第八十三話 泣きません
ここはどこだろう。
薄暗くてよく見えない。だけど多分、知らない場所だ。
「もう少し、寝ていなさい」
頭を持ち上げようとすると、低音が脳裏に響き、温かいものが額に乗せられた。ほんのりと、薔薇の香りがする。
何かとても悲しいことがあったはずなんだけど、頭がぼんやりしていて今は良く思い出せない。
ふと、よく見知ったはずの背中が遠くへ去って行く情景が過って、思わず手を伸ばした。
「行かないで……」
すると、空を切ったはずの私の手は、大きくて、温かいものに包まれる。何処にも行かないさ、という声が柔らかく響いた。
ああ、良かった。貴方は何処にも行かなかった。私の大切な――。
安堵して微笑みかけると、瞼の上に優しい熱が降ってきて、握られた手に力が込められた。
「おやすみ」
手を包む温かい感触に心地良い重みを感じながら、ぼんやりと浮上していた私の意識は再び沈んだ。
はぁぁぁぁーーーーーーー。
ゆりが再び眠りに落ちたのを確認したアラスターは、空いた手で目元を抑えると深い溜め息をついた。彼の左手は、ベッドの中でゆりに握り込まれている。
ユークレースに空き部屋を案内させてゆりを運び、時刻は既に宵の口。未婚女性の部屋で二人きりで夜を迎える訳にも行かないので、そろそろ辞去せねばなるまい。実際は暗くなる前に何度も何度もこの部屋を去ろうと思ったのだが、ゆりの寝顔を眺めているうちにいつの間にかそれは延び延びになっていた。
ここは三階建ての家具付きアパルトマンの最上階、しかも角部屋。こんな好条件の物件が何故空き部屋なのかと
それにしても今は危なかった。あんなに切ない表情で“行かないで”と懇願されて……無下にできる男がこの世にいようか。――いや、いるはずがない。
脳裏で狼の遠吠えが木霊したが、必死にそれを握り潰した。
「ゆり、すまない。俺は帰らなくては」
今ならまだ間に合う。
今なら紳士の仮面を外さずにいられる。
アラスターは布団を少しだけ捲って繋いだ左手を取り出すと、固く握られたゆりの指を一本一本丁寧に開き、剥がした。
ゆりはもう教会の客人ではない。もう、何も遠慮はいらない。必ず彼女の心を手に入れて、この手も、髪も、吐息も、全て自分のものにする。
家主がどさくさに紛れて例のゆりを昏倒させた薬瓶を置いて帰ったが、前後不覚になった女性を抱いて何が楽しいものか。
俺はゆりの全てが欲しい。だから、今夜は帰らなければならない。
アラスターは自らの手から離れたゆりの指に、甲に、手首に、いくつもの口付けを落とすと、その手をそっと布団の中に戻し、部屋を後にした。目覚めた時彼女が不安にならないよう、たったひとつ目印を残して。
翌朝。
ゆりは自分が見知らぬ部屋で目覚めたので喫驚した。上半身を起こして怖々周囲を確認すると。セミダブルのツインベッドの間、硝子天板のナイトテーブルに一輪の青い薔薇が飾られている。
「アランさん……?」
ゆりはベッドを降りるとその薔薇の花弁に触れた。それは蕾がほんの少し綻んだばかりで、まだここに飾られたばかりのものなのだということが見て取れる。きっと飾ったのはアラスターだ。見知らぬ場所でも変わらず凛と咲くその姿に、ゆりは少しだけ励まされた。
昨日の出来事、その記憶を頭の片隅から手繰り寄せながらゆりは寝室を出る。
神官長から神殿を出るよう警告を受けたその日は一睡もできなかった。翌日は部屋に居るのも辛くて持つものもとりあえず神殿を飛び出し、約束の時間より大分早くユークレースの研究室を訪れたはず――。
ゆりは部屋の住人と鉢合わせする可能性を考え、ひとつひとつのドアをノックしながら確認してゆくが、今のところ人の気配は全くない。家具は一通り揃っているものの、誰かが日常的に生活しているという様子もなかった。バスルーム、キッチン、ゲスト用のベッドルーム……と順に部屋を確かめメインルームに戻ってきたところで、突然玄関の扉が開いて派手な風貌の男――ユークレースが入ってきた。
「やあ地味子。夕べはお楽しみだった?」
「ユークレースさん! ……何がです?? ここは何処ですか??」
「やっぱり何もないのな……。まあ、何もないだろうと思ったから朝っぱらから来たんだけど」
ユークレースは何か書類の入ったらしき茶封筒を片手で扇ぎながら、猫脚のシェル型ソファにぼすん、と腰掛けた。
「えっと、ユークレースさん、私一体……」
「あー、何? そこから説明させるの? あんたは昨日、僕の研究室にいきなりやって来て、いきなり過呼吸になっていきなり倒れた」
正確には倒れさせたのはユークレースだが、どさくさに紛れて全てゆりのせいにする。
「あんたが教会には帰れないと言うから、アラスターを呼んでこの家に連れてきた。ちなみにこのアパルトマンは丸ごと僕の持ち物で家具付き、ベッドルーム二部屋、バストイレ別で人気の東地区の三階角部屋」
「ご迷惑かけてすみませんでした……。それと、ありがとうございます」
ゆりは向かいのカウチに腰掛けると頭を下げる。するとユークレースは二人の間のローテーブルに茶封筒をばさりと投げて寄越した。
「はいこれ、この部屋の契約書」
「えっ?」
「まさかタダで借りられるとは思ってないよね?」
「あ、いえそういう驚きじゃなくて、話が進みすぎてて状況が掴みきれていないというか」
「僕は別に、アラスターを契約主にしてあっちに請求してもいいけど?」
「そ、それはだめです!」
ゆりは慌てて両手を振ると、ちらりと部屋を見渡した。玄関を入ってすぐのこのメインルームは、ゆりが日本で一人暮らししていた八畳の部屋より明らかに広く、センスの良い家具で纏められている。
「……いつかは神殿を出るつもりだったので、いい機会かもしれません。ただ、この家はとっても広くてきれいだから、その……。私のお給料ではお家賃が払えそうもない、です」
更に言えば、教会と決別した場合はその伝手である今の仕事も辞さなくてはならないかもしれない。
「ああそれなら、この建物の共有部分の掃除をしてくれるなら破格にまけてやる。前使ってた管理会社がイマイチで、代わりを探してたところなんだ」
つまりは管理人の真似事をしろということである。ただし、とユークレースが付け加えた。
「保証人が必要だ。あと、誰かと一緒に住むつもりなら同居人の名前も書け。ちなみに同居人は保証人にはなれないからな?」
「同居人……」
「以前、そこらへんをキッチリしてなかったら不特定多数を連れ込んでおクスリパーティー開催してた店子がいたんだよ……」
ユークレースはげんなりとした表情で呟いた。こちらの世界でも大家業というものは決して楽な商売ではないようである。
ゆりが茶封筒から書類を取り出すと、契約書が二通とこの家の周辺の地図が入っていた。更に封筒を逆さにすると、二本の同じ形の鍵が出てくる。この部屋の鍵だろう。ゆりが契約書に目を通すと、最初に三ヶ月分の先払いが必要なものの、確かに家賃は現在のゆりの収入でも十分に払えそうな程の破格が記載されていた。
いつの間にか無言で契約書を熟読するゆりを暫く腕組みしながら見下ろしていたユークレースは、ローブの内側の隠しから上品なインクペンを取り出すとごろりとテーブルに転がした。ゆりがそのペンを手に取ろうとすると、彼の手が上からそれを押さえ付ける。
ゆりが思わず向かいの顔を見ると、明るい空色の瞳がいつになく真剣な光を帯びていた。
「例の
「……本当ですか……?」
ゆりは驚きに目を見開く。死の呪いすら解く伝説級の薬を、彼は一月足らずで形にしてみせると豪語したのである。
「その代わりあんたはこれから毎日僕の研究室で薬の精製を手伝え。それが条件だ。今日も午後から来い」
「えっ、でも仕事が」
「休めよ。仕事の方が大事なのか? ――勇者様の体調より」
“ゆり。オレはもう、大丈夫。ゆりがいなくても、呪いに負けたりしないから”
ゆりはナオトが最後に呟いた言葉を思い出していた。
彼が何を根拠にそう言ったのかはわからない。だが、その言葉には確かな自信に裏打ちされていた。呪いの本質である生命の危機は別として、その精神が呪いに飲まれることはもうない気がした。
何故なら――――
ゆりにそう告げた時の彼の瞳の、魂の輝きは、“勇者”そのものだったから。
だから、三週間。出来る限りの手伝いをして、或いはもう少し早く完成させることができれば。
――間に合うかもしれない。
ゆりの胸に、僅かな希望が灯る。ゆりはうん、とひとつ頷くと、真っ直ぐユークレースを見返した。
「わかりました。ねえ、ユークレースさん」
「なんだよ」
「ありがとうございます」
ユークレースは押さえつけていたゆりの右手をべし、と叩くとソファにふんぞり返って目を逸らした。
「別に、僕みたいな天才が本気を出せばこれぐらい訳ないんだ。……だからこれ以上めそめそ泣いて魔力を無駄に垂れ流したら、許さないからな」
「はい。もう泣きません」
そうだ。薬を完成させてナオトを救うまで、泣いてる暇なんかないんだ。
ゆりはそう心に決めると、にこりと目の前の男に微笑みかけた。
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