if. アラスタールート「My fair lady」

 いつか、魔道研究員のユークレース・フラハティは言っていた。

 彼女の魔力、或いは体液の持つ癒しの力は、彼女の意思の力に依るものなのだと。彼女がこの世の全てを愛し慈しんでいるからこそ、その力はあらゆる傷を治す力としてあらわれる。

 だがもしこの先、彼女がこの世界を、誰かを殺したい程憎んだら。その力は反転し、彼女の魔力は恐ろしい毒となるかもしれないと彼は警鐘を鳴らしていた。

 彼はゆりの力が外に対し牙を剥くことを恐れていたが、そんなことは起こり得ないとアラスターは言い切った。ゆりは誰かを傷付けるような願いを持つ女性ではないと。

 だが――力の反転は起きてしまった。ゆりの内側で。

 彼女は恐らくこう望んだのだ。



 “私がこの世から消えてしまえば良い”と――。



 その願い通り、彼女の命は今にも消えかけていた。

 赤い血は大量に流れ出し、彼女の白い肌は血の気を失い一層白く、そのコントラストが不気味な程美しかった。彼女はまさに“眠り姫”の如く、静かにアラスターの腕の中でその命の火を絶やそうとしている。


「サクラ……サク、ラ」


 エメは、蒼白い顔を絶望に塗り替えられその場に崩れ落ちた。全身が震えている。それは哀しみか、それとも恐怖。或いは後悔。


 アラスターは右手でゆりの前髪を梳く。そして自らの服の合わせ目から内側の隠しを探ると、一本の小さな硝子瓶を取り出した。


 それは、以前ゆりが彼に与えた二本の神霊薬エリクサーのうちの一瓶だった。

ゆりの血から精製し、勇者ナオトの死の呪いを打ち破った生命の薬。彼はその薬を、“御守り代わりに”と言った彼女の言葉通り肌身離さず持ち歩いていた。


「ゆり。……サクラ。すまない。俺は、貴女の記憶を取り戻す方法に心当たりがあった。だが俺は、その可能性を隠蔽した。貴女を失いたくなくて――」


 意識のないゆりにそう小さく呟いたアラスターは、硝子瓶の蓋を口で抜くと横に吐き捨てる。そしてその中身を一気にあおるとゆりに口付けた。

 “死人すら生き返る”と主任魔道研究員に評された神秘の液体が流れ込み、ゆりがこくりと小さな喉を動かす。すると途端に二人は淡い輝きに包まれ始めた。



 “――ナオト、笑っていてね。

 あなたの全ての憂いを拭い、悲しみを取り払うから。

 あなたの幸せを願ってる。あなたの笑顔が、いつまでも続くように。”



 虹色に輝くその液体は、ゆりの生命、ゆりの想いそのものだ。ゆりが勇者ナオトを愛した記憶が、優しい魔力と共に体内に流れ込む。二人の身体の傷は瞬く間に塞がり始めたが、アラスターの心は今にも張り裂けそうな程痛んだ。



「ゆり。サクラ。貴女を愛してる。貴女が誰を想おうと、俺の心は貴女だけのものだ」



 アラスターは唇を離すと、既にほとんど傷の塞がった彼女の身体を強く抱き締めた。少しでも彼女の温もりを記憶し、己の想いの丈を彼女に刻むために。

 すると、彼の頬にそっと滑らかな手が触れた。



「……アラン、泣かないで……」

「…………! ゆり……?」



 それは眠りから目覚めたゆりの手だった。あれほど血を流した全身の傷は全て消え去り、頬には紅が差している。ゆりはアラスターの頬に伝った一筋の滴を拭うと、少しはにかんで笑った。


「うん。私はゆり……なんだけど。“サクラ”って呼んでくれた方が……しっくり来る、かな」

「記憶は、戻ったのか……??」

「うん。思い出したよ全部。でもなんか……。ものすごーく長い“ゆり”の日記を読まされた気分っていうのかな……? 思い出したんだけど、何だか実感が湧かないの。――ねえ、そんなことよりアラン」


 サクラは無垢な瞳をきらきらと輝かせると、アラスターの満月を覗き込んだ。


「今言ってくれたこと、もう一回言ってほしいの」

「……“貴女が誰を想おうと、俺の心は貴女だけのものだ”」

「違う、その前!」



「――――貴女を、愛してる」



 万感の想いの籠ったアラスターの言葉に、サクラはふわりと優しく微笑む。その表情に彼はかつてのゆりの面影を見、“ゆり”と“サクラ”は完全にひとつになったのだと理解した。


「……アラン、私も……! 私も、あなたが好き」

「サク、ラ……!」


 互いの存在を確かめるように頬に指が触れ合い、やがて唇が重なる。待ち望んだ歓喜の瞬間に心が震え、もう逃さないとばかりに強く、熱く閉じ込める。言葉よりも早く、抱き締めるよりも深く。これまで告げることのできなかった想いの全てを、二人は互いの唇で伝え合った。

 その背後で一人の人物が消え、ぱたりと静かに玄関の扉が閉まる音がした。



 そして。






 “――親愛なる義弟、レインウェル


 まず一言目に、貴方とエリノアの挙式に立ち会えなかったことを詫びたいと思う。

 俺は今、サクラ――ゆりのことだが、今は事情があってこう呼んでいる――と共にミストラルにいる。

 そして俺と彼女は、再来月にこの国で正式に婚姻する。恐らく、この国に永住することになるだろう。


 ……いや、元々は単に気ままな婚前旅行の観光と、フレデリク殿下に事の顛末の報告を兼ねて滞在するだけのつもりだったのだが――。


 俺達二人がこの国を訪れた時、丁度フレデリク殿下の元にカテドキアの第一王女殿下が輿入れするタイミングだった。俺とサクラは王族の方々とこの姫に拝謁する機会を賜り――姫が、サクラのことを大層気に入ってしまったのだ。

 姫殿下は豊かに波打つ栗色の髪にはしばみの瞳を持つ、ありふれた――いや、大変に親しみやすい容貌の御方だ。ミストラルでは海の恵みを表す銀髪碧眼が最も尊ばれる故、姫殿下はご自身の容姿がミストラル王家に相応しくないのではと嘆いておられたらしい。

 だがサクラが……姫殿下に謁見した時、こう言ったんだ。



 “アラン、見て!お姫様の瞳はまるで秋の陽だまりみたい!髪もならの落ち葉の絨毯のようよ。なんて綺麗なの!”


 “海の瞳の王子様と大地の瞳のお姫様が結婚するなんて、おとぎ話みたい。とっても素敵ね!” ……と。



 聞き様によっては大袈裟な御機嫌取りの台詞だったのだろうが、サクラの純真な言葉は王族の方々の心を打ったらしい。特に姫殿下はサクラを気に入って、滞在中一時も御側から離そうとしなかった。

 そしていつの間にか王妃殿下やこの国の社交界の重鎮とも言うべき女性方までもが、皆サクラの信奉者のようになってしまった。

 どうしてもこの国に留まってほしいと涙ながらに懇願され、ついには俺に爵位と、サクラには王家ゆかりの者だけに許される「エイラル」の姓を与え、王子と姫の結婚と合同で挙式しろと迫ってきた。


 正直余りに過分な話で悩んだのだが……これも女神の導きなのだろう。俺とサクラはこの話を受けることにした。

 今では姫殿下はサクラとウエディングドレスを揃いにするのだと張り切って、相変わらず朝から晩まで連れ回している。これでは俺より姫の方がサクラと過ごす時間が長いのではないかと、俺は毎日気が気ではない。


 ――だがきっと、純白のドレスを纏うサクラはこの世で一番美しいに違いない。そして俺はその夫だ。これ以上を求めては罰が当たるというものだろう。

 そもそもサクラは見た目だけでなく心根も美しい。この間など、



「ハァ……」



 延々と続く惚気に、レインウェルは一度手紙を置くと目頭を揉みながら嘆息した。

 半年程前に「挙式には参列できそうにない、すまない」とだけ書かれた短い手紙が届いた時は、義兄アラスターは想いを遂げられずに傷心の旅に出てしまったのだと思い込んでいたのだが。どうやらそれは誤りだったらしいとレインウェルは苦笑した。


「構いませんよ。貴方が幸せならば」


 レインウェルは窓の外を見遣ると、遥か遠くの地にいる友を祝福した。





 こうして、アラスター・ウォレム・アーチボルトと、ゆり改め……ゆり=サクラ・ヤナカ・エイラル・アーチボルトは、アラスターがモルリッツを発ってから約一年の後、ミストラルの地で正式に結ばれた。


 アラスターはこの国で“騎士ナイト”の受勲をし、後に永代爵位を賜った。そしてミストラルの国境警備、近衛などを統べる筆頭騎士となる。救国の英雄と謳われる彼の配下には、いつからか金髪の凄腕刺突剣レイピア使いが加わっていた。


 その傍らでいつも無垢な笑みを湛えるゆり=サクラ夫人は、人を虜にする不思議な魅力で社交界の華、サロンの主となっていた。彼女が「暑いから」と、これまで長いのが常識とされていた髪を肩口まで切れば国の女性はこぞってそれに習い、「大人っぽくてかっこ良いから」という理由でタブーとされていた黒いドレスを纏えば、その年の社交シーズンは黒が大流行した。

 しかし彼女は気取った所がなくあくまで自然体で、夫であるアーチボルト卿との仲睦まじさは周囲が気恥ずかしくなる程なのだとか。



「アラン」

「どうしたんだい、我が妻よ」

「……キス、して」

「なんと可愛らしい願いだろう。


 ――ああYes,。全霊で叶えるよ、俺のmy愛しいfairお姫様lady.



 夜のテラスで、二つの影が重なる。

 空に浮かぶ満月と、満天の星たちがそれを見守っていた。




【アラスタールート完】

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