第百七話 ここに在るもの
「……!?」
ゆりが目を開けると、そこは病室だった。
左手首に点滴が繋がれていて、吊り下げられたビニルからひたひたと滴の落ちる音だけが聞こえる。
慌てて起き上がり枕元を見ると、ヘッドボードには“矢仲ゆり様”と日本語で書かれていた。どうやら個室らしいその部屋から窓の外を見ると、そこは広い駐車場で、眼下のロータリーは中心に欅の大木が鎮座している。その樹を見て、ゆりは漸くここが何処なのかを理解した。
そこはゆりの勤務先の幼稚園から一番近くにある、救急総合病院だった。
戻ってきてしまった。いやむしろ、これまでが夢だったのか。
現状を受け止めきれないゆりが震える手で髪を掻き上げると、ふと、左手の甲に何かが触れた。ハッとして耳元に指をやると、左の耳朶にはつるりとした何かが填まっている。
それは、
――夢じゃ、無かった。
ナオトのくれたその熱と痛みだけが、あの世界での日々が夢でも妄想の類いでもないと告げていた。
しかし、あの世界に帰る方法はわからない。もしかしたら、もう二度と戻れないかもしれない――。
ゆりはそこまで考えて絶望すると同時に、いつの間にか
“ゆり! 大丈夫……何処にいても、何度でも、何度でも見つけるから、だからっっ――――!”
あの世界から消える直前、ナオトが叫んだ最後の言葉が甦る。
その言葉を信じたい。信じたいがしかし……ゆりはその願いを叶える方法を知らなかった。
ガチャリ
突然ノックもなくドアノブが回る音がして、ゆりが個室の入り口を見る。
「……!」
久しぶりに見るその顔に、ゆりは声が出なかった。そこにいたのは、黒髪をきちりと隙なく纏め上げたゆりの母親・容子だった。
「ゆり、あなた……!」
ゆりが意識を取り戻していることに気付いた容子は、ずかずかと歩み寄ると怒りの形相でベッドのゆりを見下ろした。
「一体、どういうことなの……!? 突然幼稚園からあなたが倒れたって連絡されて、職場を早退して来たのよ」
「どうせ、独り暮らしでロクなものを食べてなかったんでしょう。救急車で運ばれてMRIまで撮ったのに、ただの貧血ですってお医者様に言われて、ママがどれだけ恥ずかしかったことか……!」
「勤務先にまで迷惑かけて、本当に恥ずかしい! ――だから言ったのよ、あなたにあの仕事は無理だって。母親の言うこともロクに聞けない子供に、他人の子供なんて見れっこないわ。そもそもちゃんとした大学に行っていれば今頃……」
怒濤の口撃に、ゆりは委縮して固まった。
どうやら自分は倒れて運ばれたらしい。向こうの世界では一年近い時を過ごしたが、こちらでは自分が倒れてからそれほど時間が経っていないようだった。
母・容子が自分の体調を案じるような言葉を一言もかけてこないのはいつものことなのだが、久しぶりに目の当たりにするとやはり堪える。
いつかわかってほしい。いつかわかってくれるはず――。
そうやってこれまで何度期待して、何度裏切られたことだろう。もう二度と、この
「……ゆり? あなた、ピアスをしているの?」
「えっ」
どうやら無意識のうちに、左耳に触れていたらしい。どう見ても短大卒の小娘が身に付けるには不似合いなその美しい宝石に、容子の顔はみるみる曇った。
「信じられない!! 親からもらった身体に穴を開けて! それにそんな宝石……あなたのお給料で買えるようなものじゃないでしょう!? 一体どういうことなのか説明なさい!!」
かつてゆりを何度も無力感の底に突き落としたその言葉に、彼女の中の小さな
“説明なさい!”
それは、これまでの人生で何度も母から言われた言葉だった。容子は少しでもゆりが自分の意に沿わない行動を取った時、必ずこの台詞を口にする。だがゆりがどんなに言葉を尽くして説明しても――彼女がゆりの主張を受け入れたことは一度としてなかった。それでも容子は、自身が子供の意見を聞く寛容な母親だと疑いもなく信じているのだ。
「ママ、あのね。これは……大切なひとにもらったものなの」
漸く絞り出した小さな反論。しかし容子はその何倍ものプレッシャーで、縮こまるゆりに言葉の矢を浴びせかけた。
「男にもらったって言うの……!? 男に媚を売ってものをねだるような、そんな下品な娘に育てた覚えはないわ! 早く外しなさい!」
「……い、嫌」
ゆりが震える声で再度反発すると、容子は驚いたように一瞬言葉を引っ込める。ゆりはいつの間にか着せられていたらしい入院着の白い裾をぎゅっと掴むと、挑むように容子を見た。
「ママ、私はもう子供じゃないし、あなたの所有物でもない。自分のことは、自分で決められる」
これまでの人生で母と真っ向から対立したのは、後にも先にも短大に進学することを決めた時だけだった。その後も彼女の過干渉にうんざりしながらも、できるだけ黙ってやり過ごすことで心の平穏を保っていたのである。
しかしゆりの反論は、容子の怒りを煽っただけだった。
「ママはあなたのことを思って言ってるのよ! あなたが失敗して世間から笑われたりしないように、いつも一番良い方法を……」
「なんで、失敗したらいけないの!?」
思わず出た叫びは、半分涙声だった。
「私は自分で決めた。自分で選んだ! 世界でたった一人の、大切なひとのことを。未来がどうなるかなんてわからない。それでも、私は私の決断を祝福したい!!」
祝ってなんて贅沢なことは言わない。だけどただ、足を引っ張らずに黙って見守ってほしかった。
子供にとって、母親は唯一で絶対の存在だ。ゆりにとっての容子は、湖に自分を沈めた鎖よりもずっとずっと重い枷となって心を縛り続けていた。
「一丁前に全てを知ったような口を聞いて……! 母親に向かって生意気言うんじゃありません!!」
容子が手を振り上げる。
叩かれるのだと思い、ゆりが思わずぎゅっと目を瞑ったその時。
コンコンコン
個室のドアをノックする音が聞こえ、同時にガチャリとノブが回った。
「おーいゆり~、いる?」
「…………、ナオト!?」
部屋を覆っていた緊張感をぶち壊す声と共にドアの向こうに現れたのは、猫耳を黒いキャップに捩じ込んだナオトだった。何故かパーカーにジーンズと、出で立ちまで日本風である。
「え……? ナオト、どうやって、え、……え??」
突然のモデルのような赤髪男の登場に、ゆりだけでなく容子もぽかんとして固まった。ナオトは困惑するゆりの言葉に、いつものようににやりと不敵に笑う。
「必ず見つけるって言ったでしょ。……つか、あ"~! このカッコ、ケツがむずむずする……!」
どうやらナオトの斑の尾はジーンズにしまい込まれているらしい。世間が見惚れる容姿を台無しにするようながに股で、ナオトは情けない声を上げた。
「ゆり……早く帰ろ。オレ達の
「…………! ナオト……!」
ゆりが一番欲しかった言葉を、ナオトは言ってくれた。その喜びにゆりはベッドの布団をはね除けると、左手首の点滴針を力任せに引っこ抜く。そして裸足のままナオトに駆け寄ると、首根っこに抱きついた。ナオトが飛び込んできた身体をふわりと抱き留めると、被っていたキャップから猫耳が顔を出しかけたので慌てて被り直す。
その様子を魂が抜けたようにぼうっと見ていた容子は、漸く自分を取り戻したのか震える声で問い掛けた。
「……ゆり……? だ、誰なの、その男は」
「ゆり、このオバサン誰??」
「……私の、母よ」
「へぇ」
ナオトは呆けている容子と腕の中のゆりを交互に見比べると、あんまり似てないねと呟いた。
「あー……。でもこういう時って挨拶いるのかな?」
ナオトはポリポリと頭を掻くと、もう一度顔だけ容子の方へ向ける。
「えーとオバ……じゃなかったオカーサマ。突然だけどゆりはもらってくんで、ヨロシク」
「……は?」
「ほら、ゆり。耳を出して」
ナオトは容子を一瞥して気のない挨拶をすると、すぐにゆりに向き直りその黒髪を梳いた。右耳に髪を掛けられてゆりがくすぐったそうに肩を竦めて笑うと、ナオトはシャツの胸元から小さな皮袋を取り出す。手の平の上で逆さにして振ると、中からきらりと輝く塊が零れ出た。
それは、ゆりがナオト達の世界――モルリッツの北の湖で失くしてしまったはずの、
ゆりが驚いて目を見開くと、ナオトは優しく微笑んだ。
「これが、オレをここに導いてくれた。
――――ねえ、ゆり。本当に本当に今度こそ、離さないから。だから……」
そう言ってナオトは、少し屈んでゆりの頬に顔を寄せる。それはまるで、誓いのキスのためのワンシーンのようで。ゆりが無言で目を瞑り受け入れると、露わになった耳元に優しい声が降ってきた。
“オレのものになって。”
次の瞬間、無防備な右耳をナオトが食み、熱い痛みが突き抜けた。ゆりが思わず身を捩ると、ナオトは優しい圧力で血を舐め取ってピアスを嵌め込む。破瓜の如き切ない痺れがじんわりと広がると、何故か唐突に自分はこの人のものになったんだという実感が湧いて、ゆりの目からは一筋の涙が零れ落ちた。
「ナオト……もう絶対、離さないでね……」
「ん。オレの愛は重いよ? 覚悟しといてね」
ゆりの両耳で輝く一対のピアスのように。
離ればなれになっていた二人は互いの存在を確認すべくしっかりと抱き合った。すると、まるでその前途を祝福するかのように二人の全身がきらきらと輝き出す。
「ちょっと……ちょっと、どういうことなの!? ゆり、説明し」
「ママ」
光に包まれ、次第に淡くなってゆく二人。容子が狼狽えた様子で叫ぶと、ゆりはナオトにしがみついたままきっぱりと……だがどこか優しい調子で語りかけた。
「最後まで言うことを聞かない娘でごめんね。――あのねママ……。私……ママを許すから。だからママも……自分を、許してあげてね」
――さようなら。
容子がその言葉の意味を聞き返すよりも早く。二人は光となり、部屋中を埋め尽くしたかと思うと弾けて消えた。
窓の外で一際大きな風が吹き、ロータリーの欅がざわりと揺れていた。
――――り。……ゆり。
「…………」
遥か彼方から自分を呼ぶ声が聞こえて、ゆりは目覚める。
そこは緑に覆われた森の中で、自分は大木に背を預けて立っている。顔を上げると、目の前には黄金の瞳があった。
風がさわさわと、優しい葉擦れの音を響かせる。そこは間違いなく、ゆりが魔物に襲われ、消えてしまったあの森だった。
「……え……??」
ナオトはいつも通り革製の半鎧を身に付けていて、赤銅色の髪は木漏れ日を反射して輝いていた。ゆりが困惑しながら辺りを見回そうとすると、ナオトが駄目だよ、とばかりに鼻を摘まんで正面を向かせる。
「何、今のは……夢……?」
黄金の瞳の中に囚われたままゆりが呟くと、天を背に陰を作りこちらを見下ろすその端正な顔は、静かに目を細めた。
「……そうだよ、全部夢。――ほら、ゆり。オレを見て。オレに触れて。ここに在るものが、オレだけが、真実だから」
「ナオト……」
ゆりが恐る恐るその顔に触れる。……温かい。
目の前の愛しい存在が夢でも幻でもないとわかると、ゆりの心に安堵と歓喜が溢れた。
ゆりが泣きそうな顔をくしゃりと歪めて笑う。するとナオトは突然、自分の頬に触れていたゆりの右手を大木に押し付けるとその柔らかい唇にかぶり付いた。
「ゆり……ゆり!」
それまでの穏やかな態度が嘘のような性急さだった。ナオトは黒髪に指を掻き入れると、何度も角度を変え、獣のようにその唇を貪った。舌が口の内側の粘膜を舐り、じゅるりと唾液を啜る。いつの間にかゆりの脚の間には膝が割り入れられ、爪先は殆ど地面から浮いてしまっていた。ゆりの小さな身体はただただ与えられる悦びの奔流を逃すように、力んでピンと伸びていた。
「ふ、ナオ、ト……」
唇と唇が触れ合えば、思考は溶け、本能の海に溺れてゆく。湿った吐息が顔にかかり、体内の熱と同化する。これまで感じたことがない程、全身が熱い。
「ナオ、ト……待ってた……ナオト……!」
「ゆり……探してた。ずっと、ずっと……!」
口付けの合間に吐息と共に漏れ出す、途切れ途切れの会話。
やがて散々に喰らい付いた勢いそのままに、ナオトの唇は大木に押し付けたゆりの首筋を這う。外気に晒されたその素肌は、既に上気して赤みを帯びていた。
「はぁ、はぁ、ゆり、ゆり……!」
再会を喜ぶ言葉も、愛を確かめる言葉もそれ以上いらなかった。今ここで、互いを求める想いだけが全て。時折相手の名を呼ぶ消え入りそうな声だけが、溢れる愛しさを滲ませていた。
もう、この世に二人を隔てるものは何もない。運命も、悪意も、自分自身すら、二人を別つことはできない。
「ナオト、ナオト……!」
二度と離れることのないように。ゆりは己の胸元に埋もれる赤銅色の髪を抱き込んだ。
そうして、長い長い時を経て漸く。
二人の身体と心は交ざり合い、溶け合って、ひとつになった。
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ここまでお読み下さりありがとうございます。
ここで一旦、ナオトとゆりのお話はおしまいです。次話からは“if.ルート”と称しまして、アラスターとエメがゆりと結ばれるまでの“もしも”のお話を掲載します。
if.ルートの導入に一話、その後分岐するアラスター編、エメ編ともに各二話です。if.ルートは第百三話でアラスターがフレデリク王子の伝言を受け取るところから始まります。
if.ルート掲載後にナオトとゆりのその後を描き、最終話の「エピローグ」をもって当作品は完結となります。今しばらくお付き合いいただければ幸いです。
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