第百八話 家族

 柔らかな朝の日差しが窓辺から入り込み、外では小鳥の囀ずりが聞こえる。



「――ト、ナオト、起きて」



 温かい布団にくるまれて微睡んでいると、最愛の女性が自分を優しく揺すって起こす声が降ってきた。隣の部屋からは、香ばしい朝餉の匂いが運ばれてくる。こんなに喜びに満ちた目覚めは生まれて初めてかもしれない。


「ん……もうちょっと……」


 もう少しこのまま、この幸せを噛み締めていたいんだ。


「も~……朝ごはん冷めちゃうよ?」

「じゃあ代わりにゆりを食べる……」

「きゃあっ! ちょ、ちょっと、」



 ドガァッッッ!!



「うをっっ!?!?」


 突如ものすごい勢いで蹴り出されて、ナオトは布団ごとベッドの下に転がった。


「って~何すんだよ……つかなんでお前がここにいんの!?」


 赤銅色の髪を掻きむしりながら頭を上げると、ベッドを挟んで寝室の入り口側に金髪の男が立っている。男は両腕を組んでふんぞり返るとフン、と不遜に鼻を鳴らした。


「朝食を、馳走に」

「俺とゆりの愛の巣に朝から土足で入り込んで、このトカゲ野郎は遠慮とかねーの!?」


 ナオトが尻尾を逆立てると、まあまあ、とゆりが隣にしゃがみ込み、優しく布団を引き剥がした。


「ナオトおはよう。いいでしょ? 食事はたくさんでした方がたのしいじゃない。それに、シオンはお隣さんなんだから」


 ゆりはナオトの腕を引っ張って立ち上がらせると、寝癖がついてるよ?と跳ねた髪を撫でつける。その甲斐甲斐しい様子に、ナオトは思わずへら、と顔と耳がだらしなく弛緩した。

 目の前にゆりがいる。その一点だけで他は全てがどうでも良くなってしまいそうだから恐ろしい。



 ナオトはゆりを取り戻し、一月以上の旅を経て無事モルリッツへ帰還した。そしてそのままゆりがひとり暮らしをしていた東地区の部屋で同棲を始めたのだが――。

 何故か帰りの旅にもちゃっかり着いて来たエメ――現在はシオンと名乗っている――が、教会に戻ることなくいつの間にか廊下を挟んで向かいの部屋に住み着いていたのだ。



「あり得ない……こいつが隣人とかあり得ない……。つか、前の住人はどうしたんだよ」

「……たまたま、空いた」

「絶対脅しただろ!?」

「穏便に引き払ってもらった、だけ」


 帰りの旅の間も、宿は何故か常にシオンと二人の相部屋で、ゆりと過ごす時間は皆無だったのである。

 街に帰還してからもそろそろ一週間が経とうとしているが、旅立ちの前にドーミオに宣った「ゆりを連れて帰ったら、連日連夜啼かしまくる」という宣言は、なんのかんので実行に移せずにいた。

 歯がゆい。非常に歯がゆい。


「ナオト、顔を洗ってから来てね。コーヒーを入れているから」


 ナオトが身悶えると、そんな彼の内心を知ってか知らずか、ゆりは背伸びをして頬に触れるだけのキスをする。そして少し照れた顔で微笑むと足早に寝室から去って行った。



 ――なんて可愛いんだ。天使か。いや女神だな。

 どちらにしても今のは反則が過ぎる。



「ああ……邪魔者がいなければ今頃滅茶苦茶に……」

「滅茶苦茶に、何だ?」

「滅茶苦茶に犯して……ってオレの思考にまで割り込んでくんなよ邪魔者!!」


 ナオトが再度背中を丸めて威嚇すると、シオンは白いマントをたなびかせくるりと背を向ける。そして視線だけで振り返るとぼそりと呟いた。


「アンタとユリは、ただの同居人、だろ? そしてオレは、善良な隣人。何の問題がある」

「は? 問題ありまくりだろ?」

「……オレだって、の家なら……多少、遠慮する」

「ん? どういう意味?」

「……一生悩んでろ……。馬鹿猫」


 呆れた様子で一瞥すると、シオンは部屋を出て行った。




 シオンも含めた三人で一触即発の楽しい朝食を済ませた後。

 午前から冒険者ギルドに立ち寄ったナオトは、他の冒険者と共に次の依頼について打ち合わせをしていた。

 明日から大規模な商隊の護衛任務があり、他の複数の冒険者と組むことになるからだ。ちなみにリーダーはドーミオである。

 はっきり言って、ナオトには自分とドーミオさえいれば例え災厄級の魔物が襲ってきてもどうにかする自信があるのだが、どうやら求められているのはそういうことではないらしい。冒険者の仕事は意外とチームワークを要求するのである。

 ナオトは欠伸を噛み殺し、他のメンバーのやり取りをぼんやりと聞いていた。



 そして、午後。

 ドーミオに「景気付けだ」と昼間から飲み歩きに誘われたのを断ると、ナオトは軽く昼食を済ませ噴水広場へ向かった。ゆりと待ち合わせ、二人で黒狼騎士団の詰所を訪ねることになっていたからである。


「なんでオレがアーチボルトのとこに行かなきゃなんないの……?」


 ナオトが面倒そうに嘆息すると、彼よりも早く待ち合わせ場所にやって来ていたゆりはにこりと穏やかに微笑む。


「私を見つけるために、アランさんが色々手を尽くしてくれたんだって聞いたよ。こうやって無事に帰って来れたんだから、挨拶とお礼くらいはしなきゃ」


 ゆりの腕には藤のバスケットが抱えられている。その中からふんわりと焼き菓子の甘い香りが漂うのを嗅ぎ取って、ナオトはつまらなそうに半眼で不貞腐れた。


 そして。



「ゆり!」


 数ヵ月ぶりにゆりを見た時のアラスターの感激ぶりと言ったら、耳と尾を千切れそうなくらい振り回し、今にも彼女を抱き締めんばかりの様子であった。

 まるで去勢された犬のような媚っぷりだ、とナオトは内心で毒づく。


「アランさん。……お久しぶりです。ご挨拶に来るのが遅くなってごめんなさい」


 ゆりの言葉に、拳一個分の距離まで近付いたアラスターは感極まったように一度目を瞑る。


「いや、カテドキアからの長旅だったんだ。苦労しただろう。疲れはないか?」

「はい。おかげさまで元気です」

「ああ……もっと良く、姿を見せてくれないか」


 そう言うと、アラスターはゆりの右手を取ってまるで舞踏会のようにくるりとその場で一回転させる。ゆりが恥じらいながらもロングスカートをふわりと華麗に広げてそれにならうと、アラスターは優しく目を細めた。


「クソ犬……オレのゆりに、触んな」


 ついに耐えきれなくなったナオトが不満たらたら嫉妬を覗かせると、アラスターはパッと手を離して肩を竦める。


「おっと。それは失礼した。……ふむ、それで? 俺はいつ、貴方達にヒロコロネギのキッシュを贈れば良いんだ?」

「は?」


 アラスターの言葉にゆりは真っ赤になり、ナオトは意味を理解できずに眉根を寄せた。

 “ヒロコロネギのキッシュを贈る”、とは獣人の結婚を祝う風習だと以前ゆりはアラスターから聞いている。つまり、アラスターが問うているのはそういうことなのだが。


、と聞いている」

「は?? 何それ、帰ってメシ食うに決まってんだろ」


 ナオトがあまりに考えなしに即答したため、ゆりは何も言えずに固まった。比喩やら洒落の類いを全く介しない目の前の男に、アラスターは呆れた様子で嘆息する。


「……そうか。なら、俺がゆりを口説くのに何の問題もないわけだな」


 アラスターは冷たい視線でナオトを一瞥すると、再びゆりの右手を取る。そして流れるようにその甲に口付けた。



「ゆり、この朴念仁に愛想が尽きたなら、いつでも俺のところへ来なさい。アーチボルト家の扉は、いつでも貴女のために開けてある」





 帰り道、ゆりと二人で夕食の買い物を済ませた後もナオトはずっと不機嫌だった。



 ――何故だ。


 自分はゆりを手に入れて、ゆりはそれを受け入れてくれたはずなのに。シオンやアラスターは相変わらず邪魔ばかりで、むしろ状況は悪化していないか。

 誰よりも近くにいるはずなのに、今の自分とゆりとの間には決定的に何かが足りない。



 夕食の準備を隣で手伝いながら。目の前で同じ食卓を囲みながら。そして食後の片付けをする後ろ姿を眺めながら。くるくると忙しなく動き続けるゆりを視界に入れながら、ナオトはずっと難しい顔で考え込んでいた。



「――――ト、ナオト?」

「あ?」


 気付くと、不安げな顔でこちらを覗き込むゆりが目の前にいた。

 いつの間にか湯浴みを済ませていたらしく、黒髪が湿っている。洗いたての石鹸の香りに混じってゆりの芳しい魔力の香が部屋いっぱいに満ちていた。綿の寝間着の合間から覗く首筋は僅かに上気して薔薇色に染まっている。

 匂い立つ肌から目が離せずにふらふらと吸い寄せられそうになった時、ナオトの脳内にある気付きが生まれた。



 ――そうだ。


 あれこれ余計なちょっかいが絶えないのは、オレのマーキングが足りないんじゃないか?

 ゆりの魔力がすっからかんになるまで抱き尽くして、そしてその上にオレの匂いを嫌と言う程たっぷり刷り込んで。身体中にあとを残して、ゆりが誰のものなのか一目瞭然にしてやればいいじゃないか。



「ゆり」

「なに?」

「こっち、来て」

「ふふ、どうし…………あっ!」


 ナオトはゆりの腕をぐいと引くと、自分が座っているシェル型ソファの中にすっぽり閉じ込めた。戯れに耳を食んで反応を確かめると、すぐに覆い被さるように口付ける。熱い吐息が絡まれば、ゆりの小さな身体はぶるりと戦慄わなないた。


「ゆり、ゆり……。ああ、駄目だ、オレの脳みそ溶ける」

「ぁ……ナオ、ト、」


 たっぷり口内を蹂躙し、そのまま首筋に食らいつこうとしたナオトの頬を水滴が濡らす。驚いて腕の中のゆりを見ると、彼女はいつの間にか震えながら泣いていた。


「ゆり……オレに抱かれるの怖い? あの時は……まあ、ちょっとがっついたけど。優しくするよ?」

「ごめんなさい、ごめんなさい……。ちがうの。私今、すごく幸せだよ」

「じゃあ……」

「幸せで――だから、怖いの」


 いつも真っ直ぐにナオトを捉えるゆりの相眸は逸らされ、ただ震える手が彼の服の裾をぎゅっと握っていた。


「この幸せが手から零れたらどうしようって。私、あなたがいなかったらきっともう生きていけない。でも……だから……ナオトを縛りたくないの……」


 ゆりの言葉の真意を理解しきれず、ナオトは黙ってしまった。ゆりは空いた手で自らの顔を覆うと、決死の想いで全てを口にする。



「あなたは誰よりも自由を愛する人でしょう。だからもしその…………。こ、子供ができたりしたら……」


「へ??」



 ゆりを抱く。何度も何度も抱いて、欲望のままに想いの丈を叩き付けたなら。

 いずれゆりはナオトの子を孕むかもしれない。それは生き物として当たり前のことだった。しかし、これまで同じ女を二度抱いたことのないナオトは、この思考が頭からすっぽり抜け落ちていた。


「ご、ごめんなさい。こんなこと言うの、おかしいかな……」


 この世界にも避妊方法がないわけではない。しかし「生めよ増やせよ」を是とする女神教の信仰が行き渡っているこの世界でそれは一般的ではなく、また最近まで生娘だったゆりにそのような知識があろうはずもなかった。


「ゆりは欲しいの? オレの子供」

「え……」


 ナオトの明け透けな問いに、ゆりは暫し固まり――それから真っ赤になって唇を引き結ぶと、恥じらいつつも小さく小さく頷いた。

 ナオトはその様子が愛しくて、思わずだらしない笑いを噛み殺す。黒髪の隙間から覗く真っ赤な耳朶に光るピアスを満足気に人差し指で転がすと、思わず上機嫌な言葉が口をついた。



「そっか。オレはいらないな~」



 ――少なくとも今すぐは。


 だって、こんなに可愛いゆりを独占できなくなってしまうではないか。もう少し二人だけの時間を楽しみたいのだ。



 しかしその台詞が決定的に言葉足らずだったことにナオトは気付いていなかった。


「うん。……だよね、そうだよね。ごめんなさい。今のは、忘れてね。――――あの……私、明日から仕事があるからもう寝るね」

「ああ。…………ん?」


 おやすみなさい、とだけ囁いたゆりに反射的に頷き返したナオトが、なんだか様子がおかしいぞ、と気付いた時には、ゆりはもう腕の中にはいなかった。






「ハア……」


 夜警の番をしながら、ナオトは神剣に寄りかかりその日何度目かの溜め息をついた。


「何がダメなんかなー……?」


 暗闇の中天に向かって呟くが、当たり前だが月も星も何も答えてはくれない。


 腕の中でゆりに泣かれてしまった翌朝から、彼女と顔を合わせることもないままギルドの依頼で現在は旅の空だ。帰宅まで少なくとも後三日はある。


「おらっ、そろそろ交代だぞ」

「ってえ!!」


 突如バシンと丸太に背中を叩かれてナオトは飛び上がった。振り返るとそこには酒瓶をちらつかせたドーミオがいる。


「おう、ちょっと一杯付き合わないか」

「リーダーが職務中に自ら酒盛りかよ。おめでてーな」

「ハッ! こんな安酒一杯飲んだくらいで俺が遅れを取るかってんだよ。ただのナイトキャップだ」


 ドーミオは瓶の口を手近な樹の幹に打ち付けて雑に割ると、有無を言わさずナオトの目の前に置いたカップに注ぎ始める。闇夜の中で焚き火の明かりが酒の水面に映ってちらちらと揺れた。


「嬢ちゃんとは上手くやってるか?」

「なんだよ、出歯亀が目的かよ」

「あん? 俺はゆりの家の保証人だぞ? ゆりの保護者も同然だろうが。このヒモ野郎が」

「ヒ、ヒモ?!」


 想像だにしなかった言葉に、ナオトは驚いて思わず尻尾が逆立った。カップの酒が少し零れて隣の大男にかかり、ドーミオは呆れた顔でナオトを睨み付ける。


「ヒモだろ、どう見ても。お前の住んでる部屋はゆりが契約主なんだからよ。お前は転がり込んだスケコマシの同居人。……そういうのを世間でなんて言うんだよ?」

「……ヒモ……」

「“紅い勇者”の名が泣くな」


 ショックのあまり声が出ず、ナオトはぱくぱくと口を動かしている。ドーミオは胡座をかくと安酒を一口あおった。


「そんで? お前はゆりをどうするつもりなんだよ今後」


 その言葉にナオトはうんざりしたようにちびりと酒を口にする。


「つうかなんで皆揃いも揃って同じ事聞くわけ? そんなの決まってんじゃん。オレは一生ゆりを離さないし、誰かにやるつもりもない」

「……女神に誓えるか?」

「あ? 女神だろうが悪魔だろうが連れて来いっての」

「……なら、誓えばいい。女神に」

「は?」


 ナオトが心底意味がわからない、といった様子で目を見開くので流石のドーミオも苛々が治まらない。カップを地面に叩きつけるとナオトの胸ぐらを掴んで夜営地中に響き渡るような大声をあげた。


「テメエは大馬鹿野郎か!? また殴られたいのかよ?! ゆりの願いを……忘れたのか?」


 その言葉に漸く、ナオトはハッとした顔を見せる。

 ナオトは、ゆりが死んだと思い込んだあの時の、ドーミオの涙ながらの独白を思い出していた。



 “嬢ちゃんは、待ってたんだよ……。お前がその鍵を使って、自分に会いに来るのを。嬢ちゃんは俺に……お前と……家族になりたいって、そう言ったんだ……”



 ――そうか、家族。


 言葉としての意味はわかる。ナオト自身もたった今、自分がそれを望んでいることに気が付いた。ゆりと一生一緒にいたい。つまりそれは、家族になりたいということなのだと。


 だが、ナオトはを知らなかった。



「え……家族って……どーやってなんの……?」



 その言葉にドーミオは、ナオトの胸ぐらを掴んでいた手を離すと大仰に剃り上げた頭を抱えた。



「ハア~~~~!?!?!? そんなんガキでも知ってんだろうが。

 ――――さっさと結婚しやがれっつってんだよ!!!!」



 “……オレだって、新婚の家なら……多少、遠慮する”


 “今後の予定は、と聞いているんだが”


 “私、あなたがいなかったらきっともう生きていけない。でも……だから……ナオトを縛りたくないの……”



 結婚。


 その単語を聞いて、これまで掛けられた言葉の数々がまるでパズルのピースのように組み合わさってゆく。

 同時に、自分がゆりの前で発していた無神経な言葉の数々に思い当たってナオトは一気に血の気が引いた。


「…………。おっさん……。もしかして、そのことに気付いてなかったのってオレだけ?」


 蒼白になったナオトの呟きに、ドーミオは両腕を組んだまま無言で首肯した。






 ――ナオト。

 あなたと出会ってから、もう一年くらいは経ったかな。

 知らない場所に、知らない人々。

 この世界にやって来て何もかも戸惑うことばかりだったけど、いつの間にか私の心の扉は開かれて、あなたの眩しい光が差し込んでいた。


 あなたがくれた優しさ、あなたがくれた痛み、それはそのまま私があなたを愛した証。

 これからも誰より一番近くで、あなたのくれる日溜まりに咲いていたいの。


 いつでもあなたのことを想ってる。

 私の勇者。私の太陽。




「う、ん……」


 顔に掛かる眩しい日差しに、ゆりは目を覚ました。ベッドの中から横目でちらりと窓を見遣ると、既に大分日が高い。

 昨夜は九日ぶりにナオトがギルドの依頼を終えて帰って来る予定で、自分はメインルームのカウチソファでうつらうつらとしながらその帰宅を待っていたはずなのだが……。


 ゆりは昨夜のことを思い出そうとごしごしと目を擦る。すると、左手に違和感が通り抜けた。


「あれ……。これ、何?」


 不思議に思って左手を宙にかざすと、薬指に革紐のようなものがぐるぐると何重にも巻き付けられていた。おかげで指が曲がらず、僅かに鬱血してしまっている。


 そう言えば、ナオトは帰って来たのだろうか。


 ゆりがベッドから上半身を起こすと、はらりと顔の上から一枚の紙片が落ちてきた。


「??」


 ゆりが何気なくその紙片を手に取り開く。

 するとそこにはみみずがのたくったかのような辿々しい字でこう書かれていた。



 “ゆ り け つ こ ん し て”



「えっ!?!?!?」


 驚きのあまりゆりがベッドから跳ね起きるのと同時。


「うわああああああああ!!!!!?」


 キッチンの方から何やら騒がしい叫び声が響く。ナオトの声だ。ゆりは紙片を握り締めると慌てて声の元へ走った。


「――ナオト!?」


 ゆりがキッチンのドアを勢い良く開けると、そこには情けない顔で耳と尻尾を垂らすナオトがいた。その両手には、無惨な姿になった生卵の残骸が握られている。

 ナオトは涙目でゆりを見ると、しょんぼりとした調子で訴えかけた。


「……ゆり、オハヨ。あとごめん。朝メシ作ろうと思ったけど、オレには無理だった」



 泣く子も黙る伝説の勇者様が、生卵に泣かされているだなんて。

 ゆりは思わず笑い出してしまった。



「ぷ……。あは……っ、あははははははは!!!!」


 そして、そのまま生卵でドロドロに汚れてしまったナオトの身体に勢い良く飛び込んだ。


「あははっ! ナオト! ナオト大好きよ!」


 ゆりは自身も生卵にまみれながら、ぐりぐりとナオトに抱き付き頭を擦り付ける。

 ナオトは何故そんなにゆりがご機嫌なのかはわからなかったが、彼女の鈴のような笑い声を聞いているうちに、自然と垂れ下がっていた耳と尻尾は持ち上がって揺れ始めた。


「ナオト、お風呂に入ろう? 洗ってあげるから。朝ごはんは、その後ね」

「デザートにゆりもらえる?」

「……お利口に出来たらね」

「!」


 その言葉を聞いたか否や、ナオトはドロドロの両手でゆりを抱き上げる。そしてそのままくるりと一回転すると、太陽のように笑った。


「うおおおっしゃあ!! 今日こそは、もう絶対絶対ベッドから一歩も出さないから!!」

「も~……」


 ゆりは恥ずかしくなり、ナオトの赤銅色の髪をぎゅうと抱く。そして改めて自身の左の薬指を見た。


「ねえ、ナオト。……これ何?」

「ん~……?」


 ナオトはゆりを洗い場に運びながら、ぽつぽつと零す。


「左薬指を……予約しとこうと思って。誰かに取られたら困るから……。でも、昨日は帰って来たの夜中だし……。オレが身につけてるものって、ブーツの紐くらいしかなくて」

「ブーツの紐!?」


 一体この世の何処に、求婚の際にエンゲージリングの代わりに靴紐を嵌める男がいるというのか。

 ゆりは堪えきれずにまた笑ってしまった。


「ねえ、ゆり」


 ナオトがゆりの脇に手を差し入れ、洗い場の前にすとんと下ろす。そして少し屈むと、黄金色の瞳で真っ直ぐゆりを覗き込んだ。



「……ゆり。オレの家族になって。指輪は今度、世界一大きい宝石を買ってあげるから」



 その言葉に触れた途端。

 ゆりの全身から歓喜が溢れ、ぽろぽろと涙となって零れ出した。

 気の効いた言葉も、洒落たシチュエーションも無かった。二人とも生卵まみれで、ここは自宅の洗い場の前で。それでも、ナオトらしさが滲んだその言葉が何よりも誠実にゆりの心を打った。



「うん……うん。私を、ナオトの家族にして。ずっと、これからもずっと、側にいられるように」




 でも、宝石は大きいものじゃなくていいよ。

 世界一の宝石は、私の目の前にあるから。



 ゆりは目にいっぱいの涙を湛えたまま、目の前の黄金の瞳ににっこりと笑いかけた。

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