第百三話 天の配剤
中央都市・モルリッツは今日も、活気に溢れていた。
アラスターが午前の巡警から戻り馬舎の番に愛馬を引き渡していると、詰所から秘書のレインウェルが息を切らせて走ってくる。
「アラン! カテドキアから『
「……カテドキアから? 珍しいな。そもそもそれを何故俺に……」
「カテドキアの通信を使用しているのはミストラルのフレデリク王子です。今通話口で通話相手に貴方を指名しているそうなんです。なんでもその……“天使を見つけた”と言っていると」
「!」
アラスターは血相を変え、再び黒鹿毛に跨がった。
『久しいな、アーチボルト卿。急を要するから、仔細は省略するぞ』
「は、殿下」
旧王城の中央評議会本部。
「
『俺は、ゆりを見つけた』
「…………!」
『行方不明になっていたらしいな? 俺は遠洋に出ていたから知らなかったんだ。三月前各国の中枢に捜索依頼が出ていたと、先程このカテドキアで知った。貴方を問い詰めてやろうと思っていたんだが……それは、許す』
「……殿下。本当にゆりを……?」
『ああ。間違いない』
「一体どちらで!?」
思わず食い気味に問うてしまったアラスターに対し、先頃
『……カテドキアの北、小さな港町だ。元気そうだったが……様子が、平素とは違ったように思う』
「様子が……?」
『推測だが……彼女は、記憶を失くしている。自分の名前すらわからないようだった。“シオン”という人物と行動を共にしているようだ』
「記憶喪失……」
想定していなかった事態に、アラスターは息を飲んだ。
「彼女は、まだその町に?」
『旅装ではなかったから、近くに住んでいるのは間違いない。だが、俺が接触したことが“シオン”という者に知れれば……。――いずれにしろ、連れ戻すつもりなら早い方が良い』
フレデリクによれば、彼が町でゆりを見たのは既に四日前のことだと言う。そこからひとり下船し単独でカテドキアまで馬を走らせこの通信に至ったというのだから、フレデリクの英断と行動力には舌を巻く他ない。
“シオン”という人物は恐らく『閃光』のエメだ。果たして彼が今回の接触に気付いているのかどうか、それが状況を分けることとなるだろう。
アラスターが黙って思考を巡らせていると、魔法陣の光の向こうからフレデリクが問い掛けた。
『なあ、アーチボルト卿』
「は」
『あのままそっとしておくのと、連れ戻すこと。どちらがゆりの幸せになると思う?』
「……それは……」
そう言われて、アラスターは答えられなかった。
これまで、ゆりは
暫し押し黙ったアラスターの内心を推し量るように、フレデリクは毅然と、しかしどこか優しい調子で続けた。
『それを見定めることの出来る者だけが、彼女に会う資格があると思う。それが誰なのか……俺には、わからないが。貴方なら、ゆりにとって正しい采配をしてくれると信じている』
王子の信頼に応えるように、アラスターは通話口で首肯した。
「……はい。御忠告、しかと受け止めました」
『そうか、頼んだぞ。……他国の回線を借りているので、あまり長話はできない。では、貴方に――それからゆりに、女神の加護があらんことを』
「殿下も、良い航海を」
『……カテドキアの姫がちょうど年頃だとかで、暫く歓待という名の引き留めを受けそうだがな……』
溜め息混じりの呟きを最後に、通話は途切れた。
騎士団の詰所への帰り道、アラスターは悩んだ。
ゆりの幸せ。それは一体何なのか。馬の手綱を取りながら、彼女の笑顔を、彼女の言葉を思い浮かべる。
“アランさん”
“アランさんだって、私の大切な人だから”
“私は……、ナオトが、好きなの……”
“何処にいてもあなたを想ってる。
私の勇者。私の太陽”
手に入れることは叶わなかった、最愛の女性。彼女の何気無い言葉が、仕草のひとつひとつが今も鮮明に瞼に浮かぶ。だが、最後に心の内に現れた彼女は、泣き顔だった。そして降りしきる雨の中、原初の獣となったアラスターの傷を癒した優しい声が聞こえた。
「アラン、どうでしたか」
「……ああ。レイン、勇者……いや、今はただの冒険者だったか。ナオト殿の足取りを把握しているか」
詰所に戻るなり質問を質問で返すアラスターに、レインウェルは困惑しつつも持ち前の記憶力を発揮した。
「二週間程前、ジュナハの冒険者ギルドへ立ち寄ったという記録を見た気がしますが」
「ジュナハか……」
ジュナハとは、カテドキアの南に隣接する小国である。国境を越える必要はあるが、距離としてはかなり近い。
「これも天の配剤か」
アラスターは天を仰ぐと、目を瞑り深く息を吐いた。
「レイン。至急、冒険者ギルドを通じてナオト殿に連絡を。カテドキアの北で、ゆりが見つかった」
「!」
一方のナオトはこの時、ジュナハの首都近くの村に滞在していた。
もしも自分がゆりを隠すなら。
大都市は何処に誰の目があるかわからないから不安だ。しかしあまりに田舎でもかえって目立ってしまうし、何より情報が手に入らないのが痛い。
そこで
そう目星を付け今はジュナハの首都周辺をしらみ潰しに当たっていた。そしてナオトのこの考えは、偶然にもエメの思惑とほぼ一致していた。
しかし、思ったよりこの“しらみ潰し”が捗らない理由があった。
それは、こういった長閑な集落は何処も傭兵などの戦力が慢性的に不足しており、常に魔物の脅威に晒されていたからである。
そのためナオトは立ち寄った先々で、魔物の討伐を引き受ける羽目になった。もちろん積極的に顔を突っ込むつもりは毛頭無かったが、乗りかかった舟を見捨てることもできなかった。或いは昔のナオトであれば――冷徹に切り捨てていたかもしれない。しかしゆりを愛してから、彼女を失ってからの彼は変わっていた。
「ああ、勇者様! あなたこそ真の勇者様です! どうか今夜は、我が村に滞在され感謝の宴をお受け取り下さい!」
何度目だろう。
今日もナオトは、魔物を退治した礼だと村中の歓迎を受けることになった。
「あ~オレ、何やってんだろ……。
既に日は沈み、半分欠けた月が出ている。ナオトは程々のところで宴会を抜け出すと、宛がわれた村長の家の一室で籾殻の枕に顔を埋めて嘆息した。既に主役はいないと言うのに、村の中心部である広場からは人々の明るいざわめきが聞こえる。ぼすん、と頭を打ち付けた枕は干されたばかりなのか、僅かに日の匂いがした。
自分はもう“勇者”ではないのだが、近頃は行く先々で“勇者”と呼ばれ、初めて訪れるところでも既に名を知られていることすらある。
教会の指示の下魔物を討伐していた時は、さっさと用事を済ませて帰るだけだったからわからなかったのだろうか。確かにこうやって直接感謝を述べられるのは悪い気はしないが――それは、この旅の本来の目的ではない。
「ゆり……」
ナオトはベッドに仰向けに寝返りを打つと、懐から首紐に括られた小さな皮袋を取り出した。中を開けると、幾重にも折り畳まれた紙片が出てくる。ナオトはそっと、その紙を広げた。
それは、破り取られた聖教書の一頁。ゆりが印を付け、新居の鍵が貼り付けられていたあの部分。既に何度も折り畳みを繰り返し、真新しかったはずのその紙はぼろぼろになっていた。
ナオトは頁の一節を囲う丸印を指でなぞり、その部分を
「“私はあなたの家。あなたの安息を守護し、共に歩む者。やがて苦難の雨は去り、ただ平穏の内に憩うだろう”……」
コンコン
不意に誰かが部屋の扉を叩く音がして、ナオトは飛び起きた。紙片を畳んで皮袋にしまうと、扉を開ける。
すると、そこに立っていたのは一人の少女だった。
年の頃は十六、七だろうか。痩せぎすだが、村娘にしては気を使って手入れしているのであろう黒髪がゆりに似ていた。
「あ、あの、勇者様。あたし……」
薄い夜着を纏い、もじもじと手を臍の辺りで組む娘を見てナオトはすぐに状況を察した。
湯浴みしたばかりなのか湿った髪にほんのり漂う石鹸の香り、そして肌に塗り込まれているのであろう香油の花の香り。――発情している雌の匂い。そして、まだ誰にも捧げられたことのないであろう純血の匂い。
――これは……据え膳か?
男の夢をそのまま体現したかのようなお約束の展開に暫し感動すら覚えていると、娘は意を決したようにナオトに抱き付いた。
「勇者様! あたしに、慈悲を下さい! 今晩、たった一晩だけでいいんです……!」
おかしいな、最近こういう展開が多すぎるんだよなとナオトは頭を掻いた。
町や村を救って歓迎を受けると、必ずと言っていいほど夜這いする女が現れたり、集落の長に年頃の娘を宛がわれたりする。モルリッツにいた頃も声をかけてくる女は引きも切らなかったが、大抵は興味本位の蓮っ葉な女ばかりだった。
それが何故か、最近やって来るのは如何にも初心な女ばかりで。冷たくあしらっても良いのだが、泣き顔を見ると――ゆりの悲しげな顔が浮かんで、胸が傷んだ。
これまで気まぐれに女を抱き、或いはそっけなく切り捨てては平然としていたはずのナオト。彼は必死に抱き付いてくる娘の肩を両手で掴むと――優しく、自分の身体から引き剥がした。
「……震えてんじゃん。やめときな、そーいうの」
「ち、ちが……! あたし、勇者様なら本当に」
ナオトは興奮する娘の眼前にしぃ、と人差し指を突き出すと、そっと言葉を奪う。
「ごめんね。オレ、抱く女はひとりって決めてんの」
なんと穏当かつ隙のない断り方だろう。昔の自分と比較して今の己の優しさに感心しつつ、ナオトは扉の枠に片手をかけて体重を預けた。
「……昼間、大事な人を捜してるって……。その人なんですか……?」
伺うような娘の言葉に、ナオトは短く頷いた。
「そ」
「で、でも、その人とは今、離れてしまっているんでしょう? あたし、慰めでも構わない……!」
「マジかー…………」
男にとって都合の良すぎる必殺の言葉をぶら下げて、思いがけず食い下がる娘。汗と香油の入り交じった香りがふわりと漂い鼻をくすぐると、ナオトは複雑な気分になってハァ、と嘆息した。
「でもダメ」
「……そんなに、大切な人なんですか……?」
「そ。ずっと捜してるの」
「ずっと……?」
「ずーっと捜してる。――五千年前から」
「えっ???」
突拍子もないナオトの言葉に、からかわれているのかと思い娘は顔を上げた。しかし彼の表情は優しく、でもどこか寂しげで。遠くを見つめるようなその黄金の瞳は、冗談を言っているようには見えなかった。
結局、ナオトの鉄壁の意思を揺るがすことはできず娘は退散した。
ナオトがジュナハのギルドで
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