第八十七話 今夜の決め手
魔道研究所のある旧王城からゆりの新居のある東地区へ向かう道の途中。
何店舗かの商店が並ぶ通りでゆりは数日分の食材といくつかの基本の調味料を買い求めた。肉屋には聞いたこともない魔物の肉が、青果店には見たこともない野菜や果物が並んでいたが、アラスターの「ロック鳥の肉は淡白だが濃いめのソースに合う」だの「ギュレンキャベツの芽は生で齧っても良いが火を通すと甘味がある」だの、流石の貴族らしいグルメぶりに助けられてなんとか買い物を終えた。
「本当にアランさんは、なんでも知ってますね!」
「あくまで食べるのが専門で、調理方法までは知らんがな」
「ふふ……、でも楽しかったです。せっかくだからそのうち中央地区の朝市にも行ってみたいなあ。たくさんお店が並ぶんでしょう?」
中央地区の噴水広場の周辺には、休日の早朝だけ市場の露店が立ち、珍しい食材なども多く並ぶ。
「ああ、そうだ。まあ俺も、見廻りで訪れたことはあっても何かを買ったことはないな。――次の休みに、一緒に見に行くか?」
「わあ! 本当ですか? たのしみ!」
ゆりの言葉にアラスターの顔も綻び、同時に不思議な高揚感が生まれる。先程のような庶民的な店で食材を買い求めることは、貴族であるアラスターにとってもこれまであまりない経験だった。
――この
きっと世界は輝きに溢れ、新しい喜びと発見に満ちているだろう。
帰り道の石畳に夕日が落ち、大きな紙袋を抱えた自分とゆりの長い影が寄り添って伸びている。反対側の空では黄昏がその腕を拡げ、星が瞬き始めている。ただそれだけの風景が、この上なく愛しいものに思われてアラスターの胸を締め付けるのだった。
「――さて」
アラスターに大分手伝ってもらって運び込んだ食材を前に、ゆりは自身の黒髪をくるりと髪紐で纏めあげた。
てきぱきと買ったものを整理し、今夜使わないものはキッチンの横の木箱――魔道具の一種で、中は冷蔵庫ほどではないがひんやりしている――に放り込む。ふと後ろを振り返ると、ゆりがいるダイニングキッチンの向こう、メインルームの玄関の横で騎士団の制服である外套をポールに掛けたアラスターが、所在無さげに立っている。
「アランさん? どうぞ座ってて下さい」
「……ああ」
ゆりが勧めるとようやく、アラスターは手前のソファに腰かけた。
今朝使い方を教えてもらったばかりの魔道具のコンロに火を付け、備え付けの鍋で湯を沸かす。その間にサラダの具材を洗い、切り始める。ここのキッチンはこの世界では最新型らしく、日本のシステムキッチンと比べても遜色ない。
するとソファに座ったアラスターは、背もたれに身体を預けることもなく、背筋をぴんと伸ばしたまま神妙な顔で腕組みしている。
「アランさん、鎧は……脱がないんですか? 良かったら、楽にしてて下さい。家ですし」
「……あ、ああ」
そう言って再びキッチンを忙しそうに往復するゆりの後ろ姿を見ながら、何故この
鎧を脱いだアラスターが飽きもせずゆりの後ろ姿を眺めていると、次第にキッチンから美味しそうな匂いが立ち上ってくる。興味本意で立ち上がりダイニングに足を踏み入れると、目の前のテーブルには既に彩り豊かなサラダが皿に乗せられ並べられていた。
「すごいな……」
短時間での手際の良さにアラスターが感心していると、ゆりが振り返った。
「野菜を切っただけですからね?」
「いや、複数の品を同時に作るのか……。まるで魔法だな」
「もう、大袈裟ですよ! 味がひどくっても知りませんからね」
ゆりの照れた様子に、奥底にしまいこんでいたはずの加虐心が顔を出し、アラスターの耳が思わずぴくりと揺れる。慌ててそれに蓋をすると、アラスターは鍋でスープを煮込んでいるゆりの横に立った。
「そんなに酷い味なのか?」
「だって、調味料が私の知ってるものと少し違うんですもん。……味見してもらえませんか?」
そう言うと、ゆりはたった今自分が口を付けた小皿にスープをほんの少し取り、アラスターに差し出した。少しどきりとしつつそれを口に含むと、それはベーコンの塩味が効いた優しい味付けだった。
「……美味い」
掛け値なくそう思って口に出すと、ゆりは安心したように微笑んだ。
「誰かのために料理を作るなんて本当に久しぶりだから……緊張してたんですけど、大丈夫そうなら良かった」
「いや、本当に美味い。料理人になれるんじゃないか?」
「も~っ! だから、一口だけで大袈裟ですってば。そういうことはちゃんと完成したものを口にしてから言ってくださいね?」
そう言いながら、ゆりは隣で付け合わせに茹でた野菜を食べやすい大きさに切っている。アラスターはその様をまじまじと覗き込んだ。
「器用だな」
「アランさんの大きな剣よりずっと簡単ですよ」
「そういうものか?」
「そりゃそうですよ。試しに切ってみます?」
そう言ってゆりが一旦包丁を置き、柄をこちら側に差し出す。アラスターが戸惑いながらそれを握ろうとすると、「まず、手を洗ってからですよ」と笑顔で咎められた。
結局、アラスターはまな板どころかキッチンごと両断しそうになったので、代わりに食卓にシルバー類を並べる係を拝命した。
そうして、小一時間ほどでテーブルに料理が並びきると、二人は向かい合って座り、食前の祈りを捧げた。
“天の園にまします女神よ、あなたの恩寵に感謝し、この食事をいただきます。富める者も貧しきものも皆同じ卓につき、祝福のうちにありますように”
本日のメニューはロック鳥のもも肉の照り焼きに、付け合わせに茹でた芋とギュレンキャベツの芽、ベーコンのスープとサラダ。パンにはバターが添えられている。
「
ゆりの勧めにアラスターは首を横に振った。
「いや、やめておく」
「普段はお酒は飲まないんですか?」
「いや、飲むんだが……今日はいい。せっかくの料理の味がわからなくなったら困るからな」
本当の理由はそうではなく、アルコールのせいで理性の
酒の代わりにハーブ水を満たし、二人はグラスを合わせる。
アラスターが美しい所作で黙々と料理を口に運ぶのを、ゆりは暫くの間固唾を飲んで見守っていた。
「……どうした」
「えっ、あの……食べ方が綺麗だなと思って……あと、味が大丈夫か気になって……」
「美味い」
「本当ですか?」
「ああ、本当だとも。どれも美味い。ドレッシングは自分で作ったのか?」
「あ、はい。買うの忘れちゃって」
「この肉の味付けは? 甘辛くて食べたことのない味だが、美味い」
「それはこう、私の世界の調味料に似た味のソースがあったので、それをベースに適当に」
「“適当に”か。……天才か?」
「いやそれは言い過ぎかと……」
「そんなことはない。この料理を毎日食べられる生活か……いいな」
「お口に合ったなら、良かったです」
ゆりに言わせてもらえば、本当にただの照り焼きである。偶然醤油に似た味のソースを発見したので、懐かしさから作ってみたのだが。
勧められるまま、ゆりは自分でもそのロック鳥の照り焼きを切り分け、口に運ぶ。
「……あ。ほんとだ。おいしい」
「だろう?」
「私、天才かもしれませんね」
「そうだな」
ゆりが笑うと、アラスターも優しげな表情でこちらを見つめていた。
そんな調子で、食事は始終和やかに進んだ。アラスターはひとつひとつの料理に丁寧に感想を述べ、お代わりを所望した。
「育ち盛りですね」
「……。本当に、美味いんだ」
アラスターの言葉通り、久しぶりに作った料理は自分でも驚くほど美味しく感じた。きっとそれは、一緒に食卓を囲んでくれる人がいるからだろうとゆりは思った。
日本でひとり暮らしをしていた頃は、何を食べても味気ないとしか思えなかった。実家にいた頃も、大抵はひとりで冷えた食事を温め直して食べていたのだ。
それが、こうして同じ食事を分け合う人が隣にいるだけで、こんなにも温かく、嬉しい気持ちになれる。
――この喜びを、“彼”にも知って欲しい。
ゆりはふとそう思い――それ以上は、今は考えるのをやめた。
食事が粗方終わり、では食後のお茶でもという時分になって、ゆりは茶葉を買い忘れていたことに気付いた。仕方なく代わりにミルクを温めて供すると、その間に食器を洗って片付けようとキッチンに立つ。一度下ろした髪を再びくるりと頭の上で括ると、ブラウスの袖を捲った。
アラスターはそんなゆりの後ろ姿を見眺めながらスパイス入りのホットミルクをちびりちびりと嗜んでいる。その優しい味に舌鼓を打っていると、唐突に――それまで幸せな景色の一部だったはずの、ゆりの白い首筋が目に飛び込んできた。
どくん
何故か急に、本能が粟立つ音がする。
「……!?」
体中の血が煮え立つような心地がして、アラスターはミルクの入ったカップを置くと、目元を覆った。一度深呼吸して、顔を上げる。
髪を纏め上げられ
――駄目だ。おかしい。
そう思った次の瞬間には、アラスターは立ち上がり、ゆりの背後からその左手首を掴み取っていた。シンクの水に浸されていた冷たい手から、水が滴りゆりの細い腕を滑り落ちる。
「アラン、さん……?」
ゆりが驚いて肩越しに振り向くと、アラスターは掴んだ手首を引いて強引にゆりを反転させた。背をキッチンに押し付けられたゆりが見上げると、普段は優しい輝きを湛えているはずの薄金の瞳がぎらぎらと遠慮ない輝きでこちらを見下ろしている。
「アランさん……、なに、何か、おかしい」
ただならぬ気配を察し、ゆりが動揺した様子で問い掛けると、僅かに掠れた声が返ってきた。
「ああ。おかしいな。――昨日は耐えられたのに」
「!? 何を――――、んっ……!」
次の問いを待たず、突如としてアラスターは強引にゆりの唇を塞いだ。
キッチンの作業台に頭を押し付けられ、仰け反るような体勢のゆりに、アラスターは性急な呼吸でその熱を伝えた。
「……っふ、……アラン、さ、ぁ」
抵抗しなければ、という心とは裏腹に、熱い舌に翻弄され、身体の奥が震えた。力が入らず下半身ががくりと崩れると、脚の間にアラスターの膝が押し付けられており、それに跨がるような形になってしまう。
舌が絡み、
「ゆり……、何か、料理に入れなかったか――?」
「……え……?」
チカチカと点滅する脳で考えるが、特に何も変わったものは思い浮かばない。と言うより、今日使った食材はどれも日本のものと似て非なるものばかりだったので、どれが普通でどれが特別なものか、ゆりには見当もつかない。
ゆりの手首を作業台に押さえ付けたまま鋭い目付きでキッチンをぐるりと見回したアラスターは、シンクの隅に纏められた野菜の残り屑を見つけ、そこで漸くこの燃え滾る熱の正体に辿り着いた。
「くそ、ヒロコロネギか……」
熱い吐息と共にその言葉を吐き出したアラスターは、ゆりの甘い香りが上り立つ身体からどうにか自身を引き剥がすと、シンクの水を勢い良く出してグラス一杯飲んだ。そうしてなんとか火照る身体と心を落ち着けると、シンクに落ちていた赤い玉葱の皮を摘まみ取る。
「……ゆり、この玉葱は火を通すと素晴らしい甘味と旨味が出るが、獣人が口にすると――興奮作用がある」
「えっ!?」
情熱的な口付けに思考まで溶かされかけていたゆりは、その言葉に一気に身体中の体温が下がるのを感じた。
「あ……それ、青果店のおじさんがおまけしてくれた野菜……。スープやソースの隠し味に使うと、とっても美味しくて今夜の決め手になるよって……。それで私……言われた通りすりおろして、丸々一個スープと照り焼きのタレに入れちゃいました……」
「今夜の決め手か。……なるほど」
ゆりの言葉に、アラスターはもう一度グラスの水を貯めて飲み、嘆息した。
ヒロコロネギはこの世界ではポピュラーな食材であり、一般家庭でも頻繁に料理に用いられる。ヒトが口にしてもなんともないこの玉葱は、一方で、料理店などで使われる際は獣人に配慮してメニューに“ヒロコロネギ入り”と注意書きが添えられていることが多い。つまり裏を返せばその程度で、獣人が口にしたからと言って健康を害するわけではない。
――その日の晩が、少々激しくなるだけで。
“青果店のおじさん”は、若い二人の様子を見てほんの遊び心と良心でおまけしたのだろう。
「あ……アランさん……わたし……ごめんなさい……! 知らなくて……!」
「俺の方こそ、すまない。あんまり上手く紛れ込ませてあるから、腹一杯になるまで気付かなかった」
「本当にごめんなさい……!」
「いや、いいんだ。事を急いてしまって、すまなかったな……」
今にも泣き出しそうな顔でこちらを気遣うゆりに、アラスターは冷静さを取り戻してふ、と笑って見せた。
「ゆり、ひとつ教えてやろう。ブリアーでは昔から、獣人が結婚するとヒロコロネギでキッシュを作って贈り、ひやかす風習がある」
「そうなんですか?」
「ああ。……いつか俺にも作ってくれないか」
「? ええ、アランさんが食べたいなら」
“ヒロコロネギのキッシュが食べたい”
その遠回しの台詞は、獣人のプロポーズの言葉としてしばしば市井で使われる言い回しだった。何も知らないゆりが戸惑いながら頷くと、アラスターはゆりの額にかかる髪を撫で、その上にキスを落とした。
「俺は、いつも腹を空かせている……飢えた狼なんだ」
「ならまた、夕飯を食べに来て下さい」
「……こんなことがあったのに?」
「私が悪かったので……。台無しにしてしまってごめんなさい。また、改めてお誘いしますから」
だって、ひとりでする食事って、寂しくて味気ないんです。
そう言ってゆりが寂しそうな笑顔を浮かべると、アラスターは薄金の瞳を細め、ゆりの頬に手を添えた。
「そうか。なら次は、フラハティを連れて来る。二人きりの食事は、外ですることにしよう」
「はい。ありがとうございます」
恐らくゆりが怖がらないように気を使っての提案だったのだろう。その気遣いをうれしく思ってゆりがにこりと頷くと、アラスターは一歩下がって右手の拳を胸に置き、頭を垂れた。
「ゆり、悪いが今夜はこれで失礼する。素晴らしい食事をありがとう。――食後のデザートもな」
「……!」
そう言って上目遣いにウインクをひとつ送ると、流石のゆりもその意味を理解して頬を真っ赤に染めた。
騎士団の外套を優雅にはためかせゆりの元を辞した彼だったが、欠けた月の照らす帰り道、「やってしまった……」とひとり盛大に肩を落とすのだった。
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