第百四話 会いたい
――ゆりの様子がおかしい。
花畑に倒れていたゆりを見つけ出し、無事を確認して一旦は安堵したエメ。しかしその後の彼はすぐ、言い様のない不安に包まれていた。
ゆりはあれほど町へ下りたがっていたのに、翌日エメと一緒に約束の買い物へ行くのを嫌がり、結局その日は一歩も家の外へ出なかった。明らかに食事の量か減り、何かを考えるように日がな一日ぼうっと過ごしている。
そんな彼女の様子の原因に、エメには直感とも言うべき心当たりがあった。
ゆりが花畑で暢気に昼寝をしていた一昨日、港に停泊していた船群――その船首に掲げられていたのは、海洋国家ミストラルの章旗だった。過去にゆりを見初めたことのある海軍王子・フレデリク。ゆりと少なからぬ因縁のある彼が、その船に乗っていたかはわからない。エメが偵察に出るより早く、翌日の昼頃には何事も無かったかのように出航していったので最早確かめようもなかった。
だが、王子が……若しくはゆりのことを知る何者かが、“サクラ”に接触した可能性は否定できない。
――どうする。この家を捨て、別の地へ移るべきか。
万に一つの可能性も排除し、慎重に、かつ完璧に任務を遂行する。それこそが「閃光」の暗殺者の流儀だった。その信条に
今の彼女に再び旅暮らしをさせるのは、精神的にも肉体的にも酷だと思ったのだ。
「……サクラ」
エメは天井に向かってひとつため息を零すと、たったひとりの愛しい名前を呼ぶ。
「なあに、シオン」
「おいで」
いつものように、素直に自分の言葉に従うゆり。その無垢な信頼が、この上なく甘美で、この上なく恐ろしかった。
「今日の夕飯は、何にする」
エメは不安を微塵も感じさせずにそう言うと、寄ってきたゆりを腕の中に閉じ込め黒髪を梳いた。
「うーん。町のおばさんが、野菜をたくさんくれたでしょ。それをぜ~んぶお鍋に入れて、煮込んだら美味しいと思う!」
ゆりは負けじとエメの伸びかけの金髪に手を伸ばすが、エメが意地悪く顔をひょいと動かすのでなかなかつかまえられない。何度か無言で攻防を繰り返していると、二人はお互いに堪えきれなくなって顔を見合わせて笑った。
「……一緒に、作るか」
「うん!シオンは野菜を切る係よ。だってシオン、私より包丁を使うのが上手なんだもん」
「アンタは、ヘタクソ」
「もう!いいでしょ、これからもシオンは包丁の係で、私が味見をする係。二人なら、何だって上手くいくんだから」
「…………。そう、だな」
これからも。二人なら。
その言葉が、エメの心を甘く締め付けた。
ゆりの変化は、日中だけではなかった。
その日の夜も、ゆりは悪夢に苛まれて溺れる。これまで毎夜繰り返されたはずのその苦しげな呻きの中に、エメはこれまでになかった変化を認めた。
「ぅ……ナオト……」
ゆりは泣いていた。しかしエメは、他の男の名を呼ぶ彼女を、いつものように抱き締めて救ってやることができなかった。
胸が痛くて、こちらの方が溺れてしまいそうだと彼は思った。ただどうすることもできずにそっとゆりの涙を拭うと、音もなく一人家の外へ出た。
――ユリの記憶の蓋は開きかけている。
ユリが戻れば、きっとこの幸せな時は終わりを告げてしまうだろう。果たしてその時、“サクラ”は消えてしまうのか。
ひとり下弦の月に問い掛けるが、答えは出なかった。
――“「閃光」のエメ”であったなら、こんな苦しみを感じることもなかった。人は全て生きているか死んでいるかの違いしかなく、対象に心揺らされることなどなかった。
だがいつの間にか、ずっと前から、オレは
何故なら、この愛しさも、苦しみも、痛みすら、彼女がオレにくれたものなのだから。オレの体は、
エメは何かを思い出したかのように月に背を向けると、ゆりの元へ戻ろうと歩き出す。
その歩みの先にあるのは、彼女との愛すべき日々が詰まった小さな小さな家。玄関を見遣ると、ゆりに贈られた紫苑の花冠がドアに架けられ、飾られている。
薄紫の花弁にそっと触れると、日を浴びて乾燥したその一輪はぱりぱりと乾いた音を立てて崩れた。
「――ユリ。オレはやっぱり、アンタに、もう一度会いたい。例えその時、アンタが選ぶのが、オレじゃなかったとしても……」
エメのその決意は、すぐに試されることとなる。
欠けた月が完全に姿を消し、再び三日月となる頃に。
ゆりはその日、紫苑の花畑で再び花冠を作っていた。
あれほどゆりが一人で外へ出ることを嫌っていたエメ。しかしいざ彼女が外へ出たいという意欲すら失ってしまうと、その心が次第に弱ってしまうように思えて気が気ではなかった。
そして彼は、“町へ下りないならば”という条件で丘の周囲へひとりで外出することを許可することにした。ゆりはその約束を健気に守り、草原を散歩して、足元に咲く名もなき花を手折っては毎日エメのために食卓に飾った。
記憶を失ったはずなのに、花冠の作り方を覚えていたのは何故だろう。
そんな疑問も忘れて、ゆりは無心で紫苑を摘み、編んでは束ねた。視界にシオンの瞳と同じ紫色だけを映し、ただひたすら繰り返すその営みが、なんだか今の自分に似ているな、と、ふと空白だった頭に浮かんだその時。
突如一陣の風が吹き、摘んだばかりの紫苑を舞い上げた。
「……ゆり?」
ざわりと揺れる紫苑の群生の向こう、町の石段を上りきり、拓けた草原からこちらを見つめていたのは。
――夕日よりも紅い、赤銅色の髪。
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