if. エメルート「新大陸」

「……あなた、だあれ?」


 紫苑の花畑の真ん中で、その男は跪きゆりの手を取った。


「俺の名前はアラスター。アラスター・ウォレム・アーチボルト。貴女の名前を教えてくれないか? 美しいひと」

「私は……」


 その流れるような仕草に見とれて思わず続きを言いかけて、ゆりはハッと口を押さえた。エメに、他人に名を名乗るなときつく教えられていたことを思い出したのだ。


「……ごめんなさい」

「ゆり、待ってくれ!」


 知らない名で自分を呼び、引き留める声を振り切るように。ゆりはアラスターに背を向けるとエメの待つ白壁の家へと逃げ出した。




「シオン!」


 玄関の扉を潜るなり、ゆりはエメに飛び付いた。


「なんだ、急に」


 抱き留めたエメは、彼女の身体が震えていることに気が付いた。


「何があった」


 問い掛けても答えない。ただ首を左右に振ると、ぐりぐりとエメの胸元に顔を押し付け黙り込んでいる。外で何かあったのかと玄関の方を見遣ると同時に、何者かの訪問を知らせるノック音が響いた。

 抱きつくゆりを引き剥がして待たせ、エメは扉の脇に置いた刺突剣レイピアを手に取る。警戒しながら玄関を開くと、目の前に立っていたのはエメの想像だにしない人物だった。


「アーチボルト、卿――!」

「暫くだな、『閃光』の。ゆりは――」

「……何しに、来た」

「ゆりの無事を確かめに来たんだ。せめて顔を、」

「ユリは記憶を失くしていて、アンタが知ってるユリはここにはいない」

「だが――」

「狼の剣士さん。私に会いに来たの?」


 突然、今まさに怯えていたはずのゆりが後ろから顔を出して二人の間に割って入った。


「そうだ。ゆり、身体は無事なのか?」

「私、元気よ。あなたのことは忘れちゃったけど、でもシオンと楽しく暮らしてるわ」

「そうか……」

「シオン」


 ゆりはアラスターの問い掛けに卒なく返すと、打って代わって心配そうな様子で隣のエメを見上げた。


「なんだ」

「お家に入りましょ。寒いんでしょ?」

「?? いや……」

「でも、顔が真っ白だもの。……狼の剣士さん、ごめんなさい。今日はもう帰ってね?」


 ゆりがにこやかに対応したのは、あくまでアラスターをこの場から早く帰すためだったのだ。取りつく島のないその様子に、さすがのアラスターも引き下がらざるを得なかった。



「――突然すまなかった。明日、また来る」



 アラスターが去ると、エメは深く息を吐いて玄関に背を向けしゃがみ込んだ。暫くしてくしゃりと金髪を乱すと、無言のまま立ち上がる。水を飲もうとキッチンへ歩き出すと、その後ろをゆりがついて来た。


「ねえシオン。大丈夫?」

「ああ」


「ねえシオン。私は……誰なの??」


 思わず足が止まる。

 それは、エメが最も恐れていた問いだった。



「……アンタは、サクラだ」



 エメはゆりに背を向けたまま、渇いた喉から絞り出すように短く告げる。しかし、それだけでは到底納得しないだろうと思われたゆりは静かに目を閉じると頷いてみせた。


「そうだよ。私はサクラ。シオンが名前をくれて、シオンの愛で出来てる」

「サクラ……?」


 エメは振り返り、驚いたようにゆりを見た。


「私は私の昔を思い出せない。……でも、私は自分の過去がきらいよ。だって、その話になると必ずシオンが悲しそうな顔をするから」

「…………」


 エメがかけるべき言葉を見つけられずに戸惑っていると、ゆりは静かに目を開いてエメを見上げた。


「……シオンは、私が昔の私に戻ったら良いと思ってる??」

「…………。アンタはアンタだ。オレはただ、アンタがここにいてさえくれれば、それで良い。ただ――」


 ゆりの真摯な瞳に耐えきれず、エメは顔を逸らした。



「オレは恐れてる。アンタが“ユリ”に戻ったら、オレを捨てるだろう。アンタは“ユリ”だった時、――別の男を、愛してた」



 かつて“ゆり”は、勇者ナオトを愛していた。認めることを拒んで散々否定してきたけれど、それは変えようのない真実だった。


 ゆりは思い出すだろうか。彼を愛し命すら投げ出したことを。エメはたったひとつの愛を失うかもしれないという恐ろしさに身震いする。だが――。

 ゆりはエメの前に進み出て彼の左手を取ると、自らの頬に近付けた。


「ならシオン、私を繋いで」

「……?」

「私がどこにも行けないように、私を鎖で繋いで」

「何を……」

「シオン」


 ゆりは森よりも深く澄んだ相眸で、真っ直ぐエメを見た。



「私、シオンが好き。シオン以外、何もいらないよ」



 エメの心にわだかまる闇を、ゆりのそのたった一言が振り払った。エメが恐る恐る差し出された頬に触れると、ゆりは優しく目を細める。そして自らもエメの青白い顔に両手を伸ばした。


「過去とか記憶とか、そんなの何も欲しくない。ただシオンが私をぎゅってして、私の名前を呼んでくれたら、それだけでいい。……だからシオン。私の名前を呼んで」


 その瞳は真っ直ぐ、ただエメだけを見ていた。エメは溢れ出る歓喜と、まだ信じ切れないという疑念がない交ぜになりながら、掠れる声でその名を呼んだ。


「……サク、ラ……」

「もっと」

「サクラ」

「もっと」

「サクラ……!」


 エメは触れていた頬を掴むと、ゆりの唇を塞いだ。偽りでも救済でもなく、彼にとって初めての、愛を確かめるための口付けだった。

 もっと欲しい。まだ足りない。これまで心の底から希求したその感覚に溺れるように、エメはゆりの唇を求め、がむしゃらに貪った。


「ぁ……シ、オン、お願い……。“夫婦に必要なこと”をして。私を……、シオンの、本当のお嫁さんにして」


 覆い掛かられ、ほとんど体重を預けるように仰向けに腰を抱かれたゆりは、途切れ途切れの吐息で懇願する。その言葉に、獣の本能剥き出しで耳に、頬に、首筋に囓り付いていたエメは、驚いて思わず自身の二股の舌を引っ込めた。

 エメの面食らった様子に、ゆりはむう、と頬を膨らませる。


「私が知らないと思ったの? だって、八百屋さんのおばさんにいつも言われていたんだもん。“サクラちゃんのところには天使はいつやって来るの?” って。私がきょとんとしていたらおばさんは教えてくれたよ。“愛し合う夫婦のところには、天使が降りてくるのよ。あなた達も早く本当の夫婦になれると良いわね”って……。私は、シオンと本当の夫婦になりたいよ」

「……後悔、しないか」


 ぎりぎりで踏み止まるエメの問い掛けに、ゆりはそれこそきょとんと小首を傾げた。


「?? しないよ。何で? 本当の夫婦になるのって、そんなに大変なことなの……?」

「いや。……だ」

「だったら!」


 エメはゆりの身体を離してしゃんと立たせると、自身の冷たい人差し指を彼女の唇に押し当てた。


「……サクラ」

「なあに?」

「今すぐ服を脱げ。全部だ」

「なんで??」


「――“夫婦に必要なこと”を、教えてやる」




 こうして、シオンはサクラの四肢を愛という鎖で繋いだ。

 そこには誓いの言葉も女神の祝詞も無かったけれど。二人は確かにこの時、真の夫婦となった。

 シオンはサクラの震えるからだを優しく激しく拓かせて、何度も追い詰め、堕とし、息つく間も与えぬ程責め立てた。他者の入る隙間など一分もないように、髪先から脚の指まで丹念に愛して己の色に染め上げた。サクラのうぶな蕾は綻んで、花開き、シオンのためだけに美しく咲いた。


 日は高く昇り、沈んで、夜のとばりが下りるまで。シオンの蹂躙は続き、サクラはシーツの海に沈んだ。



「サクラ」

「……しおん……」


 全ての激情を受け止め、疲弊しきった身体をサクラは僅かに動かす。ぼんやりと目蓋を持ち上げると、シオンはその前髪を梳き、そっと額に口付けた。


「夜が明けたら、この家を出る。それまで眠っておけ」

「……また、旅に出るの?」

「ああ。この町を出て、カテドキアニスの港へ行く」

「知ってる。大きい港でしょ。船に乗るの……?」

「ああ。この大陸ブリアーを出て、新大陸アッシャーへ行く。そこで、誰にも邪魔されない二人だけの暮らしをする」

「うん……」


 サクラは彼の言う“新大陸アッシャー”がどのような所なのか全く知らなかったが、不思議と不安はなかった。


「辛い旅になるかもしれない。それでも来て、くれる?」

「シオンと一緒なら、どこだって行けるよ」

「オレもだ。――サクラ……」


 サクラの額に自分の額を押し当てると、シオンは祈るように囁いた。


「愛してる。サクラだけを愛してる。死が二人を、別つまで」

「うん、私も……。シオン、大好き。大好きよ。今日こそやっと、夢の中でもシオンに会えそうだよ……」


 シオンは隣で微睡まどろむサクラの左手を取り、薬指に口付けた。それは儀式代わりの誓いのキス。気だるげにシーツにくるまれたサクラはさながら純白のドレスを纏う花嫁のようだ。にこりと微笑んだその顔は、散々いて女になったその後も、変わらず無垢だった。

 天に掛かる月だけが、その誓いを見届けていた。



 そして夜が明け東の空が白み始める頃、二人は静かにサントアイレの町を出た。昨日の契りの名残を全身に残し、くたりとしたままのサクラを馬に乗せると、シオンは一路カテドキアの首都、カテドキアニスに向けて旅立った。






 それから数日後、カテドキアニス船舶管理局にて。


 シオンは街へ着くなり宿にサクラを残して定期船の窓口までやって来た。

 幸運なことに、新大陸アッシャーへの連絡船の出港は明日。数ヵ月に一度しか往来がないため、これはまさに絶好のタイミングだった。


 この世界には四つの大陸が存在する。アッシャー大陸はその中でも比較的最近発見された大陸で、まだそれほど入植が進んでいない。

 理由は簡単で、魔物の数がブリアーなど他の大陸より多いのだ。新天地を夢見て移住する人間も中にはいるものの、まだ冒険者ギルドのような互助組織も設立されておらず、魔物を討伐するための基盤が完成されていなかった。


 新大陸での生活は容易にはいかないだろう。それでも全てのしがらみを捨てサクラと二人で歩む未来を思うと、シオンの胸は高鳴った。



「あの……」



 明日の連絡船の席の確保を終え、船旅のための荷を揃えるためにシオンが街へ出ようとしたその時。船舶管理局の職員の女が後ろから声をかけた。


さん……ですか?」

「! ……何の、用だ」


 今の彼はシオンとして生活しており、エメの名を知る者は存在しない。――旧知の仲か、教会関係者以外には。

 シオンが反射的に手首を掴んで捻り上げると、女は叫ぶように一枚のメモを差し出した。


「伝言です! 管理局の入り口で預かりました!!」


 シオンはパッと手を離すと、手早くメモを取り上げる。そしてそこに書かれた内容に驚愕した。



 “1 to 7

 女神の尊き光は全てを暴く

 罪人の隠せし黒曜の在りかは既に白日の下”



「――――!」


 そのメモは全て古代語で書かれていた。“1to7”、それはエメの所属していた「閃光」内部の隠語だ。

 つまり、「閃光」の“1番目カシェ”から、“7番目エメ”への。


 シオンは蒼白になると紙を握り潰す。そして全速力で駆け出した。彼の隠した美しい宝石、黒曜の髪を持つ女サクラの元へと。




「サクラ!!」


 シオンが二階建ての宿、サクラが待っているはずの部屋の扉を開ける。

 そこに居たのは、神官の旅装である白いローブを纏った男だった。


「久しいな、エメ」


 ――“「閃光」のカシェ”、1の数字を持つ者。女神教の擁する暗殺諜報組織「閃光」の筆頭にして頭領。黒髪に紫水晶アメジストの瞳を持つ美貌の男は、希少な蜥蜴族の生き残りであり――――“エメ”のでもあった。



 そしてサクラは。

 衣服を引き裂かれてシオンの残した愛のあとを暴かれた上、金属糸で両腕を縛られて壁の外套掛けに吊られていた。頭上に縫い付けられた白い手首には太い銀糸が食い込んで痛々しく血が滲み、頭はだらりと俯いたまま反応がない。

 カシェはサクラの黒髪を乱暴に掴むと、顔を近付け笑った。



「流石の俺も、我が子の女を寝取るのは初めての経験だが――存外に興奮するな」



 次の瞬間、シオンは刺突剣レイピアを抜きカシェの心臓を貫かんと斬りかかった。しかし部屋中にまるで蜘蛛の巣のように金属糸が張り巡らされており、入り口から近付けない。


「クソッッ!!」

「フン、そんな長い得物では室内で有利に立ち回れないだろうに。暗殺者失格だぞ。俺の教えてやったナイフ術はどうした?」

「離れろ! サクラに触れるな!」


 シオンはひたすら刺突剣レイピアを振り、金属糸を一本一本斬り払ってゆく。


「クソッッ! クソォッ!!!!」

「ハハハ、血の気が多いな。……安心しろ、だ。まだ指二本だよ。散々抵抗していたが、くびを締めたら気をってしまった。おぼこいな。きゅうきゅう締め付けてなかなか具合が良さそうだったぞ? お前も試してみると良い」

「……殺す……! 殺してやる!!」

「こちらは別に殺しに来たわけじゃない。我が子の船出を祝福しようという親心だ。なんせお前は俺が大教導のたねを受け入れて、自らの腹を痛めた子なわけだからな」

「…………!」


 シオンの怒気が膨らみ、風のように金の髪を巻き上げたその時。


「シ、オ……。ダメよ、殺さないで……」


 サクラが頭を持ち上げ、掠れた声でシオンに呼び掛けた。


「ほう? 気付いたか。俺に手解きされた大抵の女は気が触れるんだが……。なかなかどうして、良く調教されてるじゃないか。まあ、この役立たずもとぎの仕事は卒なくこなしていたからな」

「シオンは……役立たずなんかじゃない」

「ふむ。なら教えてやろう」


 カシェは再びサクラの黒髪を掴んで頭を引き上げると、シオンと同じ紫の瞳で彼女を見た。


「このエメ……今はか。こいつは、現大教導の耄碌爺もうろくじじいが、俺に魔力の高い子供を生ませていずれは自分の地位を世襲させようと胤付けただ。……だが結果はどうだ? 俺が屈辱を受け入れて十月十日腹の中で飼ってやった末に生まれたこいつは、何の魔力も持たないただのだった。爺に似たのはその金の髪だけ」


 カシェはシオンを一瞥し、彼の波打つ金髪を視界に入れると憎々しげに目をぎらつかせた。


「シオンは……私の、大切なひとなの。お父さんかお母さんか知らないけど、シオンを悪く言う人は、私が許さない」

「なるほど。元聖女候補だけあってなかなか肝が据わっている。だが老いさらばえた老人と、雌雄同体のこの身体から作り出されたこいつは、最早人の道から外れた穢らわしい生き物だとは思わないか?」


 その言葉に、これまで気丈にカシェを睨み付けていたサクラは哀しそうに顔を歪めた。


「あなたは……。後悔してるのね? シオンを、愛される環境に生んであげられなかったこと」

「……。知ったような口を聞く」

「でも大丈夫よ。シオンは人を愛せるから。シオンは誰よりも優しくて、心のきれいな人だから」


 サクラの曇りのない瞳に真っ直ぐ射抜かれて、カシェは掴んでいた髪を乱暴に手離すと舌打ちした。


「……お前がこの女に惹かれる理由がわかったよ。お前は『閃光』の名を捨て、本物の光を手にしたわけだ」

「消してやる!!!!」

「おっと」


 ついに全ての金属糸を断ち斬ったシオンが、疾風の如くカシェに突っ込む。その鋭い刃を既の所で交わすと、カシェは部屋の奥の出窓の縁に飛び乗った。



「だが覚えておけ。俺の“糸”は世界中に張り巡らされている。例え新大陸と言えども、だ。……さて、お前は惚れた女を守りきれるかな? 今後一生、精々『閃光おれ』の影に怯えて生きれば良い」



 そう言って白いローブをはためかすと、彼は二階から真昼の路地裏に消えた。

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