第百六話 何処にいても、何度でも

 ゆりが森へ消え、魔力の渦に揺らされた木葉が舞う。土埃が地に落ちて、周囲には彼女の甘い残り香だけが充満していた。ナオトは久々に嗅いだ獣の本能を呼び覚ますその香りに、ぶるりと全身を震わせる。


「いってー……今の、ゆりの魔力か……?」


 身体を起こして立ち上がろうとすると、同じく頭を振って上体を起こすエメが背中に声を掛けた。


「おい」

「あんだよ……まだやんの?」

「……さっさと、のところに、行け」

「え」


 つい先程「オレの女」と主張して斬りかかってきた男の言葉とは思えず、ナオトが驚いてエメを見る。エメは顔を背けると、ぼそりとあさっての方向へ言葉を吐き出した。


「この森には、魔物がいる。ユリがあんな香りを撒き散らして、森に入ったら……。森中の魔物が、寄ってくる」


 ナオトは困惑しつつもああ、と素直に頷くと、すぐに体勢を整える。そしてそのまま森へ駆け出そうとして……一度だけ、エメに振り返った。


「――なあ、エメ。……ゆりを救ってくれて、ありがとな」

「…………」


 その言葉にエメは応えない。ただナオトが森の中へ消えてゆくのを見送ると、拳を握った。



 ナオトのたったひとつの行動が、ゆりの魔力を、記憶を一斉に目覚める瞬間を見せ付けられ、エメは自身の敗北を認めざるを得なかった。これまで自分は“サクラ”を愛で、精一杯慈しんだ。二人の間には確かな絆があった。彼の腕に無邪気にくるまり、無垢な笑顔を見せる“サクラ”は、間違いなくこれまでエメが渇望し続けたゆりその人だった。


 だがそれは――ゆりのではなかった。



 エメは立ち上がり天を仰ぐと、一言だけ虚空に呟いた。


「さようなら。……サクラ」





 一方、ゆりは。

 割れそうになる頭を抑え、何かを振り切るようにがむしゃらに鬱蒼とした森を駆けていた。


 頭が痛い。呼吸が苦しい。とてつもない質量を持った何かに押し潰されそうになる恐怖から、ゆりはただ必死に逃れようといていた。


「あっ!」


 突然、ほとんど何も見ないまま走り続けたゆりは固い木の根に足を取られて転んだ。受け身も取れずに地に倒れたゆりは土を掴む。顔を上げようと頭を持ち上げると、ぽつりと押し込めていたはずの感情が零れ出た。



「ナオト、ど、して……助けてくれなかったの……?」



 全てを思い出したゆりの心を塗り潰したのは、暗い水の底に沈められた恐怖と苦痛の記憶だった。

 湖で小舟に乗せられたあの時、ゆりは最期にナオトに“大丈夫”という言葉を残した。それはゆりの優しさであり、同時に彼女なりのささやかな抵抗でもあったのだ。

 必死の形相で自分の名前を呼ぶナオトを、少しでも慰めたかった。自分が死ぬことで彼に傷付いて欲しくなかったし、神官長達の言いなりになって欲しくなかった。その気持ちに偽りは無く、全ては紛れもない本心だった。


 ――でも、心の奥で。


 怖かった。苦しかった。そして何より、孤独の内に死にゆくことが恐ろしかった。助けて欲しかった。沈みゆく手を引き上げて、抱き締めて欲しかった。



 “大丈夫”と言って欲しかったのは、自分の方だった――。



 まるで子供の駄々みたいで馬鹿みたいだ、と頭の片隅で思いながら、ゆりはずきずきと痛むこめかみを抑えなんとか身体を起こす。浅い呼吸を繰り返し、漸く片膝を立てたその時。


 ざわり。


 突然、森が動いた。ゆりがハッとして周囲を見渡すと、辺りの木々に這う蔦がまるで蛇のように妖しくうごめいた。


「っっ!?」


 驚きの叫びをあげるより早く、蔦は一斉にゆりに襲いかかり、四肢に巻き付いた。かと思うとゆりの身体はあっという間に持ち上げられて宙に浮く。


「い、いやっ!? いやあっ!」


 ゆりが絡め取られた蔦の始点、生い茂った木立の合間でぬらりと巨大な影が動いた。毒々しい深紅の花弁の中心に覗く牙と口。ケタケタと奇妙な高音が巨体から漏れ出ると、周囲に怪しげな霧が立ち込めた。

 それは意思持ち徘徊する巨大な肉食花、食人植物マンイーターの放つ芳香だった。その香りは人に幻覚作用、催淫作用をもたらし、罠にかかった者を食らう。一度捕まってしまえば抵抗するのは困難で、暖かい地方の森では冒険者から最も恐れられる種の魔物だった。


 四肢をぎりぎりと締め上げられ、動かすことすらままならない。ゆりが必死に頭を動かして抵抗すると、別の蔦がしゅるりと首筋を這った。


「あ"ッッ!」


 蔦は白い首筋に巻き付いて食い込み、首が締め付けられた。じわじわと酸素の供給を絶たれた脳は幻覚作用のある芳香と交ざり合い、ゆりを意識を湖の底へと沈めてゆく。



 冷たい群青。泡となって無慈悲に立ち上る肺の空気。身体の抵抗を奪い、重くのし掛かる無音の水圧。

 それは、あの日極限の恐怖と苦痛から全てを手放した死の追体験だった。ゆりの目から涙が一筋零れ出し、彼女はただ、意識の片隅で一心に唱え続けた。



 ――やだ。怖い。怖いの。助けて。誰か。助けて、ナオト――――!



「ゆり!!」



 ゆりが心の中でその名を呼んだ時、突然幻覚の闇は切り裂かれ、白金の一閃と共に身体は解放された。全身の拘束が解け宙へ投げ出されるかと思った刹那、ふわりと優しい風が吹き、ゆりは温もりに包まれる。


「ナオ、ト……!」


 夕焼けより紅い赤銅色の髪。太陽より眩しい黄金色の瞳。それはゆりが待ち望み、死の淵に消え行く意識の中でその名を呼び続けた最愛の人だった。


「……ごめん。遅れた」


 謝罪の言葉に、ゆりはううん、ううんと力一杯首を振る。


 来てくれた。今度こそ本当に、ナオトは来てくれた。

 閉じ込められていた歓喜が爆発し、ゆりは安堵に満たされる。胸が詰まり、締め付けられた喉は上手く声を絞り出せない。押し寄せる感情は言葉の代わりに涙となって溢れ出た。


「ああ、こんな匂いをダブルで嗅がされてオレ腰が砕けそう……」


 ナオトはゆりの頭をぎゅっと抱くとそのまま地に降り立つ。周囲にはゆりの魔力の香りと食人植物マンイーターの放つ催淫の香りが溢れ、ナオトの敏感すぎる嗅覚を刺激する。思わず情けない声を出すと、その隙を逃さず食人植物マンイーターの触手が一斉に地を這い襲いかかった。しかしナオトは右手に持った神剣でその全てを力強くなぎ払うと、ゆりを片手で抱いたまま高く跳躍する。


「オレらの再会を……邪魔すんなっつうの!!」


 神剣オスティウスが木漏れ日を反射して輝く。ナオトは一跳びで食人植物マンイーターの頭上まで到達すると、振り落とした一太刀が閃光となり大木ほどある魔物を一撃で両断した。


 ドォォォン!と大きな地響きを残し、魔物の残骸は崩れ落ちる。

 静かに着地したナオトは剣を鞘に収めると、油断なく周囲に目を光らせた。周囲に他の生き物の気配が無いのを確認すると、素早く腕の中のゆりの上体を抱き起こす。



「ゆり! 苦しくない? 大丈夫?」


 ナオトはゆりの顔を覗き込むと、首筋に残った赤い締め痕を撫でた。

 しかし、ゆりは答えない。


「……ゆり?」

「ナオ、ト……、あたま、痛い……割れそ……」


 見ればゆりは、沈痛な面持ちでこめかみを抑えている。


「頭打った?それとも、食人植物アレの匂い嗅ぎすぎた?? ……ごめん、オレが、」


 ゆりは顔を歪め首を振る。ナオトがそわそわと全身を点検し始めると、急にゆりの小さな身体が淡く輝き出した。



 “本当にあなたって子は、何度親を失望させれば気が済むの?”


 “早く戻ってらっしゃい。独身の娘が独り暮らしだなんて、外聞が悪いったらないんだから”


 “ママはこんなに苦しんでいるのに、あなただけが自由なんておかしいわ。ママが一体、今までどんなに……”



「……!?」


 突然ゆりの脳内に響き渡ったのは、忘れもしない声だった。

 ゆりがハッとして目を見開くと、こめかみを抑えていた指先が、きらきらと光りながら宙に溶け、。急に視界が捻れて歪み、下へ下へと引きずり込むように身体が重力に引かれる。


 ゆりはこの感覚に、覚えがあった。



「や、やだ、ナオト、私、帰りたくない……!」

「ゆり!?」


 ゆりは恐怖にガタガタと震えていた。

 視界が歪み、地の底へと墜ちてゆくこの感覚。それは、ゆりがだった。

 ゆりは既に無くなってしまったその手で、必死にナオトにしがみつこうとした。しかしその合間にも、腕が、脚が、光になり、次第に透けて消えてゆく。


「助けて、ナオト、離さないで、側にいさせて、お願い……!」


 ナオトはひたすら頷くと、ゆりの腕だったはずの空を掴んだ。


「ゆり! 大丈夫……何処にいても、何度でも、何度でも見つけるから、だからっっ――――!」



 “待っていて。”



 ナオトが全てを伝えきる前に、腕の中のゆりは光と共に風に溶け、忽然と消えてしまった。




 そして。


 ゆりが次に目覚めたのは、点滴のビニルが吊り下がる、無機質な病室だった。

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