第八十六話 女神の愛の手
「随分と遅かったな。この僕を待たせるとはいい度胸だ」
「スミマセン……」
ひたすらに不機嫌そうなユークレースに、ゆりはただただ謝り通した。
昼前、アラスターと共に神殿へ行ったゆりは神官長と面会した。今後は外で暮らすこと、評議会が後見となることをアラスターの口から伝えると、神官長は少し面食らったようなそぶりを見せた。恐らくあまりに手際良く物事が進んでいることに驚いたのだろう。しかし睨み付けるアラスターに気兼ねしたのか、特に何も言っては来なかった。
駄目元でナオトやテオドールに挨拶をしたい旨も伝えたが、やはり会わせてもらうことは叶わず、代わりに彼への手紙とテオドールへの交換日記を託した。“中を改めさせて頂きます”と慇懃無礼にもその場でナオト宛の手紙を開封した神官長は、そのシンプルな文面を見て少し驚いた後――なるほど、確かに今のゆりさんの心情を表すのに相応しいですね、と微笑んだ。
その時ゆりは思った。
――ああ、この人はこれだけ徳の高い地位に在りながら、女神の救いの本質を理解していない、と。
本当に手紙がナオトの手に渡るか多少の疑念はあるものの、“間違いなくお渡しします”と言った聖職者のその言葉を、ゆりは信じることにした。念のため、後日別の方法できちんと確認を取るつもりであるが。
その後、神殿の自室を片付けて私物をまとめて引き取り、アラスターと共に一度新居へ帰った。仕事を途中で抜け出してきたという彼に礼を言って騎士団へ返し、荷物の整理もそこそこに再び家を出ると、今度は孤児院へ暇伺いへ向かい――
そんなこんなで、“午後から来い”と一方的に告げていったユークレースの研究室を訪れたのは、既に夕刻近くなってからだった。
一応これでも、昼食もほとんど取らずに駆けつけたのである。
「言われた通り、職場には暫くお休みを頂く旨を伝えて来ましたけど……私は、何をお手伝いすればいいんでしょうか?」
ユークレースは、これから三週間でナオトの呪いを解く薬を完成させるため、ゆりに仕事を休んで毎日薬の製作を手伝えと言った。
一応、神官長には今後孤児院の仕事を続けるかどうかは教会側は関知しないという言質を取った。仮に教会がゆりの雇用について圧力をかけようとしても、共同出資している評議会側がそれを許さない、というのはアラスターの弁だ。つまり、すぐに失職する懸念は無くなったのだが……。
左腕の怪我を治して仕事に復帰してから、まだ二月も経っていない。自分が経営者なら、こんな頻繁に長期休暇を繰り返す従業員など辞めて欲しいと思うのが本音である。
だがゆりが恐る恐る休暇を願い出ると、院長は二つ返事でそれを承諾した。
「ゆり先生は
だから今は比較的人手に余裕があるのですよ、と院長に言われ、自分がこの世界のひとりの人間として何かの役に立てていることが純粋に嬉しかった。
ゆりが感激しながら礼を述べると、それにね、と院長は続けた。
「何より、子供達が貴女を必要としているのです。我々の真の務めは寄る辺のない子供達に女神の愛の手を差し伸べること。ゆり先生は誰よりもそれを忠実に実践していらっしゃる。私達は、これまで共に過ごしてきた貴女こそが、本当の貴女だと知っていますよ」
院長は、ゆりが教会から“魔女”の疑いをかけられていることを知っているのだろう。教会の関係者にもそうやって自分を信じてくれる人がいることが、ゆりには何よりも心強かった。
「――とまぁ、作り方を簡単にまとめるとこんなとこだ。おい、聞いてるか?」
「は、はい!」
ゆりが慌てて意識を引き戻すと、ユークレースは本当だろうな?と半眼で睨み付けた。
「で、あんたの仕事は……この容器に
「……え?」
ユークレースが指差したのは、沢山の管が迷路のように入り組んだ謎の蒸留精製装置の終着点、ガラス製のフラスコだった。その底にはほんの数滴だけ、透明な液体が溜まっている。
「あの、見ているだけ……ですか?」
「できればこの容器に手を添えて、念じろ」
「???」
「わからないのか? 直接魔力を込めてみろって言ってるんだ」
「ごめんなさい、よくわかりません。具体的にはどういう風にすればいいんでしょうか」
「あんたがこの薬を完成させて、何を為したいのか。そのイメージをフラスコの水面に映すんだと思え」
「なるほど……??」
わかったような、わからないような。
ゆりが複雑そうな表情を浮かべると、ユークレースは呆れた顔でぼそりと呟いた。
「あんたが直接薬に魔力を込められれば、納期は大幅に短縮できるぞ」
「!」
「……と言うか、それを見込んでの三週間だからな? キリキリ働けよ? あと、もちろん時々血も抜くから」
「……」
――この人は、私から魔力を根こそぎ取り出してカラカラのミイラにする気だ。
ゆりは青醒めたが、ナオトのためにできる限りのことをしようと決めた今朝の誓いを思い出す。そして神妙な顔で頷くと、フラスコを包むようにそっと、その両手を添えた。
そして一刻ほどして、一日の終わりを告げる時計塔の鐘が鳴る頃。
その鐘とほぼ同時に、研究室の扉を乱暴に開け放ち乗り込んで来た者がいたのでユークレースは驚いた。
「アラスター!」
「ゆりを迎えに来た」
「……もしかして、これから毎日迎えに来るつもり?」
「できるだけそうするつもりだ」
「昨日も仕事をほっぽり出して秘書にどやされてなかった?」
「ゆりより優先すべき仕事などない」
あっさりとそう答えたアラスターに、ユークレースはだったらやはり最初からアーチボルト邸に住まわせるべきだったんじゃないのか、と思ったが口には出さなかった。
「ゆり、送っていく」
アラスターはユークレース相手の時の無愛想な対応とは一転して、優しい調子で部屋の奥にいるゆりに声をかけ、その手を取った。
「アランさん、わざわざありがとうございます。じゃあ、お言葉に甘えて。ユークレースさん、ごきげんよう。明日も来ますね」
「ああ。送り狼には気を付けろよ」
「はい!」
ユークレースが嫌味を投げ掛けるとアラスターはむっとした表情を見せたが、当のゆりには全く伝わっていないようだった。
アラスターにぴったりと寄り添われながら魔道研究所を出たところで、ゆりは彼を見上げ声をかけた。
「アランさん、お仕事帰りに申し訳ないんですけど、少し寄りたいところがあるんです。いいですか?」
「ああ、構わないが……何処へ?」
「夕飯の材料の買い出しです。これからは自炊しないといけないですし」
あまり魅力的とは言い難かった神官用の質素な食事も、黙っていても出てくるという有り難さには変えられない。ゆりは改めて、神殿での生活が如何に恵まれていたかを実感していた。
「ああ、そうか。ゆりは料理もできるのか?」
「多少は……。この世界に来る前も、ひとり暮らしでしたし」
「そうなのか」
この世界では、若い女性のひとり暮らしというのはあまり一般的ではない。大抵の女性は結婚して初めて生家を出るものだ。
「もし良かったらアランさんも食べて行かれます?」
「はっ?」
半分社交辞令の何気無い誘いにアラスターが驚いたような声をあげたので、ゆりはああそうか、と慌てて訂正した。
「あっ。……いえ、そっか。アーチボルトのお宅には専属の料理人さんがいるんですもんね。おうちに帰ればおいしい料理があるのに、わざわざ食べて帰る必要ないか」
「い、いや、そういうことではなく、うん。……そうだな、せっかくだから食べてみたい。ゆりの手料理を」
単に、ひとり暮らしの未婚女性の部屋に上がり込んで夕餉を共にするという経験がなかったので動揺しただけなのだが。アラスターは咳払いを一つすると、いつもの調子でさらりと返した。
簡単なものしか出せないですけどそれでもよければ、とこちらを見上げたゆりの笑顔に、これは本当に送り狼にならないよう気を付けなければ……と、アラスターは自身の理性の手綱を引き締め直した。
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