第6話 過去。

「悦子いつまでもしょげてないでこっち向いて頂戴」


 佐和子の声に悦子は振り向かない。


「お友達もすぐできるわよ」


 悦子は友達なんてすぐできないことを知っていた。それよりも大好きな父との別れが悲しくて汽車の中からじっと外の景色を見つめていた。リュックには父から貰ってずっと集めていた外国のコインも一緒だ。母が新居に宅配で送ろうと言ったがどうしても持ち歩きたくてワガママを言った。


 これから向かう新潟は母の故郷だった。お盆や法事の時には母は悦子を連れて戻ったので別に初めての地ではない。しばらく乗ると北陸の田園風景が見えてきた。丁度田植えの季節で気持ちのいい青田が覗くが今は心もときめかない。


「お父さんはこれから外国で暮らすのよ。手紙だって時々送ってくれるって言ってたじゃない。寂しくなんかないわ」


 母は悦子の心に無理解らしい。外国で暮らすのなら悦子も連れていって欲しかった。


「もうすぐ着くわ、しゃんとなさい」


 小さな田舎の駅で母の弟である叔父が待っていた。会うと目をほころばせ、大きくなったな悦子ちゃんと頭を撫でた。いつだって会う時、叔父は開口一番にそういう。それも不満だった。

 母の実家へと向かう道中、叔父の車の中で母と叔父は話し込んでいた。これから悦子たちは母の実家の離れに暮らすらしい。どうせ使っていないから好きにしていいと朗らかに言う。


「良かったわね、悦子。自分のお部屋を持てるのよ」


 これまで暮らしていたマンションは決して狭くなどないが大人の都合で作られた部屋らしく子供部屋を確保する余裕はなかった。リビング、キッチン、両親の寝室、母の衣裳部屋。時々やってくる母の友人のため悦子はリビングの片隅で不自由な思いをしなくてはならなかった。


「部屋何て欲しくない」


 涙声を絞り出すと母が笑って、泣かないのとなだめるように言った。





 母は離れを改装して親子二人で暮らしていけるよう努めた。時々叔父家族の夕食に招待してもらうこともあったがほんとに時々だった。


 大人しかった悦子は中々友達も出来ず、学校で過ごす時間のほとんどを窓の外を見て過ごした。時々過ぎていく汽車は東京へと向かうのだろうか。あれに乗れば父の所へ行けるかもしれない。悦子は母の嘘を知っていた。

 父は今頃外国暮らしなんかじゃない。まれに送られてくるハガキは間違いなく外国の消印だったがどうせ海外出張の度にわざわざ外国から投函しているのだろう。この頃そんなことにも気づくようになった。


 手紙が来るたびに父への思いは募った。悦子は父が好きだった。そうだ大きくなったらここを出て父の所へ行こう、次第にそんな風に思うようになった。たまに来るハガキには時々悦子に会いたいです、とも書かれ父は今頃一人で寂しくしているのだろうと思うと泣けてきた。枕を濡らし、どれだけ会いたいと思ったか分からない。母は微塵も父のことを出さず、ひたすら悦子に不自由をさせまいと頑張っていたようだが悦子にはそれが哀れに見えた。


 母はいわゆる奥様で、近所に農作業を手伝いに行っていたがその雇い主がこっそりあの女は農業なんかできる女じゃないよ、と近所の人に影口を叩いているのも聞いた。綺麗に着飾る母に農業は不向きで、やがて母はそこを辞めスナックで働き始めた。帰りは遅くなり一人ぼっちの悦子は叔父の家庭に混ざって食事を摂るようになった。

 ある日、叔父と母がケンカしているのを聞いた。叔父は悦子ちゃんのことを考えてやれと言っていた。母はお金が無いのよ、仕方ないでしょ、と金切り声をあげる。父の慰謝料はとっくに尽きていたのだ。


 成長した悦子は中学に入るとウェイターのアルバイトを始めお金を貯めた。母を助けるためではない。東京への上京資金、悦子は高校卒業と同時に東京へといく心づもりをしていた。若い悦子が喫茶店で働いているとおじさん連中が悦ちゃん頑張ってね、とチップを置いていってくれることも多々あった。


 やがて上京資金が順調に溜まると高校卒業と同時に東京へ行くと宣言した。意図していなかった母は慌てて近所の米農家との縁談を持ち込んできたが悦子は取り合わず上京の支度を始めた。





 東京へと向かう新幹線の中、父との再会を想像して胸が膨らむ。大きくなった悦子をどう褒めるのだろう。父の優しい声音が記憶を撫でていく。上京するとまっしぐらで住んでいたマンションに向かった。地理はうろ覚えだったが道行く人に尋ねながらなんとか見つけることが出来た。

 大きなマンションの15階、結構なところに住んでたのだと今更ながら思う。綺麗になったと言ってほしくて目一杯のおしゃれをした。長い髪を整えインターホンを押す。

 少し待ったが返事は無い。もう一度押す。やはり返事はない。困ってドアを叩き、パパあたしよ悦子よ、開けて、と言う。もう一度、悦子よと言う。すると悦子の声が聞こえたのだろう。隣の住民が出てきて悦子の顔を一瞥し、森野さんなら亡くなったよ、と言った。


「えっ」


 悦子は言ってきた言葉を上手く咀嚼することが出来なかった。


「もうふた月になるよ。知らなかったのかい?」


 突然目の前のガラスが音と立てて崩れるような感覚を覚えた。父が死んだ。父が死んだ。父が死んだ。


 悦子はその場に座り込みただ呆然とした。隣の住民は悦子の様子は気にも留めず、部屋の中へと戻ってしまった。知らされていなかったことへの寂しさが沸々と湧いてくる。もしかしたら母などは聞いていたかもしれないが悦子に教えなかったのか、もしくは離縁した親子には知らすまいと父の方の親戚が判断したからかもしれなかった。


 心が凍り付き涙も出なかった。代わりに浮かんでくる不安、これからどうしよう。東京に来たら父の所に住まわせてもらうつもりだった。


 雑踏の中を心細く歩く。通り過ぎる歓楽街の活気が今は耳障りだ。行きかう人々は悦子の孤独など気にも留めない。新潟に帰ろうか。帰れば縁談が待っていることは目に見えている。だから今更、新潟に戻るという選択肢はなかった。


 悦子は東京に留まり働くことを決めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る