第八十二話 ただ、美しいもの

 その日、ユークレースは何年かぶりに研究室の片付けをしていた。今日は午後からやかましい人物が訪ねてくる予定だからである。



「ったく、なんで僕がここまでやってやらなきゃならないんだよ……」



 黒狼騎士団の美しき団長からその女――世間では彼の恋人だと噂されている召し人が回復魔法を行使したと言う話を打ち明けられた時、ユークレースは全く信じていなかった。コイツは恋の欲目でついに頭がイカれたな、と思ったのである。


 だが、それは事実だった。

 その魔力の総量は事情により計りきれていないが、彼女の血、涙、唾液には確かに膨大な魔力が含まれ、枯れた花を再び咲かせ、他人の傷を癒す力があると実験により証明された。実験のため自らの小指を切り、彼女の血をほんの一滴だけ啜ったユークレースは、その驚くほど甘い血が、体内を巡り、傷つけられた小指に収束していくのをその身を以て体感した。

 だが、彼女の体液が持つ力には、それらの実験では証明できない大きな謎が残っていた。


 それは、“魔力の指向性”。


 普通、魔力とはただの無色透明なエネルギーであり、呪文や陣、魔道具の力なしにそれが炎や雷に変わることはない。如何に強大な魔力を持ち、血に魔力が満ちようとも――それは、流しただけではただの血だ。だが、彼女の体液はその身から零れた瞬間、既に強力な癒しの力を持つのである。


 ユークレースのその疑問は、先日の大聖堂での事件で氷解した。

 女は、呪いに飲まれた勇者――原初の獣の理性を繋ぎ止め、騎士団長アラスターの怪我を癒した。ユークレースはその全てを間近で見ていた。


 彼女の力の正体。それは、純然たる意思の力。

 彼女の心には、魂には、他人を愛し慈しむ強い意志が宿っている。彼女の体液には、その意志が巡らされているのだ。


 そこまでわかって、ふと気が付く。

 この娘の癒しの力は、意思が生んだ力だ。

 ならば、仮に彼女がこの先、誰かを殺したいほど憎んだら。この世界を消えてなくなれと願ったら、一体どうなるのか?

 ユークレースは研究者として、関心よりも畏怖を抱いた。

 彼女は本物の聖女か、或いは稀代の魔女かもしれない。評議会はこの娘を宝のように丁重に保護するか、或いはいっそのこと、今のうちに殺した方がいいのではないか。


 そこまで考えたが、娘の能天気な笑顔を思い浮かべるとそれは杞憂のようにも思われた。



 ユークレースは書類や実験道具が無造作に積み重ねられ家具としての面影を失っていた黒い革張りのソファを、なんとか人ひとりが寝転がれるように整理した。そうして一息入れようとそこにどかりと腰掛けた時。



 コンコンコン


 誰かが研究室のドアをノックした。

 ユークレースが誰?と問い掛けると、扉の向こうから現れたのは、今日の午後にここを訪ねてくるはずの娘――召し人の矢仲ゆりだった。


「ん? 何あんた、時間間違えてない?」


「ユークレースさん、お願い」


 ゆりは扉の前に佇んだまま、両手を胸の前で握り込んでいた。


「今すぐ薬を完成させて。私の血、全部抜いてもいいから。ナオトの呪いを解く薬を今すぐ完成させて」


 突然現れて言い募られたので、ユークレースは不快感を滲ませた。


「は? 何言ってるの? 頭打った?」

「お願いします。今すぐ必要なんです」

「意味がわからない。順序立てて話せよ」

「わ、わたし、」


 一瞬下を向いたゆりは、ぎゅ、と両手を握り直す。


「ユークレースさん。私って、なんですか?」

「は?」


 言葉の定義が広すぎる。少なくとも、魔力を操る者という意味でなら彼女は間違いなく魔女だ。


「ナオトが、ナオトに、出ていけって言われたの。神官長が、私は、私は魔女だから、勇者を堕落させるから、このまま居たら、い、異端審問にかけるって」

「教会にそう言われたのか……!?」


 ユークレースが驚愕に満ちた呟きを零すと、彼女は無言でこくんと頷いた。

 教会の言う“魔女”とは、間違いなく女性に対する最大級の侮辱である。呪法を、あるいはそれを絡めた伽の術によって人心を操る存在のことだからだ。

 確かに彼女は魔女にもなれる存在だ。特に神獣人にとっては――彼女の魔力は、本能そのものを鷲掴む呪いと言っても過言ではない。


「だからユークレースさん、お願いです。私、もう教会にはいられない。でもそれだと、ナオトが……。ナオトが、死んでしまうかもしれない。だから、だから今すぐ」

「おい、落ち着け。薬は、いずれ完成する。製法にも目処が立っている。だが、そのためにはあんたの血が大量に」

「それでもいいんです、私は死んでもいいんです、だから、」

「僕を人殺しにさせる気かよ!?」

「お願い……おねが、うっ、……ぁうっ、」


 突然、それまですがるように言葉を捲し立てていたゆりが地面に膝を付いた。ユークレースが慌てて入り口まで駆け寄り顔を覗き込むと、真っ青になり冷や汗を浮かべた彼女は、苦しそうにひゅうひゅうと浅い呼吸を繰り返している。過呼吸の症状だった。


「お、おい、ゆっくり息をしろって! ゆっくり吸って、ゆっくり吐け!」


 ユークレースはそう言ってゆりの背中をバシバシと叩いたが、彼女は喉を裂かれたように音にならない息を漏らしている。そのうち顔色は真っ青を通り越して完全に白く、色を失くした。

 混乱したユークレースは、とりあえず現状を打破しようと慌てて薬品棚から茶色の硝子瓶をひとつ取り出すと、それを彼女の顔に近づける。


 すると、その薬品を嗅いだゆりは――その場にばたりと昏倒した。





 ユークレースから地味子ゆりが倒れた、と連絡を受けたアラスターは、全ての仕事を放り出し光のような速さで魔道研究所にやって来た。

 ノックもなく研究室に入ると、目の前の床に、ゆりが死んだように倒れている。


「フラハティ! どういうことだ!?」

「いや……突然過呼吸になったからちょっとスヤリソウを嗅がせて昏倒させた……」

「そのまま床に転がしていたのか!? 大体、スヤリソウとは何だ!」


 アラスターは慌てて制服の外套を外すと、そのままゆりを包み、抱き上げた。


「だ、だってどこ触ったらいいのかわかんないし。スヤリソウは精神安定剤に使う薬品だぞ!」

「昏倒させるほど嗅がせて問題ないんだろうな?」

「だ、大丈夫、大丈夫さ。も最悪、アヘ顔ダブルピースになるだけだ」

「?? 貴様、何を言っている??」


 アラスターは眉間に皺を寄せてユークレースを一瞥すると、外套に包まれたゆりを一旦ソファーに寝かせた。


「それで。そもそもの状況を説明しろ。ゆりは今日、午後からここへ来るはずではなかったか?」


 

 アラスターに凄まれて、ユークレースはぽつりぽつりと先程のゆりについて説明した。



「……つまりさ、フラれたのかな? 勇者に」

「大方勇者あいつもゆりを異端審問にかけるとでも脅されたんだろう。とりあえず、今日は一旦何処かで預かって……」

「おい」


 アラスターがこの後のことに思考を巡らせようと顎に手を遣り背を向けたところで、ユークレースがいつになく真剣な声音でアラスターの肩を掴んだ。


「一旦ってまさか……。こいつを神殿に返すつもり?」

「返すも何も、ゆりは教会の……」

「返したら、地味子こいつは殺されるんじゃないか?」


 ユークレースの端的かつ真理を突いた言葉に、アラスターは目を見開いた。


「この間の大聖堂での一件、あれは勇者の足下に半魔法アンチマジックの陣が刻まれていたのが原因だ」

「!」

「僕は勇者の足下に魔法陣の光を見た。間違いない。だが、あの後祭壇に上がってそれを確かめようとしたら……そこにシャンデリアと共に、陣の痕跡は消されていた」


 “シャンデリアは魔法陣の痕跡を消すために落とされた。”

 あの時抱いた違和感、疑問に思わぬところから答えを提示され、アラスターは舌を巻いた。


「わかるだろ? 祭事の前に祭壇に魔法陣を刻むのも、あの場でその痕跡を消すのも、教会内部の者にしか出来はしない。つまり、それだけあからさまに動いてるってことだ」


 ユークレースは、これまでのナオトを廻る一連の事件の経緯も、原初派の存在も知らない。そんな彼にすら不信を抱かせるほど、今の状態は異常なのだ。


「……既に奴等は手段を選ばないと」


 アラスターの絞り出すような言葉に、ユークレースはひらりと軽く手を振ってみせる。


「僕はそう思うけどね。いいじゃないか、千載一遇のチャンスだろ? あんたはその地味女をずっと、自分の手元に置きたいと思ってたんだろ」


「……だが……。アーチボルトの屋敷には、連れて行けない」


「なんで?」


 ユークレースは不思議そうに小首を傾げた。

 アラスターはずっとゆりを教会から出したいと思っていたはずだ。普段の様子からして、喜び勇んで連れて帰るのかと思えば、どうやらそうではないらしい。

 ユークレースの不躾な問いに、アラスターは自分に言い聞かせるように目を閉じた。


「俺が連れて帰ったら、それはつまり……。実質的に、俺がことと同義だからだ。彼女の承諾なしに、それはできない」

「はあ、それは真面目なことで。別に既成事実作っちゃえばいいんじゃないの? なんならスヤリソウ貸すよ?」


 両手でピースサインを作りながらその薬瓶を差し出そうとするユークレースを、アラスターは雑に払い除けた。


「弱味につけこむような真似は、俺にはできない」


 この期に及んであくまで紳士的な態度を貫こうとするアラスターに、ユークレースは口の端を持ち上げると、挑戦的にフンと鼻を鳴らした。



「ふうん。じゃあ、僕が連れて帰ろうかな。ついでに僕のつがいにする」



 その言葉に、アラスターが明らかに動揺した。


「! 貴様、女に興味がないはずでは……」

「アラスター、何言ってるの?」


 ユークレースは夜空色の髪を払うと、目の前のアラスターの顎に優美に人差し指を添えた。


「僕は、男も女も関係ない。ただ、美しいものが好きなだけだ。……こいつの顔は地味だけど……、こいつのは、綺麗だと思う」


 言葉を失くして口をパクパクとさせるアラスターに、ユークレースは色っぽく微笑んだ。


「ちょうど家政婦ハウスキーパーが欲しかったし、あんたのお父上達お偉方から早く子孫残せってせっつかれてるんだよ。あー、一石二鳥だね?地味子は魔力だけなら幻鳥族の僕のつがいに最も相応しいもの。まあ、慣らすまでが果てしなく面倒そうだけど……やってやれないこともないかな?」


 そうあられもない台詞を口にした次の瞬間、ユークレースの眼前で風が唸り、その喉元に抜き身の剣が突き付けられた。

 ユークレースが思わず喉を動かすと、目の前の黒騎士は金の眼差しを静かに燃やして彼を睨み付け、かちりと剣の柄を鳴らした。ユークレースは背中に冷たい汗を感じながらのろのろと両手を挙げる。


「冗談にきまってるだろ……」

「ゆりを侮辱するような発言は、冗談でも許さん」


 これだけの独占欲を滲ませながら、あくまで堅物の仮面を外さない目の前の狼に、ユークレースは呆れたように嘆息した。


「……ハァ。じゃあ、わかったよ。僕の所有するアパルトマンのうち、空き部屋をひとつ地味子に貸してやる。それでどう?」


 ユークレースは貴族ではないが、この街に複数の不動産を所有し、所謂大家業で不労所得を得ている。

 アラスターは剣を納めると、小さな声で恩に着る、と呟いた。

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