第八十五話 世界は平等じゃない

 ここは神殿の内部施設の一番奥、勇者ナオトのために与えられた部屋。

 討伐に向かうため、革の半鎧を纏い帯剣したナオトは、広い部屋の隅に備えられた全身鏡をぼうっと眺めていた。元から“身支度を調える”という発想のほとんどない彼が右肩の呪印の状態を鏡に映して確認していると、コンコン、と四度のノック音がして白髪の壮年――神官長が入ってきた。


「ナオト様」

「……なに」


 振り返りもせず不機嫌そうに応えると、神官長は淡々とした調子で告げた。


「ゆりさんが正式に、この神殿を去ることになりました」

「ふうん」


 感情を映さず、心悟られないように。凍りついた表情でごく短く返したナオトに、神官長は特に態度を変えるでもなく続けた。


「ええ。昨日突然失踪されたと思ったら、先程また突然戻られまして。評議会の……アーチボルト卿を伴われて」


 努めて冷静に聞いていたが、アラスターの名を聞いて思わずぴくりとナオトの耳が反応する。


「昨夜、いつまでも戻らないゆりさんをテオドールが大変心配していたんですよ。ですが、杞憂だったようですね……。一体、ゆりさんはこちらの心配を余所に、昨夜はと過ごされたのやら」

「……」


 明らかに侮蔑の色が含まれているその言葉を無言で聞き流していると、神官長は声のトーンを落として囁いた。


「私がゆりさんに“魔女”の疑いについて問うてから、まだたったの二日。まさかこんなに早速次の寄宿先を見つけて来られるとは……。いやはや、女性の変わり身の早さには驚かされます。彼女とて、御自分の身は惜しいのでしょうね……。或いはよもや――アーチボルト卿は既に、ゆりさんのに絡め取られてしまったとでも言うのでしょうか。今後は評議会がゆりさんを保護するのだと、随分と鼻息を荒くしておられました」


 己の胸の内にしまっておけば足りるはずの感想をわざわざこちらに語って聞かせるところに、この男の穏やかな物腰の内に隠された本質があるのだとナオトは知っている。


「いい。ゆりが無事なら、何処にいようが」


 背を向けたまま、鏡越しにそう返す。その言葉は紛れもなくナオトの本心だった。

 この世界に何の縁もないゆり。成り行きからこれまで教会に身を寄せるしか選択肢のなかった彼女が、ただ平穏に、元気に暮らしていけるなら。例えそれがアラスターあいつの元でも構わない、とナオトは思った。


 そんなナオトの心情を知ってか知らずか、神官長はうんうん、と呑気に頷いた。


「ええ、そうですとも。もしこのまま彼女が神殿ここに留まって、異端審問にかけられるようなことがあれば――。辛い罰が科されていたでしょうから」

「あんたらほんとに、いい趣味してるよな」


 吐き捨てるように嫌味を言うと、神官長は心外だとばかりにこう諭してきた。


「三百年前でしたら問答無用で火刑になっていたところですよ。それに比べれば現在は随分と人道的です」

「へえ。が、人道的――ね」



 ――異端審問。


 女神教の内部規定である「女神法」、その禁を犯し教義上の罪に触れた者がかけられるのが異端審問である。女神の戒律は細かく多岐に渡るため、実際に異端審問が開かれるのは余程の重罪の場合のみだ。

 だが、一度その審議の扉が開いてしまえば。これまで異端審問の机上に乗せられた者が、その罪と罰を回避できた例はない。

 つまり、異端審問は始まった時点で結果が既に定められているのである。


 そして。異端審問にかけられた者の末路は、全て同じだ。



 ――生きながらにして、両腕を落とされる。



 両腕を落とす、という罰は私的な制裁としてもこの世界では古くから存在するやり方だった。死に限りなく近い痛みを味わわせ、未来永劫その者の自由を奪い、他者からもその罰の証が瞭然となる屈辱を与える方法――。ナオトもスラムで両腕のない女が物乞いをしているのを見たことがある。なんでもその女は、貴族の愛人でありながら他の男と密通していたのを咎められたのだという。

 あまりに理不尽な仕打ちだが、得てして世界とはそのように不公平なものだと言うことをナオトはこれまでの人生から身を以て知っていた。


 だが、そうであってもゆりがあの時の女のように地べたを這いずる未来を許容することはできない。



「女神サーイーは、命こそが何よりも尊く、命在ることに勝る喜びはないと我々に説いておられます」



 例え腕が無くとも生きているのだから感謝しろとでも言いたげな神官長の言葉に、ナオトは心の底から嫌悪した。

 そもそも両腕を斬り落とした時点で、殺す気はなくとも大抵の者は堪えきれずに死ぬ。都合良く女神サーイーの名前を持ち出すなと、自分の中の一部オスティウスが怒りに燃えるのをナオトは感じた。


「でも、良かったですね。異端審問を含む『女神法』は、あくまで我々教会内部の規律を護るための規定でしかありません。ゆりさんがここを出て評議会の庇護下に入られるのであれば、当然審問の呼び出し等も、もうゆりさんに及ぶところではない」



 ゆりは教会から逃れ、自分の命を守った。そうして欲しいと願ったのはナオト自身だ。

 だが、本当は心の隅で……。“何処にも行きたくない、貴方の側に居たい”と慈悲にすがり、哀願されるのを待っていただなんて。仮に泣き付かれても、結果は変わらなかったと知っているのに。



 僅かに瞳を臥せたナオトに追い討ちをかけるように、神官長は優しさすら感じさせる声音で囁いた。



「ゆりさんは、評議会の……アーチボルト卿の下に留まることを選ばれた。教会われわれは、は――、見限られてしまったのでしょうね」


「あんたが何を言おうが、オレの心を揺らがせることはもうできない。オレは、獣にはならない」



 ずっと昔から、そして最近になって露骨になって仕掛けられるようになった、自分を獣を堕とさんとする数々の罠。ナオトはある頃から、その元凶が目の前の男――神官長であると本能的に感じ取っていた。



 ――この男はがする。



 ナオトは漸く振り返ると、部屋の中程に立つ白いローブの壮年の前に大股で進み出て立ち塞がる。敵意を含む視線で見下ろすと、神官長は怯えるどころか「なんと力強いお言葉でしょうか」と感心したように微笑んだ。



「勇者殿はそうでなくてはなりません。そう、勇者とは……強く、気高く――何よりだ」



 ――何せ勇者オスティウス様は、たったひとりで多くの魔を祓い、世界に安寧をもたらしたのですから。



 その言葉に、ナオトは違う、と心の中で小さく首を振った。


 戦う勇者オスティウスの隣には、常に愛する者サーイーが居た。勇者は決して、孤高の存在ではなかった。の魂がそう、ナオトに告げている。

 だがそれを言ったところで、目の前の男には伝わらないだろう。


 ナオトが見下ろしていた視線を逸らすと、神官長はたった今思い出したかのように、そう言えば、と手を叩いた。


「ゆりさんから、ナオト様宛に手紙を預かっています。申し訳ありませんが、ゆりさんにも承諾を得た上で内容は検閲させていただきましたが……」


 そう言って懐から何かを取り出すと、ナオトの前に差し出した。


「ふふふ……さすがは召し人様、といったところでしょうか。に記す言葉も、随分とシンプルで詩的だ。――ではナオト様、私はこれで」


 神官長はナオトに白い紙の封筒を手渡すと、そのまま部屋を出て行った。



 ”ナオトへ“



 誰もいなくなった部屋で、ナオトは自分の手の中にある己の名前を見た。ノートか何か罫線の入った紙を丁寧に折って作られたらしき封筒、その表面にやや控えめに書かれた宛名。それはゆりらしい、整っていて乱れのない美しい文字だった。


 封を開けることもなく、暫くただじっと自分の名前を眺めていたナオトは、ややあって哀しげに顔を歪ませる。

 そして、ああ、ゆり、と僅かに震える声で呟いた。



「ゆり……。この世界は、平等じゃない。ここは、ゆりの目に映る景色よりずっとずっと汚れていて、残酷な場所なんだ。きっと、きみには想像もつかないんだろうな……。

 オレがどんなところで生まれ育って――この身体以外に何も持たないオレが、どれだけ学がなくて……自分の名前以外に、なんてこと」



 そう。スラムの片隅でたったひとり、親もなく、真っ当な教育を受ける機会もなく、ただ必死に生き延びるだけの子供時代を送ったナオトは、字を読むことができなかった。生きるために必要だった冒険者ギルドの掲示板に頻出する単語や、写本や暗唱という罰を何度もさせられた聖教書なら、多少読めるが。


 ――だが、それに引き換えゆりは。

 この世界に落ちてきた時からどこか知性を感じさせる雰囲気を持っていて、テオドールの小難しい話も驚くほど良く理解していた。あっと言う間にこの世界の読み書きは勿論、知識や教養、淑女の立ち居振舞いまでもぐんぐん吸収して、今では高等教育を受けた貴族の子女と違わぬ洗練ぶりである。



 ――神官長の言った通り、手紙ここには別れの言葉が記されているのだろう。そうでなければ、未練を残すような内容だったらオレの手元に渡ることなく処分されているはずだ。

 ゆりに最後に触れたあの日、オレはゆりから告げられた想いをこの上ない幸せと共に受け取りながら……。恥じらいながら、震える声で、泣きたくなるほど優しい眼差しと共に差し出されたその想いを。

 弄ばれた、と思われただろうか。

 オレは最初で最後のゆりからの手紙メッセージを、読むことすらできない。彼女がどんな気持ちで神殿から去ったのか、オレは知ることができない。


 ――オレと彼女ゆりは――文字通り、住む世界が違ったんだ。



 その感情は怒りでも悲しみでも嫉妬でもなく、諦めに似ていた。

 ゆりはこの手をすり抜け、離れていってしまうだろう。それでも、彼女が自分に与えてくれた想いは変わらずこの胸の内で輝きを湛えている。


 ナオトは手にした封筒を、中身ごとくしゃりと握り潰した。そしてベッドの壁際に向かって投げつけるように放ると、そのまま部屋を後にした。

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