第七十五話 祭壇

 ナオトを見舞い、ユークレースの研究室を訪れた翌日。

 その日はモルリッツの大聖堂で特別な礼拝が行われる日だった。過去にモルリッツの建立に多大な功績を残した偉人が、教会によって聖人として認定された日を寿ぐものである。


 参加は強制ではないが、ゆりも神殿に身を置く者として一般参賀に加わることにした。何よりナオトが教導達と祭壇上に立つと聞いたので、なんとかその様子を見て、彼の無事を確認したいと思ったのだ。



 ゆりが大聖堂の正面、一般の参賀列に並ぼうとすると、そこに一際目立つ派手な風貌の男がいた。


「ユークレースさん!」

「……地味子」


 ゆりが手を振り駆け寄ると、ユークレースはカラフルなメッシュの入った夜空色の髪を払った。


「こんにちは! 今日はいつものローブじゃないんですね」


  今日の彼はストライプ地の白いドレスシャツに黒のトラウザーズで、普段の如何にも研究者然とした黒いローブとは大分趣が異なっている。しかし、かっこいいですね、というゆりの言葉に、あんたは相変わらず地味だな、とその全身を不躾に眺めて返す様子だけは普段通りだった。


教会あいつらは女神の奇跡を科学的に解明しようとする魔道学が嫌いなんだよ。呼びつけておきながら、勝手なもんだよね」


 聞けば、ユークレースは魔道研究所を代表して招待された賓客の立場だが、面倒事を嫌って一般列に紛れ込んでいるのだとか。

 実際のところ彼の人目を引く容姿は目立ちすぎで全く紛れ込めていないのだが、ユークレースの如何にもお忍びです、という態度が可笑しくてゆりは小さく笑った。


「せっかくだからご一緒してもいいですか?」

「別に、いいけど。あんたチビだからこんな後ろからじゃ何も見えないんじゃない?」

「そしたらユークレースさんに肩車してもらいます」

「ハァ!? ……まあ別に、あんた軽そうだからいいけど……」


 ゆりの冗談をそのまま捉え、ユークレースはモゴモゴと呟いた。


「ところで地味子、体調は?」

「?」

「――昨日、散々泣いて帰っただろ。血も抜いたし……」


 昨日、ゆりはユークレースの研究室で涙が止まらなくなってしまい、散々しゃくりあげて目を腫らして帰ったのだ。


「あの……すみませんでした。たくさん泣いたら、すっきりしたからもう大丈夫です。ありがとうございました」

「今後も泣く時は、僕のところで泣けよ。余所で泣かれると思うと落ち着かない」

「えっ……?」

「だってそうだろ!? その涙で高級霊薬ハイポーション何個作れると思う??」


 ゆりは一瞬どきりとしてしまったことを後悔した。



 ゆりが大聖堂へ足を踏み入れるのは、モルリッツへやって来てから二度目だ。一度目は、神殿へやって来てすぐの頃にテオドールに案内されて見学した時である。寝起きしている場所と同じ敷地内にあるにも係わらず、その後足が向かなかったのは単に訪れる理由がなかったからなのだが、流石に教会へ対する敬意を欠いていたかもしれないとゆりは僅かばかり反省していた。


 想像以上に広い大聖堂の内部は多くの市民が集まっていた。何重にも続く優美な尖頭アーチ。円形状の高い天井には全面に青いステンドグラスが配置され、聖教書の一節――女神サーイーが勇者オスティウスに神剣を与える場面が描かれていた。

 その圧倒的な美しさにゆりは思わず息を飲む。今まですぐ隣にありながらこれを目に入れずに過ごしていたなんて、なんともったいないことをしていたのだろうか、と。初めて案内された時はただこの世界、この街に慣れることに必死で建築物をじっくり観察する余裕がなかったのだろう、と今にして思う。


 そうして完全におのぼりさんの様相できょろきょろと堂内を観察しながら、一般参賀者向けの長椅子――ユークレースの隣に座ったゆりは、遥か前方、祭壇の壇上へと目を凝らした。


 赤い天鵞絨ビロードの絨毯の敷かれた広い祭壇。正面には精巧な女神像が微笑みを湛えて鎮座しており、その前に正装を纏った教導や神官長が立っている。



 そして勇者ナオトはそこに――――いた。



 いつも通りのラフな格好のナオトは、いかにも嫌々座らされています、といった風情で、何人かの神官達と並ぶように設けられた壇上の隅の椅子にだらしなく胡座をかいていた。


「もう! お行儀が悪いんだから……」


 ゆりは届かないとはわかっていながらも思わず小言を口にする。しかし、その言葉にはナオトが何事もなく平素通りなことが見て取れたという安堵の色が滲んでいた。

 一方、ユークレースはこれまで勇者ナオトの噂は散々耳にしていたものの、その姿を見たのは初めてだったので、ふうん、と壇上のその姿とゆりを交互に眺めていた。



 やがて、教導の口から女神サーイーを讃える朗々とした祝詞が聴こえ始めると堂内はしん、と静まりかえる。

 祭壇の燭台に火が灯され、神官達から朗唱のようなものが捧げられ。定められた一連の儀式が恙無つつがなく進んだところで、とある人物が大聖堂の中央、祭壇の正面へ続く天鵞絨ビロードの道を歩み始めた。そしてその巻き毛の壮年の後ろに続く黒い鎧の男は、ゆりの見知った人物である。



「アランさん……?」



 ゆりが思わずその人物――アラスターの名前を零すと、神獣人である彼はその僅かな呟きを拾ったのであろう、通路を歩みながら一瞬だけ、ゆりの方へ振り返り微笑んだ。


 髪と腹周りの豊かな巻き毛の壮年はそのまま壇上へ上り、教導達へ挨拶を交わす。そこでようやく、ゆりはその人物がモルリッツの常設議会の議長で、アラスターは賓客兼、議長の警護のためにやって来ているのだと思い当たった。

 アラスターは議長に続き教導達へ黙礼すると、そのまま正面の女神像へ膝を付き頭を垂れた。お決まりの儀礼なのだろうが、その優雅な振る舞いに参賀列から感嘆のため息が漏れる。



 ――まるで、女神サーイーに求愛する勇者オスティウスのよう。



 ゆりは以前読んだ「異界伝説」という勇者と女神の恋愛小説の内容を思い出して僅かに破顔した。



 ガタンッッ!!



 突如、壇上の隅から神聖な雰囲気をぶち壊す無粋な音が響いて皆が一斉にそちらを見遣る。


 そこには、右肩を抑えてうずくまり、荒い呼吸を繰り返すナオトの姿があった。


「ナオト……!?」


 ゆりが大声を出しそうになるのをすんでのところで堪えると、ナオトの足下で何かが光り、円を描くように周囲を飛び回るのが見えた。だが、さざ波のように不審の声を囁き合う一般客は誰一人それに気付く様子がない。

 ゆりが隣のユークレースを見上げると、彼にはそれが見えているらしく訝しげな声を上げた。



「魔法陣の光……? 祭壇に、陣が?」



 その言葉の意味をユークレースに問おうとした時、締め切った堂内に一陣の風が吹き――ゆりの頬をなぞり、ぬるりと壇上へ流れていった。


 いや、違う。

 それは風ではなく、空気中の魔力が一斉にナオトの身体へと流れ込む気配だった。



「これ、まさか――!」



 ゆりが慌てて立ち上がるのと、ほぼ同時。

 ナオトは堂内をびりびりと震わせる咆哮をひとつあげると眩く発光し――そのまま巨大な一匹の獣に変貌した。

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