第八十四話 大切な人と、一緒に

 ユークレースが去ったソファの前で、ゆりはもう一度この部屋の契約書を目にしていた。

 家賃は破格。同じ金額でモルリッツの治安の良い地区に部屋を借りることは恐らく不可能だろう。管理人の仕事の一部を担わなくてはならないが、共有部分の掃除だけで良いのなら片手間でもこなせないこともなさそうだ。こんな美味しい話、断る理由がない。

 ゆりはユークレースの厚意に感謝しつつ、彼が残していったインクペンで賃借人の欄に自分の名前を書く。そして次の欄でペンが止まった。



「保証人……。あと、同居人か……」



 いつか神殿を出たら。

 それはこの世界にやって来てから、神殿に仮の住居を得てから何度となく考えた未来予想図だった。日本では、親と決別し一人暮らしで寂しい毎日を送っていた。だから、次に自分の“家”を持つ時は……。



 ――大切な人と、一緒に住みたい。



 おはよう

 いってきます

 おかえり

 いただきます

 おやすみ


 誰かと家族になって、そんな他愛もない言葉を分け合える生活がしたい。それが、家族の愛に恵まれたとは言い難いゆりの、数少ない望みのひとつだった。


 ゆりは暫し考えた末――同居人の欄に、家族になることは叶わないかもしれない“彼”の名を書いた。そして、保証人の欄はひとまず飛ばしてその他の項目を全て埋める。ほぼ書き終えて、ゆりはまるで高校生の頃に書かされた進路希望届のようだと契約書それを眺めた。

 あの時も、“短大に行きたい”と書いたら担任に呼び出されたのだ。



 “いいか、矢仲。人間には『格』ってものがある。相応の力がある者だけが、相応の夢を見ることを許される。お前、勉強以外に何か取り柄があるのか?今までの努力を捨てて短大に行って、それがお前の相応の夢だと本当に言えるのか?”



 そう言ってゆりの希望を切って捨てた担任に、将来に夢を持つことに相応も不相応もあるものか(そもそも短大にだって“勉強”すべきことはたくさんあるのだ)、と当時のゆりは憤った。だが、今の自分が抱く夢は――。確かに自分には不相応かもしれない、とゆりは自嘲気味に笑った。


 ふう、と一呼吸置いて契約書を封筒にしまったゆりは、先程までユークレースが座っていた向かいのソファを見た。そこにはゆりがこの世界で最初に買ったシンプルな革製の肩掛け鞄が置かれている。昨日ユークレースの研究室で倒れた後、自分と一緒にアラスターが運んでくれたのだろう。


 立ち上がって鞄の中身を確認すると、一日分の着替えに、財布とハンカチ。そして鞄に入れっぱなしの携帯裁縫セットとテオドールとの交換日記。たったそれだけしか入っておらず、ゆりは自分で自分に呆れた。


 昨日の自分は動揺と寝不足で頭が回っていなかったのだろうが、それにしたってこれだけの荷物で神殿を飛び出して、その後どうするつもりだったのか。着替えは一組しかない上に、身支度を整える道具は何も入っていない。交換日記を持ち出したはいいが、筆記用具はない。


 日用品などはまた買い直せば良いが、流石にクローゼットの中身一式をまた一から揃えるわけにもいかない。そもそも神官長や教導に挨拶すらしていないのだから、どちらにしても一度神殿に戻らねばなるまい。

 気が重いが仕方ない、とゆりは大きな溜め息をついた。



 再度ソファに腰を落ち着け沈みこんだゆりは、気まぐれにテオドールとの交換日記を鞄から取り出しその黒い表紙を捲った。そこには自分のたどたどしい言葉で綴られた神殿での日々、それに優しい返事をくれたテオドールとのやり取りが積み重ねられている。時々“ナオトがこんなことをした”という自分の愚痴に、“ナオト様は本当にゆりさんのことが好きなんですね”なんて応酬が書かれていたりして。ゆりは涙が出そうになるのを必死に堪えた。



 ナオトは今頃どうしているだろう。呪印の封印は暫くは大丈夫だと思うが、私が神殿を去ったと知ったら、寂しく思ったりするのだろうか――。



 そこまで考えて、ゆりはふと気が付いた。


 ゆりが今神殿を訪ねてもナオトには会わせてもらえないかもしれないが、ナオト自身がこちらに会いに来るとしたら話が別なのではないか。

 もちろん神官長達は良い顔はしないだろうが、本当の意味でナオトを止められる者などあの神殿にはいないのだ。そもそも、ナオトが教会に留まらなければならないという理由もない。これまでだって、フラフラと神殿を出ては帰って来ないことがしょっちゅうだったのだから。



 ゆりは暫く黙ったまま思考を巡らせると、ややあってぽんと両手を叩いた。そして慌ててベッドルームへ行くと、青い薔薇の飾られているナイトテーブルの引き出しを開けた。



 ――あった。



 ゆりは目的のものを見つけ出すと、メインルームに戻り、交換日記のノートの最後の頁を一枚破り取って何かを書き始めた。



 それは、初めて書くナオト宛の――ごく短い、手紙。



 あっけないほどすぐに書き終えると、ゆりは今しがた破り取ったノートの端部分を指でなぞる。このノートは既に二冊目で、頁を使いきった一冊目はゆりの部屋の机に仕舞われたままだ。もし神殿に戻ったら、一冊目はこれまでの思い出にもらってゆこう。

 ゆりはそう考えて、ナオトへの手紙を丁寧に折り畳んだ後、日記の続き、一番新しい頁に最後になるであろうテオドールへのメッセージを書き始めた。




 既に太陽が南中へ差し掛かろうかという頃、一度教会へ戻る決意を固めたゆりは、必要なものを鞄に詰め東地区から神殿へ向かう大通りを歩いていた。

 午後から研究室へ来るようユークレースに言われたが、神殿以外にも色々と寄るべき場所があるのでどの順番で回ろうかと考えていると――遠くから馬のいななきが聞こえ、もの凄い早さで何者かが近付いてくる気配がする。


 ゆりが立ち止まり振り返ると、黒いそれ――愛馬に跨がるアラスターが、大通りの真ん中を駆け抜け、ゆりの隣にぴたりと止まった。


「アランさん?」


 アラスターは馬をどうどう、と落ち着けながらも焦った様子で足元のゆりに問い返した。


「ゆり、何処へ行くつもりだったんだ?!」

「えっ? 神殿へですけど……」

「まさか、帰るつもりか?」

「一度戻って、きちんと挨拶をして……それから残してきた荷物も取りに行かないとと思って」


 その答えを聞くと、アラスターはそうか……、と呼吸を整え、おとなしくなった馬から降りる。ゆりは目の前で馬のくつわを持つアラスターに頭を下げた。


「アランさん、昨日はありがとうございました。ユークレースさんから聞きました。アランさんがわざわざ仕事を抜け出して色々と私の世話をしてくれたって」

「構わない。俺がやりたくてやったことだ。今日も貴女の顔を見に行くつもりだったが……何分、昨日放り出した仕事が片付かなくてな」

「ごめんなさい……」


 ゆりが再度頭を下げると、アラスターはそれを押し留めるように肩に手を置いた。


「貴女より優先すべきものなどありはしないさ。それより、教会へ行くなら俺も同行する。今後、貴女は評議会の保護下に入ってもらう。既に父を通して議会の仮承認は得ているから、教会へその通告に行く。それに……」

「それに?」


 ゆりがアラスターを見上げると、彼は肩に置いた手を滑らせ優しくその頬に添える。そして薄金の瞳を油断なく光らせた。



「貴女が――奴らから心無い言葉をかけられるかもしれないのを、黙って見過ごすわけにはいかない」



 ユークレース伝にゆりが教会から“魔女”呼ばわりされたと聞いた時、アラスターははらわたが煮え繰り返るような怒りを抑えられなかった。


 ゆりほど穢れのない女をアラスターは知らない。それを、よりにもよって魔女などと。

 恐らくは原初派が勇者ナオトからゆりを引き離すために画策したことだろうが、騎士として、ひとりの男として、その不名誉からゆりを守ることこそ今の自分の役目だとアラスターは感じていた。



 アラスターは轡を引いたまま、反対の腕をゆりの背に添えた。ゆりはその温かい安心感に支えられ、憂鬱だった神殿への道のりをゆく自分を奮い立たせると再び歩き出す。


「本当はひとりで行くのが不安だったんです。だから、アランさんがいてくれるなら心強いです……。――ところで、なんで私が何処かへ向かってるってわかったんですか?」


 道すがら、僅かに安堵の笑みを浮かべつつも疑問を差し挟んだゆりに、アラスターはいつものポーカーフェイスで答えた。



「……予感がしただけだ」



 へぇ、さすがアランさんの勘はすごいなあ、と改めて笑顔を見せたゆりに、アラスターは心の中で謝罪した。


 背に添えていた左手でさりげなく彼女の後頭部を撫でると、その首の後ろに付けられた「自由の鎖」がアラスターの左手首に巻かれた“手綱”と共鳴してしゃらりと鳴る。エメから託されたこの違法魔道具が早速役に立ったことに、アラスターは複雑な思いで小さく嘆息した。

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