第百五話 帰ってきて
「……ゆり?」
間違いなかった。
この数ヶ月、
だがそれでも、間違いなく目の前の女性はゆりだった。
最後に会ったのは、モルリッツの北の湖にて。月と松明の灯りだけが照らす暗い森で、ナオトは結界に捕らえられ、ゆりは湖畔の桟橋に立っていた。
ちょうどあの時と同じくらいの距離を保ったまま、二人は暫し無言で見つめ合う。するとナオトの背を押すように、再び強く風が吹いた。
「ゆり……!」
全てを受け止めるように、万感の想いで。一歩踏み出したナオトは両腕を広げる。
すると、ゆりは。
無言で背を向けると、ナオトとは反対方向へ走り去っていった。
「……あれ?」
胸に飛び込んでくる彼女を抱き締めるつもりだった両腕がやり場なく広げられたまま、ナオトは固まった。やがて辺りをキョロキョロと見回しながら腕を下ろすと、やや気まずそうに頭を掻く。
「おっかしいな……感動の再会じゃ……」
そこまで言いかけて、彼はジュナハの冒険者ギルドで受け取った評議会からの緊急メッセージの内容を思い出す。
“☆月◎日、カテドキア最北部、サントアイレの町にて矢仲ゆりを確認。健康状態は良好、但し記憶喪失の可能性あり”
記憶喪失。このメッセージを受け取った時にはまさかと半信半疑だったが、今のゆりの様子は明らかにおかしかった。
ゆりは湖に沈められ、生死の淵をさまよっただろう。極限の苦痛と恐怖の中で、自分を守るために全て手放してしまったとして――それを責める気など、起ころうはずもなかった。
「……オレのせいだよな」
沸き起こるのはただ、彼女を救えなかった自身への歯痒さだけ。
ナオトは懐の皮袋を服の上からぎゅっと掴むと、ゆっくりとゆりの消えた方向へと歩み出した。
ゆりが逃げ込んだ緩やかな坂の頂、丘の上には、漁港を見下ろすように小さな白壁の家が建っている。ナオトが家の正面まで回り込もうとしたところで、締め切られていた木製の扉が開き、中からゆりが出てきた。ゆりは後ろ手で扉を閉めると、そのまま玄関に背を預け何かを考えるように地面を見ている。
「ゆり」
三度目のナオトの問い掛けに、ゆりは弾かれたように顔を上げた。
ナオトは立ち止まり、ゆりの出方を待つ。するとゆりは無言でひとつ頷くと、小走りでナオトの元へ駆け寄ってきた。
「……あの……」
「なーに」
ナオトの目前まで寄ってきたゆりは、胸の前で握り込んだ両手をもじもじとさせながら何か言葉を絞り出そうとしていた。まるで初対面の人に相対しているかのような、ぎこちない態度。ナオトはそれに怒ることも失望することもせず、ただゆらりと静かに尾を動かしてゆりの次の言葉を待った。
やがてゆりは、意を決したかのように真っ直ぐナオトを見上げる。ずっと捜していたその顔、その姿を間近にして、ナオトはそのまま腕に閉じ込めたくなる衝動を必死に堪え、ただ優しく微笑んだ。
「……あの。あなたは、この宝石の人……?」
そう言っておずおずと開いた手に握られていたのは、
「そうだよ。なんでわかったの?」
「え……? だって……」
「サクラ!!」
びく!
突然家の中から聞こえた声に、ゆりが肩を強張らせる。玄関に立っていたのは、剣呑な表情で剣を携える美しい男だった。ナオトはその金髪の男が自分の記憶の中にある白いフードの暗殺者――「閃光」のエメその人だと認識するのに暫しの時間を要した。
「シオン……」
「サクラ。こっちに、来い」
「えっ、……でも」
「いいから、来い!」
エメは叫ぶと、左手に持った
「サクラ?……そっか。今はサクラって言うんだ?」
しかしナオトはエメの殺気立った様子を気にかける風もなく、ゆりの顔の横に手を差し入れ、黒髪を耳に掛ける。すると怯えていたはずのゆりは露になった耳を真っ赤にさせて俯いてしまった。
「サクラに、触れるな」
「……エメ。わかってる。あんたがゆりを湖の底から救ってくれたことは」
「オレの、女だ」
「そうだな。“サクラ”は――あんたのもの、なんだろうな」
「…………!」
ナオトのそのあまりに余裕ある言動が、エメの心を逆撫でた。エメの伸びかけの金髪が怒気でぶわりと逆立ったかと思うと次の刹那、彼はまさに「閃光」の如き速さでナオトに迫り
ナオトは固まっているゆりを自身から引き離すと、エメの鋭い一撃をほんの少しだけ身を
「クソッ!」
「……やめとけよ」
一撃確殺を誇りとしてきた己の刃を軽くあしらわれ、珍しく苛立つエメをナオトは冷静に嗜めた。
「今のあんたじゃ、オレは殺せない」
「馬鹿に、するな……!」
憐れむかのようなナオトの言葉を振り払い、エメは再度ナオトの心臓を貫かんと風を斬った。だが。
「シオン! やめて!!」
「――っ!!」
突然二人の間にゆりが割り込んだ。勢いを殺せずそのままゆりに突き刺さりそうになった
「違う。あんたが弱いって言ってるんじゃない。……あんたがゆりの前で、オレを殺せるわけがないんだ」
その言葉にハッとしたエメの元へ、ナオトの腕の中から抜け出しゆりが駆け寄った。
「シオン、だめ。人を殺さないで。お願い」
「サクラ……」
ゆりはエメの頬に手を添えてその顔を覗き込む。諭されたエメがしゅんと眉根を下げるのを見てナオトが驚いていると、ゆりはくるりとナオトの方へ振り返った。
「あなた、誰なの? シオンを傷付けるつもりなら、私、許さない」
精一杯の怖い顔なのだろう。頬を膨らませたゆりに詰め寄られてナオトがたじろぐと、ゆりはでも、と続けた。
「でも、今は私を助けてくれたんでしょう? ありがとう。怪我は、してない……?」
その言葉にナオトは一瞬目を丸くして……次に、耳をふにゃりと弛緩させるとうれしそうに微笑んだ。
「……なんだ。やっぱり、きみはゆりだ」
ゆりは何も変わっていなかった。弱いものに手を差し伸べ、強きに屈せず、そして万人に優しい。ナオトは沸き上がる喜びに目を細めると、しかしできるだけ落ち着いたトーンで彼女に語りかけた。
「ねえ、えと……サクラ。その宝石を貸して」
「サクラ、……やめろ」
ナオトの囁きに素直に従いかけたゆりを、エメが掠れた声で引き留める。しかしゆりは首を振った。
「シオン、大丈夫。この人は怖い人じゃないよ」
そうじゃないんだ、とエメは唇を噛んだ。だがそんな彼の想いは届くことなく、ゆりはエメに背を向けナオトへ向き直る。そしてそっと手の中の
ナオトは小さな手の平からピアスを受け取ると、先程と同じようにゆりの髪を梳き左耳を露出させる。ゆりが恥じらって固まると、その耳元に唇を寄せ囁いた。
「ゆり、帰ってきて。――二度と、離さないから」
そう言うと――ナオトは突然、ゆりの耳朶に噛み付いた。
「や、ぁっ!?」
ナオトの犬歯が薄い肉を穿ち、既に塞がってしまっていたその場所を再び抉じ開ける。熱い吐息と共に与えられるその痛みに、ゆりは思わず身を捩った。しかしナオトは彼女を逃さなかった。ゆりの顎を押さえ付けると、やや強引に自らの牙で開けたその穴にピアスの針を押し込んだ。
その瞬間、金属のひやりとした質感と共にゆりの全身を甘い疼きが突き抜けた。
「あっ……!」
“ゆりは今日、他の誰のお姫様にもなっちゃダメ”
“ねえゆり、オレはゆりが好き”
“ゆり、ゆり……。大好きだよ。ゆりだけなんだ。ゆりしかいらない。ゆりの全部が欲しい”
――私は、この痛みを知っている。全身を切なく焦がす、この痛みを知っている――!
ゆりの脳に優しく愛を告げる男の声が響き、それに応えるように閉じ込められていた感情達が溢れ出す。そして、次の瞬間。
ゆりの周囲にとてつもない質量の風が巻き起こり、膨張してナオトを、エメを吹き飛ばした。
「!!!!」
予想外の衝撃に、受け身も取れずに地に叩きつけられる男二人。慌ててゆりの方を見ると、彼女は逆巻く大気の渦に捕らえられ呆然と立ち竦んでいた。周囲にはまるで花嵐の後のように、むせかえる程の甘美な香りが満ちた。
ゆりは全てを思い出した。その瞬間、それまで体内に眠っていた彼女の魔力が一斉に目覚め、物質に干渉するほどのエネルギーとなって爆発したのだった。
「あ……ナオト……エ、メ……」
幼い頃のゆりの記憶。大人になってからのゆりの記憶。この世界にやって来てからの記憶。そして、“サクラ”として過ごした記憶。膨大な情報が怒濤のように押し寄せ、ゆりは破裂しそうになる頭を抑えた。
「あ……う…………!」
「ゆり!」
必死に自分を呼ぶ悲痛な声。もがいても逃れられない闇の底。胃と肺を侵す大量の水、水、水。
「やだ……やだ……たすけてっ、やめてぇぇぇえええ!!!!」
混乱したゆりは、痛みを振り切るように叫ぶと巨大な魔力の渦を纏わせたまま森へと逃げ出した。
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