if. エメルート「Glory bringer」

 シオンが出窓から身を乗り出すと、既にカシェは消えていた。窓辺には、硝子のような透明な破片が散らばっている。


「サクラ……!」


 シオンはすぐに反転してサクラの元へ駆け寄ると、懐から銀のナイフを取り出してサクラの両手首の拘束に刃を入れる。ぷつ、と音がして戒めが解き放たれると、サクラはその場に崩れ落ちた。手首は鬱血して赤黒く変色し、所々血が滲んでいる。衣服は既に用を為しておらず、暴かれた裸身には、まるでシオンの愛の名残を踏みにじるようにこれ見よがしに上からカシェの噛み跡が付けられていた。


 これが報いなのか。シオンはサクラを抱き起こすと唇を噛んだ。

 かつてシオンは「閃光」の一員として、数え切れない程の人間を殺し、必要であればそそのかしてたぶらかした。

 これまでの人生ではそれが当たり前の日常で、疑問など感じたことは無かった。だが今、これまでの行いが己が身に振りかかった時、シオンは猛烈な後悔に襲われていた。


 自分がサクラを愛したように、自分の殺した人間達も誰かに愛され、誰かを愛していたかもしれない。自分が無感情に奪った命のその裏で、怒りと絶望に涙を流した人間がいたかもしれない。

 堂々巡りの思考に囚われ、群がる死者の手に足を取られ引き込まれかけたその時。真っ直ぐ伸びる一条の光がそれを払い、シオンを包んだ。――サクラの手だった。


「シオン」


 サクラは傷付いた痛々しい腕を伸ばしてシオンの頬に触れた。


「シオン。シオンの目、もっと良く見せて」

「………」


 シオンが無言で見つめると、サクラは紫の瞳に映った自分の姿ににっこり笑った。


「シオンの目、きれいだね。私、シオンの目が大好き」

「サクラ……ごめん、オレのせい」


 シオンの謝罪の言葉を奪い取るように、サクラは彼の冷たい唇にそっと口付けた。そして両の頬を包むと、自分の額をぐりぐりと押し付ける。


「同じ目を持ってて、同じ血が流れてても、分かり合えないことがあるんだね。哀しいね。――でも私は、シオンが好き。シオンが良い人でも悪い人でも関係ないよ。私はシオンの素敵なところ、たくさん知ってるから」

「……そう、か」


 シオンが小さく答えると、サクラは満面の笑みでうん!と頷いた。


「ねーえシオン。シオンの昔のこと、教えて」

「話して楽しいことなど、ひとつもない」

「うん。だから今教えて。今全部ここで話して、そして過去はここに置いていくの。そして明日になったら、身体ひとつだけで一緒に新大陸に行こう?」


 シオンがその言葉にハッとしたように顔を上げると、サクラは顔を離してシオンの鼻をつん、と人差し指で撫でた。


「だからシオン。その前に、おねがい……」


 サクラはシオンから離れて身体を起こすと、よろめきながら立ち上がった。ぼろ布になった服を床に落とせば、曝された白い裸身に逆光が差し込む。微笑みを湛える姿はさながら女神像のように美しくて、シオンはその神々しさに息を飲んだ。


「私の身体、きれいにしてくれる……? 知らない人に触られたところ、全部シオンに治してほしいの」

「……サクラ……!」


 シオンは乱暴にサクラをベッドに押し倒すと、まろび出た頂に吸い付いてその慈悲にすがった。治療とは言葉だけの、決して優しいとは言えない行為の全てを、サクラはその全身で受け止めた。




 そして日が沈み宵の星が瞬き始める頃。

 寝物語に自分の過去をぽつぽつと話して聞かせていたシオンは、ベッドを軋ませて立ち上がると、小さな文机に備えられた水差しを取りに向かった。

 二つ分のコップに水を注ぐと、ひとつを飲み干してもうひとつをベッドに身を起こしたサクラに渡す。


「飲ませてくれないの……?」


 いつものように口移しで与えてくれないことにサクラが不満を滲ませると、シオンはその隣に座って乱れた黒髪を梳いた。


「新大陸に行くのに、いつまでも子供のように甘えてはいられない、だろ?」

「うん……」


 サクラは仕方なく、見よう見まねでコップに口を付けてみる。案の定、上手く飲めずに裸体にびたびたと水が滴った。


「なんかこの水、にがい」

「……傷の治りが早くなる薬を入れた。残さずに飲み干せ」

「うん……」


 隣で監視するように見守られたまま、なんとかサクラは一杯の水を飲み切る。シオンにコップを返すと、彼は濡れた身体を優しく拭ってくれた。


「あ、れ……?」


 突然視界が揺れて、隣にいるシオンが二人に増えた。かと思うと部屋全体がぐにゃりと歪んで――


 次の瞬間、サクラは意識を失ってばたりと倒れた。

 シオンはそれを事も無げに受け止めると、そのままベッドに横たえる。



「サクラ、ゆっくりお休み――。明日になったら、いっしょに新大陸へ行こう」



 そう言って首筋にキスを落とすと、シオンは部屋を出た。もう二度と着ることはないと思われた、神官用の白いローブを纏って。





 風もなく、ただ月だけが照らす静かな夜。カテドキアニスを一望する小高い丘の上、一本の大樹の枝にその男は座っていた。


「……来たか。てっきり、怖じ気付いての身体に耽っているのかと思ったが」


 その男――「閃光」のカシェは、冷たい目で丘を登って来た己が息子エメを見下ろした。


「カシェ。アンタに、『水晶の儀』を申し込む」

「それは随分と命知らずなことだ」

「アンタが先に石を割った。窓辺に水晶の破片が落ちていた」

「……フ。流石にそれを見逃す程落ちてはいなかったか」


 カシェは樹上に立ち上がると、音もなく静かに地に降り立った。彼の黒い髪は闇と同化し、白いフードの中の紫水晶アメジストの瞳だけが、ぎらぎらと剣呑な輝きを湛えている。



 ――「水晶の儀」。それは「閃光」内部に伝わる決闘の儀式。

「閃光」のメンバーはそれぞれ古代語の数字を冠した名を与えられ、それはそのまま組織内の序列となる。下の者が成り上がるには、自分より上の数字の名を持つ者を追い落とさねばならない。そのための儀式が「水晶の儀」だった。

 この儀式を申し込む者は、相手にそれを宣言し、各人にひとつ割り当てられている魔道具の水晶をその場で割る。この宣言を受けた者は、これに応え自身の水晶も割らねばならない。

 後はただ、凄惨な殺し合いが行われるだけ。下の者が勝てば、その者が空いた席の数字を名乗る。


 つまり“七たる者エメ”であるシオンが勝てばカシェは死に、シオンが新たな“一たる者カシェ”となるのであるが――。

 現・カシェである目の前の男は、シオンが物心付く前から二十年以上その座に君臨する、“一の中の一”と呼ばれる存在だった。



「オレは“カシェ”の名を求めない。オレの望みはただひとつ、自由になることだ」

「ほう、大きく出たな。……良いだろう。仮に俺を殺せたなら、新大陸までは追わないと約束してやる」

「オレはサクラと共に新大陸へ行く。ユリは……サクラは、全てを捨ててオレと生きると言った。だから、オレもこの大陸ブリアーに全てを置いていく」


 決意を秘めたシオンの言葉を、カシェは一笑に付した。


「フッ。男でも女でもなく、光でも闇でもなく、人を真に愛することもできない半端者が。お前が生まれの呪縛から逃れられることは永遠にない」


 シオンは静かに首を振った。


「サクラがオレを男にした。オレは光に焦がれて、サクラを愛した。オレは、もう人は殺さない。オレはもう、『閃光』じゃない。だから――カシェ。アンタが、最後だ」


 シオンはそう言うと、手の中の水晶クリスタルを砕く。そして月光を背に、すらりと腰の刺突剣レイピアを引き抜いた。







 ギョァァアアアアア!!!!


「おぅふっ!? まだ死なねーのかよこいつ!」


 今まさに草原に至らんとする森の入り口で。青いターバンの男は得物の斧槍ハルバードを魔物の体から引き抜くと焦り後退した。

 尾を落とされ怒りに燃える蛇魔鶏バジリスクは男に向かって突っ込んでくる。巨大なくちばしが振り上げられ男が顔を庇った瞬間。

 突如稲妻のようにひとりの男が割り込んで、白いマントがはためいたかと思うと蛇魔鶏バジリスクを一撃の元に葬った。青いターバンの男が薄目を開けると、魔物の目から脳天にかけて装飾のないシンプルな刺突剣レイピアが突き刺さっている。


統帥マスター!!」


 青いターバンの男がそう呼んで駆け寄ると、白いマントの男は美しい金髪を払い除けながら酷く迷惑そうに眉根を寄せた。


「ヴィクトール。その呼び方はやめろ」

「ええっ!何故です!? 最高にかっこいいじゃないっすか! つか事実統帥マスターなんだから仕方ないでしょう!?」

「……帰るぞ」


 青いターバンの男、ヴィクトールと金髪の“統帥マスター”は手早く魔物の巣から巨大な卵を回収すると帰路に着いた。


「組合も大分盛り上がって来ましたね」

「そうだな」

「他大陸から“雷光”や組合の噂を聞きつけてやって来る野郎共も増えてますよ」

「そうか」


 一見盛り上がりに欠ける一方的な会話だが、こう見えて“統帥マスター”は記憶力が良く、こういう何気ないやり取りを良く覚えているのだとヴィクトールは知っている。

 やがて彼らの拠点である港街の入り口が見えて来ると、そこに美しい黒髪の女が立っていた。


「シオン! お帰りなさい! ……あと、ヴィクトールも」

「サクラ!」


 マスター・シオンは、その姿を認めるなり子供のように走り出すと、あっという間に黒髪の女――サクラを腕の中に閉じ込めた。


「サクラ、会いたかった。体調は大丈夫?」

「も~、たった半日でしょ?体調は平気です」

「外は冷える。アンタ達に何かあったら……」

「ふふ、過保護なんだから」

「サクラ。愛してる」

「もう……ヴィクトールが見てるよ」

「アイツは河原の石だ。放っておけ」

「あ、ハイ。慣れてるんで……。ごゆっくり」


 突然話を振られたヴィクトールは、おもむろに明後日の方角を向くと調子外れの口笛を吹き出した。


 この夫婦は既に二人の子がいるのだが大変仲睦まじく、特にマスター・シオンの溺愛ぶりは相当なものである。普段の冷静な態度からはとても想像がつかないのだが、ヴィクトールも気持ちはわかる。

 何せ、彼の妻であるサクラ夫人はまるで少女のように若々しく無垢なのだ。ヴィクトールもこの大陸アッシャーにやってきたばかりの頃、まさか子持ちの人妻だとは知らずに口説いてシオンに半殺しの目に合わされていた。


「サクラ、本当に大丈夫?」


 シオンが頭上からキスの雨を降らせつつ問い掛けると、サクラはくすぐったそうに笑った。


「大丈夫。流石に三人目なんだからそれくらいは自分で判断できるよ」

「ああ。そうだな……」


 シオンは愛しげに少し膨らんだサクラの腹を撫でた。


「そういえば、イチルとニーナは?」

「自分の子供をおまけみたいな言い方しないで? 組合の人が見てくれてるよ」

「なら、そのまま一晩預かってもらえ。オレは欲求不満なんだ。アンタが子供の……」

「もうっっ!! そもそも誰のせいでこういう現状だと思ってるの??」

「アンタがいちいち可愛く誘うのが悪い」

「……!!」


 サクラは顔を真っ赤にすると、子供のようにイーッと歯を見せて街の中へ歩き出してしまった。シオンはその後ろ姿を追い掛けるでもなくニヤニヤと眺めている。


「そんなにイチャイチャしたいんなら、少しは子作り計画見直したらどうっすか」


 ヴィクトールが呆れた様子で後ろから声を掛けると、マスター・シオンは“雷光”と恐れられるその眼差しを冷艶に細めた。



「……繋ぐ鎖は、多い方がいい」



 それまで混沌を極めていたアッシャー大陸に、数年前「自由冒険者組合」なる冒険者の互助組織が生まれた。元々は一人の冒険者とその妻が他の冒険者達の面倒を見てやっていたところ、その噂を聞き付けた他の冒険者達が集まり出し、それはいつの間にかひとつの巨大な組織になっていた。

 組織の祖である金髪の男は、その美しく激しい戦いぶりから“雷光のシオン”と呼ばれ、その名は大陸を越え世界に知れ渡った。

 そして後にこの「自由冒険者組合」はアッシャー大陸の開拓に重要な役割を果たし、“雷光のシオン”はその功績を讃えられ「祖なる統帥グランドマスター」として歴史にその名を残す。

 一方で彼は非常な愛妻家として知られ、美しい妻との間に四男三女を設けたという。



【エメルート 完】

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