第7話 続、過去。

 行き場を無くした悦子は住み込みの定食屋で働いた。気のいい夫婦がやっている定食屋で、しばらくはそこで住宅資金を貯めるつもりだった。昼時となるとサラリーマンでいっぱいになり時間も忘れ忙しく働いた。

 月日はあっという間に過ぎて働き始めて半年経った頃だろうか、スーツを着たいかつい客が食事終わりに名刺を渡してきた。


「クラブ、銀華」

「聞いたことある?」

「いえ」

「僕はそこで統括マネージャーをしている者なんだけどね。お嬢さん随分別嬪さんだから働いてみないかと思って」

「はあ」


 悦子はいっさい興味がなかった。母が夜の世界で働いていたから余計にかもしれない。


「こんなとこよりずっとお給金弾むよ」


 店主たちに聞こえぬよう小声でそう言うので思わず苦笑いになる。客は少し考えてみて、と言い置いて店を後にした。悦子は貰った名刺をエプロンのポケットに仕舞った。


 それからしばらくはその客のことは忘れていた。定食屋は居心地が良かったし、ずっとそこでもいいと思うようになっていた。しかし、ずっと働くことは出来なかった。働き始めて一年が経った悦子19歳の頃、経営者夫婦が親をみるため店を畳んで田舎に越すことになった。夫婦は悦子に申し訳ないと気兼ねしていたが悦子はいいですよ、直ぐに新しい所見つけますから、となんでもない風を装った。


 直ぐにいいところなど見つかるはずもない。住居も見つけなくてはならないし、新天地を探すのはそれなりに億劫だった。少しのたくわえがあるものの豪勢な所に住むとそれも尽きるだろう。安アパートを探して飲食店で働いて……と計画してみたのだがまた地道に働くのかと思うと気が重かった。不意に名刺のことを思い出す。クラブ銀華、給金を弾むと言っていた。




 新天地の銀華で働きだして間もなく悦子は高級マンションに越した。悦子を気に入った常連客の大病院の院長、登坂が借りてくれたマンションだった。父のマンションよりずっと豪勢、住居費の心配もなくなり悦子の心はこれまでにないほど華やいでいた。19歳だったがマネージャーには21歳と名乗れと言われ、当然酒も飲んだ。


 華やかにみえる世界だがいいことばかりではなかった。客を取ったとヒステリックに叫ぶ同僚もいればただ態度が気に入らないと文句をつけて来る同僚もいた。最初の頃は先輩からのいじめが辛くて何度も逃げ出そうと思った。悦子を思いとどまらせたのは高給と登坂の借りてくれたマンションだった。




 それから働き出して二年たったころ恋人が出来た。店の常連客、花村という男性だ。花村は印刷会社の若社長で悦子に執心だった。彼以外にもお金持ちはいたけれど悦子は彼が好きだった。彼の笑顔が好きだった。朗らかに笑う彼の目じりは亡くなった父とよく似ていた。


 23歳で悦子は花村悦子になった。結婚したころには彼の会社は傾いていたので仕事は辞めず彼を助けた。客には結婚のことを内緒にしていたが、自宅を借りてくれた登坂にだけ申し訳なく伝えるとおめでとう、自宅はそのまま借りてあげるから頑張りなさい、と言ってくれた。少し図々しい気もしたが好意に甘えて悦子の住んでいた高級マンションで花村との生活を始めた。


 新婚当時は料理もしていた。甲斐甲斐しく夫を支える妻となり、夜は銀華で働いて給金を得た。子もすぐ宿した。病気療養のためと客には言い訳をして長期休暇を取り密かに男の子を出産、小さな幸せを夫と分け合った。


 順風満帆に思えたが、幸せは長く続かない。子が出来て間もなく夫、花村が浮気するようになったのである。相手は悦子より一回り上の女性。夫は次第に帰らなくなり、赤子と二人だけの寂しい生活が続いた。仕事のため子を見ることが出来なかった悦子は夫の両親に子を預け働きに出る。生活費は悦子が全て稼いでいたためまともに子育て出来なくても店を辞めるという選択肢がなかった。


 久方ぶりに夫が戻ってきた時、机には離婚届があった。浮気を一時のものと割り切っていた悦子にとってそれは青天霹靂だった。ほんとに離婚したいのか、と詰め寄りずいぶん時間もかけて話したが夫の意思は変わらない。当然子は悦子が引き取るものと思っていたが、夫は子は自分が育てると主張した。育児に構わなかったお前が何を言うとも思ったが、裏には夫の両親の主張が垣間見えた。確かな跡継ぎを欲しがったのである。


 随分ともめたが悦子がホステスという不安定な職業につき夜は子の面倒を見られないということ、夫は経済的に今は余裕がないが将来を見据えると両親の資産があり育てられる経済状態にあることの2点を主張してきた。故郷の後ろだてのなかった悦子には働きながら1人で子を育てることは出来なかった。職を変えることも考えたがそうなるとマンションを出て行かなくてはなるだろうし、子に不自由な思いをさせるかもしれないというのが目に見えて、それ以上子が欲しいと主張するのを止めてしまった。


 夫の両親は子とは会わせてくれなかった。夫の実家を何度か訪ねたのだが門前払い、あまりに悲しくて泣きながら帰った。自分は母なのだ、あの子の母なのだと心で叫んだが理解してくれるものは誰もいなかった。


 子のことを忘れるように身を粉にして働いた。悲しく過ぎ去る夜。酒をあおり、ただひたすら客をもてなした。業績は良くなり、やがて店での立ち位置も変わってきたが悦子は幸せではなかった。目標もなくなり魂の抜け殻だった。これではいけないと一念発起し、気分一新のため悦子は貯金をはたいて一軒家を購入した。自分だけの幸せな家を手に入れるため。貯金はほとんどを使い果たしたが後悔はなかった。資産家の立てた立派な洋館、悦子は自分だけの城を手に入れた。




「子がいたのはここに越してくる前のことだからね、ほとんどの人が知らない。仲良くなったころ僕にこっそり打ち明けてくれたんだよ」

「お子さんは屋敷を相続しなかったんですか」

「相続してもゴミ屋敷だからね、いらないでしょう」


 男性は笑う。それもそうだなと優馬は頷く。


 悦子は幸せではなかった、そのことがどれほど彼女の人生に影響したか分からないがゴミ屋敷は確かに存在して今もそこにある。

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