやドレスを着た華やかな訪問客を近隣住民が良く思っていないことは知っていた。夜中だと言うのに大音量で蓄音機を鳴らしていたため近所から直接注意を受けたこともある。酔った客が帰宅時に騒ぐので翌朝嫌意も言われた。そんな時言い訳するのは決まって小原の役目で悦子が弁解することは決してなかった。
帰宅すると小原は疲れでぐったりとした。深夜二時だというのに夫は待ってくれていて本を読んでいた。お気に入りの推理小説だろう。
「貴美は?」
「寝てる」
小学四年生一人娘貴美がいることも仕事を辞めたい理由の一つであった。始めは朝から夜の出勤前までという約束だったのに、一度パーティの協力をしてほしいという頼みを聞くとその後は当然のように手伝いを頼んできた。
朝から悦子の出勤前まで屋敷にいて悦子のいない夕方一度帰宅し、夫と娘の夕食を作り、悦子がクラブの仕事を終え帰宅したころからパーティが佳境に入るころまでまた働く。娘とはコミュニケーションが次第に取れなくなっていった。唯一の連絡手段は作り置きの夕食に添えるメモ、夕食を準備し終えた後貴美の顔を思い浮かべながら毎日書置きをした。
翌朝屋敷に行くと悦子はリビングのソファで眠りこけていた。酒臭い。どうせ出勤前まで眠るのだろう。早速朝から大仕事、小原の仕事はパーティルームの片付けから始まる。気分を上げるため蓄音機を小さく鳴らしながら。嫌な片付けが途端に優雅な時間に変わる。鼻歌を歌い踊りながら空になった皿を集め、下品に食い残されたオードブルを見ながらこれだから金持ちはと独り言。一つ摘まんで食べたが悪い味ではない。ワインの残ったグラスを見てため息をこぼす。これも決して安いワインではない。
パーティルームの掃除が終わると洗濯機を回した。汚れたテーブルクロスと悦子一人のものなので大した量じゃない。今日は晴天、よく乾くだろう。乾くのを待っている間に買い物へと出かける。夕べあれほど買い込んだ食材を使い果たしてしまったのでまた大量に買って帰らなくてはならない。
近くの商店街に自転車で出かける。肉に魚、野菜、果物、外国のチーズも忘れない。いつもよく買う客なので店の方も覚えていて何かとサービスをしてくれる。今日は肉屋で多めに切り分けてもらい、八百屋でミックスジュースをオマケしてもらった。嬉しくて帰ったら早速悦子と二人で飲もうと思っていた。
「おかえりなさい」
ソファに居なかったので探すと悦子は洗面所で歯を磨いていた。
「ああ、起きてらしたんですか」
「また寝るわ」
「あの、八百屋さんでミックスジュースをオマケしてもらったんですけど飲まれます?」
「ああ、頭が痛いからいいわ。それよりベッド整えてちょうだい」
「かしこまりました」
小原は二階の悦子の寝室へと向かう。ミックスジュースの断り方にはいら立ちを覚えたが自分は家政婦なので仕方がなかった。寝室にいくとベッドが大胆に乱れていた。夕べは随分と奔放だったらしい。枕もとに見掛けぬ男性物の時計を見かけてエプロンのポケットに入れると窓を開けて空気の入れ替えをした。
降りると悦子は電話をしていた。ニコニコと笑い、時々恥ずかしそうにして電話線をくるくると指で弄んでいる。電話が終わると悦子は嬉しそうに、やっぱりこれから出かけるわ、と言った。
「どちらに行かれるのですか?」
「お食事。昨日ご一緒だった方がね、デートに誘ってくださったの」
「それは良かったですね」
「どんな服着ていこうかしら」
生娘のようにはしゃぐ彼女を見てふと笑みがこぼれる。こういう時本当に可愛らしい人だと思う。
「小原さん今日は帰ってしまって構わないわ。パーティもしないから」
「かしこまりました」
表情には出さなかったが思わず嬉しくなる。今日は久しぶりに家族で夕食が取れる。では、と挨拶しかけたところでポケットに手が触れて思い出す。
「あ、あの寝室にこの時計があったのですけど」
「そうそう。忘れていたわ」
そう言って悦子は時計を受け取る。
「昨日寝室に腕時計を忘れてしまったから届けてほしいって言うのよ、お電話の口実ね。わざわざ置いていくなんて粋な方よね」
そう言って男性の時計をはめる。悦子にはぶかぶかで手を挙げるとズルリと手首から滑り落ちる。
「外国製のものだそうよ。ずっとアメリカで働いてらしたそうなの。素晴らしい方よね」
「はあ」
特に価値の分からない小原にはそれ以上の感想は出てこない。悦子は時計にうっとりすると踊るように風呂場へと行ってしまった。
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